研究発表(2018年)

第338回平成30年12月月例会

研究発表

演題①  「和田氏の乱と三人の先二郎の謎」
講師: 山内玄人氏

演題②  「歴史雑感・番外編」
講師: 瀬戸淳氏

月例会レポート

★第338回例会を12月16日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。当日の参加者は、24名。とにかくこのところ寒い日が続いている、そのためか参加者も例月に比較して少ないようだ。

★最初の講演は、山内玄人理事により、「和田氏の乱と三人の先二郎の謎」についてお話をされた。鎌倉幕府がスタートしてから2,30年後の建暦3年(1213年)の和田義盛の乱は、鎌倉市内を舞台に繰り広げられた。稲村ヶ崎、若宮大路等、今では土日となると特に観光客でごった返すところが激戦地であったらしい。

そのなかには、和田方大将軍六人の一人として活躍して捕らえられ斬首された『山内先二郎』という武士がいた。その先二郎とはどのような人物であったのか。源氏御曹司の乳母を務めた山内首藤氏の一族と見る歴史家も少なくないようだ。

しかしながら、これには理事は疑問を持たれた。愛読している吾妻鏡には、同時代には、他に同名の『岡崎先二郎』や『土肥先二郎』も登場するのだ。はたして『先二郎』とは、何者であろうか。山内首藤氏と特定しても良いのであろうか。

膨大な歴史書・吾妻鏡のなかでの、謎解きの散策が始まった。微に入り細にわたり、あらゆる可能性を疑い推考をされていかれた。

自分の親族が住む家のすぐ近く、徒歩5分程度のところに佐奈田与一ゆかりとされる證菩提寺がある。その家に行くとき、そこの寺の前を、通らねばならない。何の知識もなく、変わった名前の寺だなと思い、ここをいつも通り過ぎていた。

JR大船駅から、バスに乗り、環状4号線に沿って行き、稲荷森の停留所を降り、證菩提寺を経て、親族の家に行っていた。途中稲荷森までに、往時の山内荘荘域内の地名が残るバス停の『笠間十字路』『公田』『中野町』等を通り過ぎていたが、まったく気がつかなかった。何気ない見落としがあった。

★次の講演は瀬戸淳氏により「歴史雑感・番外編」と題する独創的で意表を突いた、また興味あるスピーチを3題された。

(1)最初は、『末摘花』、すなわち源氏物語に出てくる女性についてであった。決して美女とは言えない滑稽なまでに大きな赤鼻の娘であった。

源氏は哀れんで世話をした。その娘は顔全体の色は白く、鼻が長いこともあり長顔に見える。さらには背丈もたかい。氏はひらめいた。これはコーカソイド(白人種)を想起されると。さらには、一時期、アイヌは形質的にコーカソイドとされる時期があった。

彼女の父親の任地は北関東の常陸の国であり、あるいは母親がアイヌかアイヌ系の人物であったのではないか。そのことから、末摘花はアイヌであるという説を唱えられた。

(2) そして、『李香蘭』。映画女優、歌手、政治家。山口淑子についてである。夜来香、支那の夜等のエキゾチックな歌を歌った。今でもついそのメロディーに聞き惚れてしまう。前半生は二つの故国で生きることに心を痛め、後半生は教訓を糧に国際人として活躍した。

一人で複数の名前と人生を生きた、波瀾万丈・激動の昭和の時代の申し子のような人であった。美貌な人でもあり、氏は自分の人生と重ね合わせて、若き日の郷愁にかられたかもしれない。

(3)最後は「アレキサンダー大王と徐福伝説との相似性」について述べられた。紀元前4世紀のマケドニア王であった。ギリシア、エジプト、ペルシア、インド等に攻め入りバビロンに凱旋をした。ギリシア文明・ヘレニズムをはるか東方に伝播した。

紀元前3世紀に秦の始皇帝も徐福に命じ、周辺国の統一後、領土拡張と植民を目的として、東方に向かった。両人とも、東進開始後9年で死亡にており、新しい世界をつくる端緒となった。相似性がある。文明の東進性と歴史は繰り返すと言う。
(レポート:浅見 実)

