【歴史散歩】

平成30年 秋の歴史散歩「鎌倉駅から小町・大町の古寺社を訪れる」

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鎌倉駅から小町・大町の古寺社を訪れる

①上の左側=本覚寺本堂
②上の右側=妙本寺総門付近で
③下の右側=同、総門脇での記念スナップ
④下の左側=光明寺の本殿前で
(写真撮影:加藤岩男氏)

参加者(50音順・敬称略)
案内者:持田信廣
岩本恭恵、大岩泰、加藤岩男、杉本仁敏、鈴木美恵子、高野賢彦、竹村紘一、田中真生雄、橋本和子、橋本欣之介、原田信作、山内玄人、横山忠弘
(以上14名)

秋の歴史散歩レポート 竹村紘一

10月6日(土)恒例の秋の歴史散歩が開催された。台風25号の影響が懸念されていたが、会員諸兄の普段の行いを神も嘉し給いたか、当日は素晴らしい秋晴れの好天に恵まれ、持田信廣会員の丁寧且つユーモアを交えた行き届いたご案内にて、熱心な会員14名にて、終日、探訪を楽しむことが出来た。探訪後は大船にて懇親会を行い12名の参加を得て歓談を尽くして散会した。
集合:10時にJR鎌倉駅東口(正面口)

 

本覚寺(日蓮宗)
境内で会長挨拶と人数確認を行い持田会員の挨拶と共に探訪開始。
二世の日朝が身延山から日蓮の遺骨を分骨して移したことから東身延と呼ばれる古刹で佐渡の配所から戻った日蓮が暫く滞在したと伝えられる。日蓮の親交があったとされる岡崎五郎正宗の墓や境内には夷神を祀った夷堂があり、「鎌倉・江ノ島七福神」に数えられ、毎年1月10日にはお神酒が振る舞われる。

 

妙本寺(日蓮宗)
鎌倉幕府の重臣比企能員の館跡。頼朝の嫡男・頼家の岳父であった比企能員は幕府内に勢力を得ていたが、頼家の弟・千幡(後の実朝)の後ろ盾になっていた北条時政に謀殺され、比企ヶ谷の屋敷に立て籠もった一族も幕府軍に攻囲されて滅亡した。乱後、焼け跡の中から見つかったという六歳で死んだ頼家の嫡子・一幡の袖を祀る振袖塚があり多くの人の涙を誘う。

後に能員の末子・能本(よしもと)(当時二歳は助命され後に京へ行き、出家し順徳天皇に仕え、承久の変で順徳天皇が佐渡へ流されるとそれに同行した)が四代将軍頼経の御台所となっていた竹御所(源媄子(よしこ)。鞠子)頼家の嫡男・一幡の同母妹)の計らいで鎌倉へ戻り、竹御所没後にその菩提を弔う法華堂を建立した。

文応の事件(執権北条政村の娘が比企氏の怨霊に取り憑かれるという事件)によって北条氏により比企氏の怨霊供養として比企ヶ谷に内に若狭局が身を投げたとされる井戸に蛇苦止堂建立し比企氏の怨霊供養として法華堂を建立、これが後の比企氏の菩提寺となる妙本寺の前身であると見られる。

妙本寺境内には竹御所の墓や前田利家の正室で利長の母であった芳春院の墓もある。

 

常永寺(日蓮宗)
寺伝によれば、鎌倉時代に源頼朝が山上に由比ケ浜を遠望するための桟敷を作ったのが起こりとされている。ここを守護していた印東祐信の妻の日蓮宗の尼僧(「浅敷の尼」といわれる)が、文永八年(1271年)の龍ノ口法難の折り、処刑のため刑場(龍口寺)に引かれて行く日蓮に胡麻ぼたもちを捧げた、という伝承がある。

この後に日蓮は刑を免れたことから「御首継ぎに胡麻の餅」として有名になった。法難に遭った毎年9月12日には、参詣人にもぼたもちが供養接待されている。

 