第337回平成30年11月月例会

研究発表

演題①  「江戸時代の道を求めて(四国遍路 伊予から讃岐まで)後編」
講師: 加藤岩男氏

演題②  「その後の三浦氏」
講師: 橋本欣之介氏

月例会レポート

★第337回例会を11月18日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。当日の参加者は、24名。いつもに比べてやや少なかった。

★最初の講演は、加藤岩男氏が、「江戸時代の道を求めて(四国遍路・伊予から讃岐まで)の後編」についてお話をされた。プロジェクターを駆使しての熱演であった。

氏は、これまでにも毎年当会で、現在は廃道になっている古い街道筋を走破されてその時の旅行記を発表されている。誰も通らないような舗装されていない旧道の砂利道を熊笹をかき分け苦労をして訪ね歩かれている。

これまでも馴染みのないような山陰路、日向路、さらには四国遍路の前編について、当会で講演をされている。昔を偲びながら敢えて旧道にこだわる意欲には感服の至りである。真似をしたいが、もうどうにもできない。

八十八か所ある四国地方の弘法大師の遺跡を巡礼する遍路の歴史は古いようだ。それが、江戸時代には急速に盛んになったという。さらには、現在では、定年を迎えて仕事をリタイアした人々が自分探しのために、気候の良い陽春の頃には大勢押しかけているようだ。

加藤氏は、そのようなラッシュの時期を避けて、初冬の頃、静かにじっくりと巡礼を行っておられる。それも枯れ葉に覆われた旧道をである。当然ながらこの時期には訪れる人はほとんどいない。雪のなか、気温は零度以下のこともある。遍路道は、つらいが自分の修行のためと割り切って歩を進めておられる。

今回は宇和島の四十番の観自在寺より、最後の八十八番の香川県の大窪寺までの行程を歩かれたときの記録である。歩き通されて最後に、讃岐うどんとビールで乾杯をされたとか。さぞかし美味かったであろう。

道中、静御前が尼になった寺とか、子宝を願う女性の信心が厚い寺等々訪れたところを映像を駆使して解説された。いろいろと興味あるところが多いみたいである。

★次の講演は、橋本欣之介理事により、「その後の三浦氏」についてのスピーチであった。三浦氏のファミリーヒストリーについてかなりの厚いレジメに纏められて、持ち時間一杯熱弁を振るわれた。

三浦一族は、桓武平氏の一支族と伝えれ、平安時代以来、相模国三浦郡を本拠とした豪族である。ここはまた歴史研究を愛好する我々が活動する地域でもある。11世紀の後三年の役で為継が、鎌倉権五郎の目に刺さった矢を引き抜いた伝説から、この一族の歴史は始まる。

理事は、詳細な一族の系図を作成された。それを見たときに、どういうわけだか、高校時代の化学の参考書に出ていた高分子化合物結合の表を思い出した。それ程精密であった。一族の登場人物は100人程度はあるだろう。

時代も、平安から明治維新期まで。ひとりひとり辿っていくと、それぞれが波乱に満ちた、或いは特異な生涯を、多分送っていったみたいだ。でもあまりにも登場人物が多い。

義明4兄弟、その子息7兄弟から新しい流れが形成、敷衍していく。多方面にわたるであろう。また、義明は源義朝に従って、ここ藤沢市の大庭御厨に乱入をしたとか。

一族は、力はあったが、和田合戦、宝治合戦等の戦乱に明け暮れ、そして16世紀初めの新井城の戦いでは、北条早雲に滅ぼされたという。当時は守護による一国単位の軍事行動が模索された時代で、相互の争いが激化されていった不運の時代でもあったといえよう。

しかしながら三浦氏は、ここで断絶したわけではなかった。一族は出羽国(山形県)鮎貝、美作(岡山県)勝山等で、その子孫が存続して維新を迎えている。さらには、ロマンチックで青春彷徨の日々を過ごした島崎藤村もこの末裔であった。
(レポート:浅見 実)

第336回平成30年10月月例会

研究発表

演題①  「消えた海人族・安曇氏(阿曇氏)の謎」
講師: 小林道子氏

演題②  「日蓮大聖人苦難の生涯」
講師: 川瀬和男氏

月例会レポート

★第336回例会を10月21日(日)に、藤沢市六会公民館で開催した。当日の参加者は、友好団体である横浜歴史研究会からの応援聴講者も含めて合計31名。盛会であった。

★最初の講演は小林道子理事で、「消えた海人族・安曇氏(阿曇氏)の謎」について、お話をされた。安曇野と言うと、勇大な北アルプスを背景に、常念岳の下に広がる平野を思い浮かべる。安曇族はこの素晴らしい地に進出をして定着をしたらしい。自分は何度かここに宿泊をしたことがある。

一度は常念の山に登頂して、眼下に展望できる安曇野を納得いくまで眺めてみたかった。麓のリンゴ園で一袋のリンゴを買ったときに、小学生と思われる店員がいくつかおまけをしてくれたことなどを、なつかしく思い出した。美味かった。

安曇族は、古代の海人(あま)、阿曇部を率いた豪族で、朝廷に仕えて各地の海人を支配し、天皇の食事を司ったと言われている。当時優れた航海術と稲作の技術を持っていた、数多くいる海人族のなかで最有力氏族であった。本拠地は福岡市志賀島であり、海の中道の先にある。

中道には、自分も何度か行ったことがあるが、香椎からそこまで行くコースが今では快適なドライブコースである。ここにあるリゾートホテルでウエディングパーティーを挙げることが、福岡の人の憧れであるとか。

この氏族は、紀元前の中国の春秋時代に黒潮や対馬海流に乗って、北部九州にやってきたことが始まりであるらしい。そこからスタートをして、長野県の安曇野を含む東日本の各地に拡散移住をしていったのであろう。

何分、これらを記載した資料が、記紀と筑前風土記ぐらいしかなく、時代も古く辿っていくのは難解であるかもしれない。それでも、理事は少ない資料を丁寧に分析して、明快に説明していかれた。

★次の講演は、川瀬和男理事による「日蓮大聖人苦難の生涯」についてのスピーチであった。レジメも21ページにわたる大作であり、その生涯を、淡々と語っていかれた。

日蓮は鎌倉時代の僧であり、日蓮宗の開祖である。16歳で出家して、伝統的仏教の教理に疑問を抱き、鎌倉、京、近畿、比叡山などで、諸教学を学んだ。

そこで、仏法の真髄を法華経に見出し、南房総の清澄山で日蓮宗を開いた。題目は『南無妙法蓮華経』である。当時多発していた天変地異は浄土宗などの宗派によるものであり、『法華経』に統一すべきであると主張をした。

そして『立正安国論』を首唱しそこで浄土宗、禅宗などの教理を激しく批判。それにより、種々の迫害を受けた。宗教上、新説を唱えるということは、欧州でも宗教改革に関与したルターもカルバンも、同様に平穏には暮らせなかった。

我々の会合を持つ土地、ここ湘南の地は日蓮が登場した重要な場所である。清澄山で開宗後、法華経信仰に関する辻説法を、鎌倉で開始をした。当時は幕府のお膝元の、そこかしこの街角で日蓮は大衆に訴えて、納得できる講話をしていったことであろう。

かなりの支持を受けていたに違いない。今では、この地には外国人も大勢訪れて、諸外国語が飛び交う賑やかな観光の地となっている。当然のことながら、この頃には、信仰の自由、言論の自由はなかったので、藤沢の龍ノ口で悲しい出来事が起こりそうになった。

日蓮の辿った地は多い。なかでも、山梨県身延山久遠寺一帯の森林の景観は素晴らしい。枝垂れ桜が春爛漫の頃にここを訪ねてみたい。
(レポート:浅見 実)

第335回平成30年9月月例会

研究発表

演題①  「出雲の国の謎とその正体(根の国、黄泉の国)」
講師: 田中真生男氏

演題②  「家族システムの変遷(II)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」
講師: 大森健児氏

月例会レポート

★第335回例会を9月16日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は30名。夏の暑さも峠を越えたようで、ホッと一息をつけた。それにしても、今年の夏は暑すぎた。

★最初の講演は、島根県出雲地方のご出身である田中真生雄氏が、「古代出雲の謎とその正体・黄泉の国と根の国」についてお話をされた。長年にわたる出雲研究の成果の発表である。

自分は学生時代にこの地を訪ね、松江城、宍道湖、出雲大社等を見学したことがあるが、懐かしく思い出された。松江の旅館で夜中に聞いた列車の汽笛のピッーと言う鋭い音が忘れられない。遠くに来たものだと実感した。