八雲神社
社伝によれば、永保年間、兄・義家の苦戦を聞いた源義光が奥州へ向かうのに際し、鎌倉に疫病が流行しているのを見て、京都祇園社の祭神を勧請し、祭ったのが始まりと伝えられる。

応永年間には、義光の子孫である佐竹氏の屋敷に祀られていた祠が合祀され、佐竹天王と称した。祇園社の祭神であった牛頭天王は明治以降には仏教の神である牛頭天王は除外され神道の須佐之男命に習合した。

 

別願寺(時宗)
別願寺は時宗派の寺。弘安五年(1287)、公忍上人(後に覚阿)が真言宗能成寺を時宗に帰依し、別願寺とした。
鎌倉における時宗の中心となった別願寺は、室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。本堂脇に大きな石造宝塔があり、四代鎌倉公方足利持氏の供養塔と伝えられるが実際には鎌倉期に作られたと見られる。

 

安養院(浄土宗)
寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という三つの寺院が関係している。長楽寺は、嘉禄元年(1225年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷(はせ)笹目ヶ谷(ささめがやつ)(鎌倉文学館付近)に創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。

長楽寺は元弘元年(1333年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は建久三年(1192年)頼朝の旗揚時からの近臣田代信綱が比企ヶ谷に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。

本堂内には寺の本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代)の背後に札所本尊の千手観音立像(江戸時代)が安置されている。本堂裏手に二基に宝篋印塔があり左が政子の供養塔で右には徳治三年(1308年)の銘があり年号が確定出来る貴重なもので重文に指定されている。

 

来迎寺(時宗)
来迎寺は、鎌倉の材木座と西御門)の二ケ所にある。材木座の来迎寺は、源頼朝が建久五年(1194年)に頼朝旗揚げの時に頼朝に加勢して平家方の軍勢と闘い、八十九歳で戦死した三浦半島の衣笠城主・三浦大介義明の冥福を祈って建てた真言宗・能蔵寺という寺があったといわれている場所であったが、開山の音阿が時宗に帰依したため、改宗して、寺の名前も来迎寺と改められた。

本堂には本尊である阿弥陀三尊像と、子育て観音といわれる聖観音)が祀られている。
また境内には、三浦義明の墓と、石橋山の戦いに敗れ三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠軍と戦い十七歳で戦死した多々良三郎重春(三浦義明の四男・多々良義春の子)の墓といわれる大きな五輪塔がある。

 

五所神社
江戸時代までの材木座は、乱(みだれ)橋村(ばしむら)と材木座村の二村からなり、元の乱橋村には三島社、八雲社、金毘羅社が、材木座村には諏訪社、視女八坂社の五社が鎮座していた。明治四十一年(1908年)には五社が合祀され五所神社となった。毎年六月に行われる五所神社例祭の乱材(みざい)祭りは人気が高い。

社殿脇には小さな建物には弘長二年(1262年)の銘が刻まれた板碑や庚申塔が遺されている。また、掲題の片隅に隠れキリシタンと伝えられる「お春」像がひっそりと遺されており見る人の涙を誘う。

 

補陀洛寺(ふだらくじ)(真言宗)
源頼朝の祈願所として建立された寺。開基は源頼朝で開山は頼朝旗揚げに貢献したとされる文覚上人(元は武士で摂津渡邊党の武士で遠藤武者盛遠。同僚渡邊渡の妻・袈裟御前に懸想して誤って袈裟御前を殺した罪を償うために出家したという)。

頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺[2]、江の島弁財天 など、各地の寺院を勧請し、寺領を回復したり建物を修復したりした。後年は政治にも深く関与したとされる。竜巻や火災にたびたびあっていても仏像等は残っていて本堂には数多くの仏像が安置されている。

正面中央に本尊「十一面観音菩薩」(平安末期の作で創建当時のものか?)が安置され、ご本尊左に日光菩薩、月光菩薩を配した薬師如来像(薬師三尊)。さらに、地蔵菩薩、弘法大師像、愛染明王。ご本尊右に不動明王(二体)、千手観音、弘法大師像、毘沙門天、などが安置されている。

薬師如来及び両脇侍像(中尊は行基、脇侍は運慶作との伝があるが、江戸時代の作とも)、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩など多くの仏像が安置されており、平宗盛が最期まで所持していた平家の赤旗もある。明治元年に寺が火災で建物は全半壊した際、これらの仏像類が全て無事であったという記録も残っている。

 

実相寺(日蓮宗)
工藤祐経の屋敷跡。実相寺の境内は、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡で、文永八年(1271年)に、日蓮の弟子・日昭が、日蓮が佐渡流刑中に一門の教化・統率の拠点として開いた濱土法華堂が始めとされ、日蓮入滅後の弘安七年(1284年)に濱土法華堂を寺とし、法華寺としたのが始まりである。

 

上行寺(日蓮宗)
本堂は明治十九年(1886年)に名越の妙法寺の法華堂を移築したものといわれており、堂内には日蓮上人像や開山の日範上人像、水天像などが安置されているほか、格天井には花鳥の絵、欄間には十二支の彫刻が施されている。

境内には万病、特に癌封じに効があるといわれている瘡守稲荷堂や、大小の鬼子母神を祀る浄行堂がある。また、山門には左甚五郎作といわれる竜の彫物が、本堂の表欄間や梁などには熊本藩の大名細川氏による竜の彫物がある。

万延元年(1860年)、桜田門外の変で大老の井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人である広木松之介は、鎌倉へ逃れた際に上行寺に匿われたというが、同志が刑死した事を知り、二年後の文久三年(1863年)の三月三日に切腹したという。境内墓地には松之助の墓があり、大正五年(1916年)には石碑が建造された。

 

九品寺(浄土宗)
新田義貞が自身の本陣を構えた場所に、鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、建武三年(133年)風航順西を開山として創建したものと伝えられる。山門と本堂に掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、義貞の筆の写しと伝えられ、直筆と伝えられる額は本堂に保存されている。

浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生があり、合計九ツの往生があるという考え方。九品仏はそれを表した九体の阿弥陀仏のこと。

九品仏では大井町線の九品仏の駅にある浄真寺が有名である。

 

光明寺(浄土宗)
三門、本堂共に大規模であり鎌倉五山に勝るとも劣らない巨刹である。
寺伝によれば、開基は四代執権北条経時、開山は浄土宗三祖然阿良忠であり、仁治元年(1240年)佐助ヶ谷に開創した蓮華寺を起源とし、寛元元年(1243年)現在地に移築し光明寺と改称したとされるが異説もある。

室町時代には中興開山とされる祐(ゆう)崇(そう)上人(しょうにん)によって復興された。明応四年(1495年)には後土御門天皇より勅願寺に定められている。 近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。庭園は小堀遠州作と伝える蓮池を中心とした庭と、「三尊五祖来迎の庭」と称する枯山水庭園がある。

また、近くの蓮乗院、千手院は共に浄土宗で光明寺の支院。蓮乗院は光明寺が佐助ヶ谷から移転する前からこの地にあったもので、光明寺完成まで住職がこの寺に滞在した故事から現在でも光明寺の住職が代わる際には、新しい住職は一旦、この寺に入ってから、光明寺に行くことが慣習化された。

内藤家墓所は陸奥国磐城平藩から日向国延岡藩の領主となった内藤家歴代の墓所で、歴代藩主の多くやその正室など二百基以上の石塔が立つ。江戸の霊巌寺から移されたものである。当日は入口が閉鎖されており拝観は出来なかった。

内藤家は三河の内藤氏は家長の祖父の代から松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄であり、父・内藤清長が晩年になって儲けた子の家長は徳川家康に仕え、義兄の内藤信成から内藤家の家督を譲られて跡を継いだ。

家長は元忠、家忠らと共に関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で戦死したが、その跡を継いだ政長は父の功績と自らの手柄により上総佐貫藩主を経て陸奥磐城平藩主。延岡藩内藤家宗家初代となり幕末まで続いた。
(竹村紘一)