出雲は神話のふるさとでもある。小さな地域ではあるが、なにか日本の他の地域とは違う雰囲気があるのではないだろうか。小泉八雲が、ここに関心を持ち、『怪談』『霊の日本』を著作して日本独自のユニークな崇拝観、民間の習俗、文化、伝説等を西洋に紹介をしたが分かる気がする。

田中氏は、この地で育ち、そこに愛着を持ち、充分に出雲を調べ上げられている。『記紀』・『出雲風土記』等を、繰り返し読み込まれており、精通をされておられる。そこで以下のようにまとめられた。『黄泉の国』、『根の国』はいずれも出雲にあったのであろう。

出雲は、小さい地域ではあるが、長い年月をかけて、その国土の開発、他国との交流、文化の蓄積により、さらには祖先崇拝や祭祀により、かつては日本の中軸であった。『根の国』出雲は、『黄泉の国』に埋葬されて文化は、大和へと新生されていった。ギリシャが滅び、ローマが誕生したように。

★ 次の講演は、法政大学名誉教授であり工学博士の大森健児氏により「家族システムの変遷(2)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」であった。氏の歴史を見る目はグローバルな観点にたち、独創的である。

我々が歴史を学習するときに、どうしても小さな単位の個人史を中心に調べていくことが多いが、それよりもさらに大きく、世界史のなかでの範囲まで広げて、ミクロからマクロまでの共通の概念で捉えたら、これまでにないような新しい展開が開けるであろう。

数学の世界では、対象と射との関係である『圏論』というセオリーがある。まさに、それであろう。フランスの歴史人口学者であり家族人類学者でもあるエマニュエル・トッドが、人口統計による定量化と家族構成を分析してその説を唱えた。氏はそれを引用された。

さらに付け加えて、『平等・不平等』と『権威・自由』の2軸で、家族システムを性格付けされた。また、環境に順応をした『進化論』で考えた方がよいであろうと。

日本はもともと『核家族』であったが、663年の白村江の戦いで、唐の整備がされて訓練された軍により壊滅的な敗戦を被った。国力の違いを見せつけられた日本は、律令制に基づいた中央集権国家の建設を急いだ。

天皇家でも、天智・天武の頃に家族システムが核家族から直系家族に代わっていった。当時の歴代天皇の系図を示してその移り変わりを詳細に説明していかれた。
(レポート:浅見 実)

第334回平成30年8月月例会

研究発表

演題①  「日本の徐福伝承と神奈川の役割 ~徐福は倭国(古代日本)に何をもたらしたのか~」
講師: 前田豊氏

演題②  「東海道を歩く(5)」
講師: 持田信廣氏

月例会レポート

★第334回例会を8月19日(日)に、藤沢市湘南台公民館で開催した。当日の参加者は25名。今年の夏はとにかく暑い。けれども、歴史好きのメンバーは、暑さに関係なく集まってきた。新メンバーとして石川重弘氏のご参加があった。

★最初の講演は、先古代史の会の会長であり、神奈川徐福研究会の理事でもある前田豊氏が、「日本の徐福伝承と神奈川の役割~徐福は倭国(日本)に何をもたらしたのか~」についてお話をされた。穏やかに、分かりやすく、前田古代史の研究成果を発表されていかれた。

今から、二千数百年前の紀元前3世紀頃の弥生時代の初期に、徐福は秦の始皇帝の命で、童男童女数千人を連れて、数十隻の大船団で、東海の三神山に不死の仙薬を求めて、日本に来たと言われている。徐福の目指したところは、何処にあったのか諸説があり特定することは難しい。しかしながら、伝説の存在する地が日本には数十か所ある。

そして、その存在の多さから言っても徐福が、日本に渡来をしてきたことは間違いはあるまい。隣国中国にも所謂『徐福村』が存在しており、歴史的にも徐福は歴史的人物であること確認されており、近時中国、韓国、日本において徐福研究が盛んになってきた。

日本の徐福の渡来地或いは存在したという伝説地は、主として関東以西にあり、九州に特に多い。北は青森県にも存在する。現在我々が歴史勉強を行っている、藤沢市にもその遺跡がある。当地の妙善寺には、福岡家墓碑に徐福の子孫である旨の記載がある。

すなわち、福岡家は秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に住んだのではないだろうかと。なんとなく親近感を覚えた。これは、日本に徐福が渡来してから、分隊となり、各地に拡散していったのであろう。