平成30年 春の歴史散歩「豪徳寺・松陰神社方面へ」

豪徳寺・松陰神社方面
豪徳寺・松陰神社方面

「豪徳寺・松陰神社方面へ」 (竹村紘一)

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秋の歴史散歩レポート (小林道子)

4月7日(土)竹村紘一会長の案内で、恒例の歴史散歩を実施した。明け方まで嵐のような天候で心配していたが、午前には天気も回復した。
集合場所の小田急線豪徳寺駅には参加者11名が集まり、豪徳寺から松陰神社まで世田谷の名所を散策した。

豪徳寺→世田谷城址公園→大場代官屋敷・世田谷区立郷土資料館→松陰神社

午後1時半に豪徳寺駅を出発し、商店街と住宅街を抜けて豪徳寺へ。
豪徳寺は世田谷城主吉良政忠が文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のため、臨済宗弘徳院として創建したと伝えられる。

天正12年(1584)、門庵が住職となり曹洞宗に改めたが、寛永10年(1633)、世田谷領が彦根藩領となり豪徳寺が井伊家の江戸における菩提寺になったことから、寺号を藩主井伊直孝の法号より豪徳寺と改号した。境内には三重塔・梵鐘・石灯籠二基・仏殿木像五体など、数多くの文化財がある。

この寺には招き猫伝説があり、一説によると招き猫発祥の地とされている。猫を祀った「招福殿」の横には無数の招き猫が奉納されていたが、あまりの数に驚いた。豪徳寺の招き猫は右手を上げたシンプルな猫である。

六地蔵の奥に彦根藩井伊家の墓所(国の史跡)があり、桜田門外の変で水戸浪士に暗殺された井伊直弼の墓(都史跡)もある。井伊直孝や井伊直弼の墓に手を合わせた後、世田谷城址公園に向かった。

かつてこの公園には武蔵吉良氏の居城世田谷城が存在し、豪徳寺は本丸だったと考えられる。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に世田谷城も陥落した。

世田谷城址公園を後にして「世田谷ボロ市」で有名なボロ市通りを歩くと、大場代官屋敷の茅葺きの門が見えてきた。
大場代官屋敷は江戸時代彦根藩井伊家の代官を務めた大場家住宅兼役宅である。寛永10年(1633)、世田谷領が彦根藩領になったとき代官に任じられ、明治維新まで官職を世襲した。茅葺き屋根の主屋と表門が、国の重要文化財に指定されている。

代官屋敷に入ると大きな玉樟(タブノキ)が目に入り、手入れのゆき届いた樹木が私たちを迎えてくれた。
世田谷区立郷土資料館は代官屋敷と同じ敷地にあり、23区初の公立地域博物館だそうだ。世田谷地域の歴史民俗資料の保存や収集研究を行っている。収蔵品は旧石器時代から弥生時代までの土器のほか、大場家に残る文書などがある。

2F常設展示室では原始・古代・中世・近世・近代・現代の資料が豊富に揃い、歴史を学ぶ歴研メンバーも十分満足できた。最後に訪れた松陰神社は幕末の思想家吉田松陰を祀る神社だ。

小塚原で処刑後、遺体をこの地に運んで神社が建てられた。ここで邪馬台国の会会長の内野勝弘さんと合流し、復元された松下村塾(土日の日中公開)の見学と吉田松陰の墓参りをした。

神社から松陰神社前駅まではお洒落なカフェや美味しそうなパン屋が並ぶ商店街を歩き、世田谷線に乗って終点の三軒茶屋駅を目指した。懇親会の会場は三軒茶屋駅南口側にある居酒屋「村さ来」で行い、内野勝弘さんを含む11名が参加した。

ここではお酒や料理を楽しみながら今日のコースを振り返り親睦を深めた。
(小林道子)

参加者(五十音順 敬称略)
浅見・岩本・川瀬・久保・小林(道子)・杉本・竹村・橋本(和子)・持田・横山・渡邊
途中参加内野勝弘氏(邪馬台国の会会長)