そのうち、一部の者が藤沢にもやってきた。さらには徐福は日本の各地で大神として祀られている。当時の進んだ大陸の文化・技術を持って来て、日本の弥生時代のインフラ整備の担い手でもあったのではなかろうか思えた。

日本の歴史は古事記、日本書記から始まっている。神話の神々は、人間の歴史活動を表現していることが多いと氏は述べられた。

★ 次の講演は、歴史散策旅行のベテランである持田信廣氏により「東海道を歩く(5)・日坂から新居宿まで」であった。
氏は、歴史を辿る旅が大好きで、特に東海道は数回以上も往来しており、そこに存在する過去の出来事についての習得・集積した知識の多さは、おそらくは誰にもひけをとらないだろう。

とにかく、自分に比べて詳しすぎる。当会でも、例年一回ずつ、江戸日本橋より数宿について興味あるお話をご披露されている。今回はその5回目で、昨年からの続きで遠州『日坂宿』からスタートをした。日坂宿は、我々にはあまりなじみがないし、それほど大きくはないが、見るべきものがいくつもある。

自分も20年以上前にここを訪れたことがあるが、子夜の中山、西行法師の歌碑、悲しいストーリーがある夜泣石等を懐かしく思い出された。ここでの名物であった水飴売りの100才のおばあさんと一緒に写った写真もあるが、多分今は存命ではあるまい。

『掛川宿』では、地元の人に教えてもらった、JR駅近くの洋菓子店で購入したロールケーキに感激。あまりに美味かったので、その後何回かわざわざここに車で買いに行ったほどだ。再建された木造の山内一豊ゆかりの地の掛川城の天守閣は見事だった。そして『袋井宿』は、江戸から数えても、京都から数えても27番目の宿場である。

東海道のど真ん中だとか。ここには、町のあちこちに彫刻像が多く見られた。さらに『見附宿』。ここでも、町はずれにある和菓子店のきんつばが美味すぎた。これも、今でも時々購入に行っている。旅はうまいもの巡りが付き物であろう。古い東海道筋には名店が多い。

制限時間一杯を使い、氏は東海道の魅力を淡々と述べていかれた。到底自分の歩いた知識では及ばない知らないことが多かった。来年は、浜松辺りからさらに街道筋を西へと向かう。
(レポート:浅見 実)

第333回平成30年7月月例会

研究発表

演題① 「神功皇后実在論」
講師: 村島秀次氏 (来演:横浜歴史研究会理事)

演題② 「ルーツのヒント 日本の苗字」
講師: 新藤正則氏

月例会レポート

★第333回例会を7月15日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は29名、嬉しいことに今月も、先月に続いて新入会員のご参加があった。それにしても今年の夏はとにかく暑い。連日の気温は30度をはるかに超えている。でも、熱心な歴史マニアには、暑さはあまり関係がないようである。出席率も高い。

★最初の講演は、数年前に歴研より『もうひとつの古代史』を出版された横浜歴史研究会の理事である村島秀次氏による特別講演で「神功皇后実在論」についてであった。神功皇后は、仲哀天皇の皇后であり、熊襲征服や新羅への攻略を行ったとされている。

現在の通説ではその存在は疑問視されて、伝説、伝承上の人物となっている。確かに、自分の中学生、高校生のときの学校の授業では多分、その史実については習わなかったであろう。しかしながら、第二次世界大戦以前には、皇后の実在は肯定されていたろう。

明治時代に発行された高額紙幣、高額郵便切手にはその肖像画までが書かれているくらいだ。なぜだか、その肖像画はお雇い外国人であるイタリア人画家のキヨッソネ氏が描いたとかされている。美人で気品がある女性像である。収集家にとって是非とも入手したい紙幣、切手であるとか。

氏は、述べられた。総合的に判断すると、神功皇后は実在したと考えるのが合理的であろう。すなわち、その根拠として、高句麗の広開王碑の碑文の記録、『三国史記』の記述、皇后の系譜、九州地方から畿内にかけて伝承が多いことなどからである。

さらには、大阪にある住吉大社の存在。奈良市にある五社神(ごさし)古墳は、皇后の御陵であろうとされる、等々である。古代史はロマンと夢、憧れの分野である。ひとつひとつ史実に基づいた想像を考え出していくと楽しい。