平成29年 秋の歴史散歩「静寛院宮(皇女和宮内親王)様奉賛法要へ」

平成29年秋の歴史散歩

「静寛院宮(皇女和宮内親王)様奉賛法要に参列して」 (竹村紘一)

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秋の歴史散歩レポート (小林道子)

10月2日(月)、今回は増上寺大殿で行われた「静寛院宮様奉賛法要」に参列した。公武合体の象徴として天皇家から十四代徳川家茂公に降嫁した、和宮親子(ちかこ)内親王の法要である。

案内人は平成27年9月に『静寛院宮様御一代記』を出版され、静寛院宮様の法要には何回も参列しておられる当会会長の竹村紘一氏だ。増上寺の歴史についても大変詳しい。

ひと雨ありそうな空模様だったが、参加者の日頃の行いが良いのか最後まで傘は必要なかった。

参加者は横浜歴研、史友会、江戸の歴史研究会、シニア活動の森など他団体からの参加者もあり、33名と大盛況だった。午後1時から法要が行われる大殿本堂ではお寺で席を用意してくださっており、予定より参加者が増えたにもかかわらず、まとまって座ることができた。

今回の法要は大僧正の八木季生様が所用で不在であったため、代理で友田執事長が勤められた。徳川恒孝(つねなり)氏と夫人、そして和宮様の母方の御実家である橋本家からも関係者が参列されていた。

淑徳中学校・高校の聖歌隊による仏教聖歌や和宮様を讃える歌の合唱があった。白いブレザーにベレー帽が伝統のユニホームだそうだ。雅楽演奏に続き、友田執事長の読経や僧侶たちの迫力ある読経を拝聴することができた。

徳川宗家や橋本家ら関係者が焼香され、その後に一般参列者も順番に焼香した。(当会のふたりの橋本さんは一般席での焼香)

法要が終わると、増上寺別当最勝院の村田洋一住職による「徳川家の姫たち」という記念講演があった。二代秀忠公の正室お江や十四代家茂公正室和宮様など、歴史研究会に加入している私たちにとって、大変興味深い話だった。

法要がすべて終わってから、本日参加した私たちは特別に来賓室へ案内していただき、お茶とお菓子の接待を受けることが出来た。これは今までになかったそうで、竹村会長はとても感激されていた。

4時半から二次会の予定をしていたので、それまでは自由に境内を散策し、徳川家墓所参拝や宝物展示室の見学をした。増上寺では2011年秋に三門(三解脱門)の特別公開をしたことがある。戦後初めての一般公開だったので、これを拝観するため列に並んだことを思い出す。

三門(三解脱門)の説明板には慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されたと書かれている。この門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で重要文化財に指定されている。

急な階段を上ると、楼上内部には中央に釈迦三尊像、左右に表情豊かな十六羅漢像が安置されている。境内からは、東京タワーやビルをバックに増上寺の写真を撮ることができ、同じ空間に寺と近代建築が存在する不思議な光景が見られる。芝周辺は芝東照宮や芝大神宮、東京都指定史跡の芝丸山古墳などがあるので、見どころ満載の場所である。

歴史散歩の後の二次会会場は大門そばにある地鶏焼・家庭料理の店「寿々木」だった。予約した人数より大幅に増え、参加者は29名。奥の座敷とテーブル席に分かれて乾杯した。ホームページを見て今回初めて参加された谷口海さんが、二次会にも出席されたので、会の平均年齢がだいぶ下がった。アルコールが入ると歴史談義で盛り上がり、皆で楽しいひと時を過ごした。
(小林道子)

平成29年 春の歴史散歩「伊勢原市内の寺社と史跡を歩く」

「4月1日が天候不順のため、残念ながら中止となりました。」

平成28年 秋の歴史散歩「玉縄の古社寺や史跡を訪ねる」

H28年秋の歴史散歩

平成28年 秋の歴史散歩「玉縄の古社寺や史跡を訪ねる」  持田信廣

10月1日(土)恒例の秋の歴史散歩が開催された。天気予報は曇り時々雨であったが、幸運なことに一日中雨は降らなかった。好奇心旺盛で歴史探訪に熱心な人たち15名が集まり、和気あいあいの楽しい一日となった。

大船西口からバスで出発、渡内日枝神社の参拝から始まった。この神社は天慶年中(938~947)平良文がここ村岡に屋敷を定め、守護神として大山咋命を祀ったのがはじまり、その後三浦から福原氏が移り住み、この神社に平良文を合祀したと伝えられる。神社の登り口には近在から集められた庚申塔など石像が多数あった。

次の訪問地二伝寺へ向かう。この寺の前の道は鎌倉街道上ツ道。元弘3年5月18日鎌倉攻めの新田義貞軍と、鎌倉を死守する北条方が戦ったのはこのあたりと推定される。
新田方の武将・飽間孫三郎宗長、同孫七家行等(元弘青石塔婆・国重文より)はここで討死したのである。二伝寺(浄土宗)は初め渡内村の福原氏が創建したが、のち玉縄初代城主北条氏時が永正9年(1512)再建した寺。墓地には豊臣秀吉の小田原攻めで開城した玉縄城に新たに城主となった徳川家康の家臣・松平正次と正室、さらに直系の子孫の墓が、江戸時代特有の大きな宝篋印塔で並んでいる。またこの寺の裏側台地に登ると坂東八平氏の祖といわれる平良文の宝篋印塔、直系の忠光・忠通の五輪塔が草むらの中にひっそりと安置されていた。このあたり横山さん、山内さんの適切な解説をいただき有難うございました。

次は急坂の下りを慎重に降りバス道路にでると、道路をはさんで久成寺(日蓮宗)の入口になる。永正17年(1520)小田原北条氏の家臣梅田尾張守秀長が屋敷を喜捨してこの寺を創建した。源実朝を暗殺した公尭を斬り殺した長尾定景(子孫には関東管領を受け継いだ長尾景虎こと上杉謙信がいる)の墓がある。

この墓所には長尾台から移された多数の五輪塔が安置されていたが、案内の石碑に長尾家君羊○と書かれて意味不明であったが、橋本さんが「それは長尾家群塔」と解説してくれたのは見事であった。

次に訪れたのは玉縄城初代城主北条氏時が、永禄年間に創建した城護山円光寺(古義真言宗)、この寺は玉縄城円光寺曲輪にあったが廃城後現在地に移された。

続いて貞宗寺(浄土宗)へ向かう。この寺は徳川二代将軍秀忠を産んだ家康の側室お愛の局の生母「貞宗尼」がここの屋敷に住み、亡くなるとこの屋敷を寺とした。御霊屋には貞宗尼の墓といわれるすっきりとした宝篋印塔が安置されている。

コーナンで昼食を済ませ、午後は山城である玉縄城の大手門を目指して登る。玉縄城は北条早雲が三浦道寸を攻略する足場として永正9年(1512)築城した城で、自然の天険を利用した堅城である。我々は大手門跡や太鼓櫓跡、大手門に通じる七曲坂を下って諏訪神社へ。

この神社は玉縄城東側の最高部土塁上に祀られていたが、元和元年(1619)廃城とともに村人が現在地に移した。近くにあった御霊社も同時に合祀した。

次は玉縄北条氏の菩提寺である龍宝寺(曹洞宗)を訪ねる。秀吉の小田原攻めのとき、龍宝寺の住職と大長寺住職の必死の説得により玉縄城は開城した。この寺には玉縄城の歴史や地形を展示するミュージアムや名主を務めた石井家(国重文)の17世紀の住居が移築展示されている。

いよいよ最後の訪問先「玉縄首塚」である。大永6年(1526)安房の武将・里見義堯が攻めて来たとき、玉縄城主北条氏時・福原氏や甘粕氏も防戦に参加、このときの戦死者を葬ったのがこの塚である。説明の石碑に攻め入ったのは里見義弘とあるが間違い。義弘は弘治2年(1556)に鎌倉に入り、太平寺の青岳尼を奪って妻としている。
皆さまの協力により、楽しく無事終了することができました。有難うございました。