それには、氏が言われるように文献、例えば『記紀』を含めて、あるいは信頼性の観点から使用されていない『古語拾遺』『先代旧事本紀』、神社継承等を、考古学を含めた周辺学問とすり合わせて正確な古代史を作り上げていくべきであろう。

★次の講演は新藤正則氏で「ルーツのヒント・日本の苗字」についてであった。氏は奈良市のご出身で、現役時代にはケミストであった。ご退職後、10数年の歳月をかけて、苗字のご研究に没頭され、数年とちょっと前に、70才になったときに、その記念として、『苗字辞典』を刊行された。大作である。

また、氏は、藤沢市生涯学習人材バンクの講師でもあられる。ファンも多いと聞いている。趣味としてマジック、詩吟等があり、来年の当会の新年会では、ぜひともご披露をされることを心待ちにしている。旅行もご趣味で、東海道をご夫人と歩き通して、各宿場での表札を見るのが大きな楽しみであったそうだ。お二人の和やかな様子が窺える。

日本には苗字数は、10万とも、あるいは漢字の読み方の変化を加えると30万とも言われている。苗字の多くは地形・地名、古代からの氏族名、職業名、信仰等々に由来するものが多い。特に稲作田を示す『田』のつく苗字が一番多い。

生活圏にある山・野・木・松のついた苗字も多い。藤原族に由来する藤も多い。646年の大化の改新時には戸籍の作成が定められた。唐の均田法下の税制を真似て日本でも、同様な制度を制定した。租調庸を負担する民の正確な数を把握するためにも絶対に必要であったからだ。

最後に、氏は神奈川歴史研究会全員のルーツ(由来と分布)について、調べられた結果を報告された。自分の苗字である『浅見』姓は日本全国のうちに埼玉県で40パーセント占めていると説明されたが、まさに的を射ている。埼玉県の父親方の生誕地に行くと、浅見という家が多い。
(レポート:浅見 実)

第332回平成30年6月月例会

研究発表

演題① 「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」
講師: 藤田文康氏

演題② 「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と嵯峨天皇」
講師: 里見絢子氏

月例会レポート

★第332回例会を6月17日(日)に、藤沢市市民会館で開催した。当日の参加者は34名、うち3名が新入会員であった。今回、高校生の新入会員も参加されて、これで高校生の当会での在籍者は2名となった。いよいよ当会の若返りが進んでいく感じがする。

★最初の講演は、中国の歴史と文化を学ぶ会の会員でもある藤田文康氏で「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」であった。壮大なテーマであった。氏の資料の作成も徹底している。全体の中国史年表を各ページの冒頭に一表として纏めて、その下にご自身で調べ上げられた歴史上のコメントを要領よく簡潔に記載されている。

具体的な例をあげると、『秦の始皇帝』が天下を統一した頃とか、唐が衰退に向かった『安史の乱』等の当時の情勢がこの年表で、時代を辿ることができる。唐の時代は3百年近く続いたが、それに反して、その前の隋の時代は40年弱しか続かなかった。

長い歴史がある中国の変化の様子が、これも主要な出来事が数ページのレジメに要約されている。我々が、日本史を学ぶときに 周辺国、特に隣国である中国の歴史の理解・対比が絶対に必要である。日本の古代史、鎌倉時代の元寇、戦国時代の兵法、江戸時代の儒学思想等々へ大きな影響を与えた。

氏は述べられた。中国の本当の起源は秦の始皇帝の統一時からである。中国にはそれまで異民族が混血して住んでいた。さらには、モンゴルのチンギス・ハーンの帝国がユーラシア大陸の東西を結び付けたことが、世界史の始まりであろうと。氏の説明は年表のみならず、地図、写真等を駆使して雄大な国・中国を時代を越えてオールラウンドに説明をされた。

★次のスピーチは、当会の理事でもある里見絢子さんの「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と蘇我天皇」についてであった。自分の学生時代、といっても60年以上も前であるが『阿弖流為』という人物の名前については聞いたことがなかった。

この名前が中学校の社会科の教科書に登場したのは、やっと今から20年前だそうである。それまで知る人はほとんどいなかったであろう。手元にある広辞苑にですら第五版までには、『阿弖流為』の項目はなかった。やっと最近改訂された第六版になりはじめて登場した。

『阿弖流為』は、平安時代の初期に岩手県の北上川流域を支配した蝦夷の族長である。これ以前の奈良時代には、東北地方の北半分が、朝廷の支配下に組み込まれていなかった。蝦夷の地であった。豊かな山や川、愛らしい小鳥や花に恵まれて、この地は蝦夷にとって、楽園であったろう。

そこに平穏に暮らしていた。しかしながら、支配地域拡大を目指す国家が、ここに入り込んできた。あるいは、天平年間に、宮城県湧谷町に於いて、我が国ではじめて発掘された金が目当てでもあったかもしれない。そこで朝廷と蝦夷たちとの争いが始まった。

しかしながら強大な朝廷軍の前に蝦夷たちは散っていった。『阿弖流為』は坂上田村麻呂に降伏して河内の国に連れていかれたが、そこで斬殺された。彼の残し た東北人の誇りはその後も消えることはなかった。
(レポート:浅見 実)

創立35周年記念式典・祝賀会 (平成30年5月20日)

創立35周年記念式典・記念講演会・祝宴

特別講演

演題① 「壬申の乱と天皇」
講師: 関裕二氏 (歴史作家)

★神奈川歴史研究会が、湘南の地に発足してから、昭和58年に設立後、満35年の月日が経過をした。その節目となる35周年の記念の式典、講演会及び祝宴を、5月20日(日)に「ホテル横浜ガーデン」に於いて開催をした。

五月晴れの爽やかな一日であった。参加者は63名。当会のメンバー30人余りと、ご来賓11名、近隣の友好歴史グループである横浜歴史研究会より10余名、江戸の歴史研究会より5名余等々がお祝いに参加されていた。とにかく盛大で、和気藹々としていた。

★最初の式典では、当会の35年にわたるブリーフヒストリーを浅見実副会長が述べ、竹村紘一会長の挨拶、続いて、ご来賓として歴史研究会本部の吉成勇主幹、さらには加藤導男横浜歴史研究会長、高橋倭子江戸の歴史研究会長から、お祝いの言葉を頂いた。

いずれも暖かい、また、励ましのお話であった。当日には、所用があり、参加できなかったお二人・相模原シニア活動の森の安田隆春会長よりの祝電と本部常任理事の坂本花子さんより有り難くお祝い金を頂いた。

★記念の講演会は、歴史作家である関裕二先生で、「壬申の乱と天皇」と題して講演をされた。先生は、お若いころから仏教美術に魅せられて奈良に通いつめ、古代史を得意としておられる。デビュー作は『聖徳太子は蘇我入鹿である』であったという衝撃的なタイトルであった。

今回も、2時間にわたり千数百年前の古代史の世界のなかに聞く人をして、どんどん引き込んでいった。先生には『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』等々の著作も多数ある。正史に隠れた裏の英雄を探っていくと、本当の歴史が見えてくるし、その人達の輝かしい業績も見えてくると、先生は『古代史50の秘密』の本のなかに、その旨、書かれているが、大いに納得ができる。

★続いて、待望の祝宴であった。今回の出し物の企画は、会長、槙良生事務局長等の練りに練ったアイディアからであり、参加者をして充分に楽しませてくれた。松田芳久史友会代表、三堀八郎中国の文化と歴史を学ぶ会会長の、これも暖かいご祝辞をいただいたあとから、山内玄人理事の名司会のもとに楽しい出し物はスタートした。

まず、総勢9名による賑やかな桜川寿々慶先生をはじめとする一門の『江戸芸かっぽれ』の踊りからであった。秋山寿子史友会会員による分かりやすい解説をまじえながら、進行していった。江戸末期・化政時代の町人文化の爛熟期に始まった独特の衣装をつけた大道演芸であったとか。懐かしい曲もいくつかあった。思いは江戸の町を踊り歩く盛り場で見物をしているみたいに 。

乾杯のあとには、それぞれの懇談の時間であった。会場も広く、席を移動しながら、皆と歴史談義を語り合っていった。35年間の話題もいくつか飛び出した。昭和58年にはNHKテレビで『おしん』が放映されたとか、『東京ディズニーランド』がオープンしたとか、よく知っている人がいる。