平成28年 秋の歴史散歩「玉縄の古社寺や史跡を訪ねる」レポート

>>歴史散歩レポート (浅見 実) はこちら→

平成28年 春の歴史散歩 「小田原の歴史めぐり」

①小田原城天守閣を臨む

小田原城天守閣を臨む 参加者の記念撮影 (撮影 武士俣 光也氏)

春の小田原 日帰り探訪  竹村紘一

4月2日に小田原への日帰り探訪ツアーを実施、天候は終日曇り空ではあったが、参加者は21名と最近にない盛況であった。小野田さんが久しぶりに会員に会うとして小田原駅まで来られ、久闊を叙す場面もあった。

10時半にJR小田原駅東口出口に集合して、まずは、徒歩数分の商店街にある北条氏政・氏照の切腹場所に詣でる。天正十八年(1590年)、合戦の責任を負わされた氏政、氏照兄弟は医者の田村安斎の宿所で切腹。関東の支配者として名を轟かせた北条氏の当主としては極めて侘しい最期であった。当主は五代氏直であったが隠居の身である父親の氏政と叔父の氏照が責任を取らされた。介錯は弟の氏規が務めた。氏規は兄二人の跡を追って自決せんとしたが、検死役に止められたという。

②小田原城主3代墓

北条氏政・氏照の切腹場所 (撮影 武士俣 光也氏)

氏直は徳川家康の娘婿(妻は家康次女督姫。氏直没後に池田輝政に再嫁)であり氏規は家康が今川家に人質であった時に同じく人質であった氏規は駿府での住居が隣同士で親交があったと伝わる。家康の縁と氏直も氏規も和平恭順派であったことから寛大に扱われたと考えられるのである。戦後は、北条氏直に従って高野山に赴く。後に秀吉に許され、天正十九年(1591年)には河内国丹南郡二千石、文禄三年(1594年)には河内国の河内郡狭山にて七千石を宛てがわれ、万石以下ながら狭山城主として遇された。没後、嫡男の氏盛(従兄弟である氏直の養子でもあった)が継ぎ、氏直の下野の遺領四千石と合わせて一万一千石となり大名となった。

その後、お堀端通りに出て小田原城に向かうが途中、山内理事発案で堀の跡が見える小道を越えて、郵便局横の国道一号線に出た。向かい側に有名なだるま料理店が見えた。地元の網元だった廣澤仁三郎が創業した料理店。仁三郎は金沢の達磨(たつま)勘兵衛の次男として生まれたが、小田原の割烹「天利」を営む廣澤家に養子として入り、明治二十六年(1893年)、足柄下郡小田原町大手前で創業。屋号の「だるま」は、仁三郎の旧姓に由来する。当初は昼食をここでと考えていたが、時間の関係や予算面での問題もあり外観を見るだけに止めた。

一号線を城に向かい二ノ丸に架かる赤い橋(学び橋)を渡り、小田原城銅門から城内に入り、枡形や隣の馬出門も見学した。二ノ丸公園でおでんサミットと骨董市場が開催されており大盛況。特別に銅門の上の櫓が見学出来るとのことで櫓に上り中を見学、その後、天守閣に向かう。工事中であったが、蓋いは外されており優美な天守閣を望むことが出来た。常盤木門前と天守閣前広場で恒例の武士俣理事による記念撮影。

③小田原城内竹村さん

引率者・理事竹村紘一氏による小田原城広場の説明 (撮影 武士俣 光也氏)

④小田原城記念写真

小田原城銅門にて記念撮影 (撮影 武士俣 光也氏)

現在の天守閣は、昭和三十五年(1960)、市制二十周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。小田原城天守閣は、耐震改修工事及び展示リニューアルのため、残念ながら平成二十八年四月下旬まで閉館となっていた。

天守閣前広場で昼食の為に一旦解散し13時半に時計台前に集合とし、各自、それぞれに昼食(おでんサミットや広場にある飲食店や模擬店や弁当等)を終え、その後、城内にある報徳二宮神社へ向かう。

二宮尊徳(たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。境川の氾濫で田畠を失って窮乏した実家を、才覚と途方もない努力により立て直し、小田原藩家老服部家の放漫な家政改革で認められ、小田原藩の藩政改革にも参画し、後には幕府にもその実績を認められ数多くの農村の立て直しに尽力し成功を収めた。「積小為大」や「入るを量って出るを制す」をモットーとし、経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる各地で農村復興政策を指導し成功した。功ある者を賞しインセンティブを高めたと伝えられている。

神社を出ると三ノ丸小学校があり、その先に大正天皇が皇太子時代に所縁があった「御感の藤」があり藤棚と案内板を見た後、一号線に出て「ういろう本店」を見学。店の好意で土蔵の見学が出来た。パンフレットも充実しており店員や山内理事の解説もあり勉強になる。山内理事が二代目団十郎が得意としていたという「外郎売り」の口上のさわりの部分を披露され一同大いに感服した次第でありました。

⑤外郎本店山内さん

城郭を模した老舗「ういろう」本店で理事山内氏の説明を聞く。同氏の「外郎売」の口上が披露された (撮影 武士俣 光也氏)

その後、一号線を箱根の方へ向かい、早川口交差点を越えて居神神社へ向かい、祭神の三浦荒次郎義意の壮絶なる生涯の解説や卒塔婆や庚申に関する面白い話を聞く。神社の横に春日局開基と伝えられる光円寺があり(稲葉正勝が、大久保氏や阿部氏の跡を受けて小田原城主になるが、正勝は春日局の実子)この寺が小田原宿の西端であった。

近くに豆相人車鉄道跡があり持田古老より人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていたとの興味深い話があった。当時、東海道線は小田原や熱海は通っていなかった。光円寺を出て横断歩道を渡り少し早川口方面へ戻ると大久保氏菩提寺大久寺がある。

大久寺は徳川十六神将の一人で小田原大久保氏の初代七郎右衛門忠世を開基とする寺。天正十八年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後、積年の功を賞され、小田原城四万五千石が与えられ城主となる。この時、忠世は日頃から帰依していた僧を二俣から招聘して寺を建立した。

慶長十九年(1614)二代相模守忠隣の時、大久保家が改易になると、寛永十年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・外祖父の石川日向守家成の養子となり家成流石川家を継ぐ)が大久寺を江戸下谷に移した(教風山大久寺)。その後、大久保新八郎康任(忠世の伯父忠俊の玄孫)が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けている。

墓石は忠世以下全部で七基あり前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。

その後、早川口交差点へ戻り、早川口遺構を見学。遺構は、北条氏が豊臣秀吉との合戦に備え、天正十八年(1590)までに小田原城とその城下を囲う周囲約9kmにも及ぶ大規模な空堀と土塁を築いた。早川口遺構は、二重外張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっていることから、この付近に出入口である虎口があったと考えられている。この遺構は、小田原城総構の南西に位置し、低地部で見ることのできる数少ない土塁跡のひとつで、現在も各所に総構の名残を示す堀や土塁の痕跡が残る。

その後、箱根板橋駅に向かうが途中、持田古老の案内で地蔵尊(身の丈一丈の大座像で弘法大師彫造の御真体を胎内に安置)で有名な金龍山宗福院へ立ち寄る。残念ながら地蔵尊は窓越しで暗くて良く見えなかった。外に大黒天がありこれもなかなかに立派であった。一月と八月の板橋地蔵尊の大祭には、旧東海道の町並みの両側に多数の露店が軒を連ね、大勢の参拝客で賑う。また、この日に詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えると言われている。

その後、国道一号沿いの早川用水取り入れ口を見学。国道一号線を湯元に向かうと戊辰戦争の激戦地である三枚橋があるがそれは割愛し、箱根板橋駅で乗車し小田原駅へ向かい、駅構内で解散式を行い、残った有志19名で駅側の魚民で反省会を兼ねた懇親会を行い談論風発、大いに盛り上がった春宵一刻であった。

平成28年 春の歴史散歩「小田原の歴史めぐり」レポート

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