しばらくして、 ここから最大の余興であるアコーディオン演奏兼カラオケタイムに入っていった。演奏は数千曲演奏できるという相模原シニア活動の森のアコーディオニスト藤沢賢二氏であった。最初は、皆歌うのをためらっていたが、興に乗ると、我も我もと名乗りを挙げて、注文に追い付かないくらいのリクエストが続出した。参加者の年齢は高いひとが多かったために昭和の歌が中心であったが。

祝宴での3時間はあっという間に過ぎていってしまった。でも、当会のみならず、友好団体とも貴重なそして打ち解けた懇親の機会を持てて、大成功であったと言えよう。
(レポート:浅見 実)

第331回平成30年4月月例会

研究発表

演題① 「樋口一葉について」
講師: 浅見実氏

演題② 「和泉式部とその娘小式部内侍」
講師: 津久井勤氏

月例会レポート

★第331回例会を4月15日(日)に藤沢市六会公民館で開催した。当日の参加者は23名であった。いつもよりやや少なかったが、行楽日和の天候もあってやむを得ないであろう。

★最初の講演は、浅見実(私)でテーマは「樋口一葉」についてであった。わが国では女性による、豊かな情操や繊細な感受性を生かした主観的、抒情的な文学作品は多く、これまで発表されている。

そして、平安時代の10世紀から12世紀にかけて、遣唐使廃止の頃より日本独自の文化を創造するようになった。藤原氏の摂関政治を中心とする貴族社会の背景のもとで展開された国風文化である。

そこで、紫式部、清少納言、和泉式部等の後記の三才女の作家が輩出した。しかしながら、その後、所謂中学校の歴史教科書で出てくるような、有力な女性の作家は、明治の時代までほとんど見当たらない。明治初年に樋口一葉が出るまでは。

一葉は、幼少の頃から、万葉集、源氏物語、栄花物語、平家物語、日本外史等の古典文学を読み込んでいた。しかも、学校教育は小学校の4年程度しか授業は受けていないのに。現在のように、古典文学の注釈書はほとんどなく、原文からである。

かなりの意欲と才能があったであろう。そこから、明治維新期の混乱の時代に、家父長制度のもとで、遊里のような特殊な世界を書き続けた。短い25年弱の生涯で。

★2番目は、津久井勤氏により「和泉式部とその娘小式部内侍」についてであった。今から約1千年前の過去にさかのぼる。摂関時代の女流文芸、そこでの一条天皇の後宮文壇、互いに競合しあい、特に王朝三才女の活躍は目を見張るようなものがあった。

最も華やかな時代を生き抜いた。清紫が宮仕え意識をしていたのに対して、一方、和泉式部の軸は恋愛であり、和歌であったとされる。その生涯において、ふたりの受領(諸国の長官)との結婚、ふたりの親王との交際の間にも、いろいろな人々との自由奔放な交流を通じて、和歌を詠んでいる。

激しい恋、多くの恋愛経験の持ち主で情熱的な歌で知られている。
式部の作であろうとされる『和泉式部日記』は、冷泉天皇第4皇子・敦道(あつみち)親王との10か月の愛情の進展の経過を歌日記風に記したものである。私家集から日記文学への発展の流れを示す作品であるとされる。

小式部は、彼女が20才前後で最初に結婚をした橘道貞との間の子でであった。しかながら、小式部は30才に満たないで亡くなった。母として、娘の死は大きな悲しみであり、哀傷歌を残している。

先生の講演は、レジメで10ページにわたり、内容は豊富であり、引用された短歌の数も多く、説明も簡潔明瞭である。式部には勅撰和歌集に取り上げられた歌も多く収録されており、この時代を研究されている者には、論文を構築するのに格好のヒント・資料となるであろう。
(レポート:浅見 実)

第330回平成30年3月月例会

研究発表

演題① 「一橋冶済と徳川御三卿」
講師: 小林啓介氏

演題② 「宇和島藩祖秀宗 奮闘の生涯」
講師: 槙良生氏

月例会レポート

★第330回例会を3月18日(日)に藤沢市民会館・教養室で開催した。当日の参加者は、他会よりの応援聴講者を含めて34名と盛況であった。いつもより多く、そのためか、講師の2名も大いに張り切っていたような感があった。話しごたえがあったのであろう。

★最初の講演は、当会でのスピーチデビューである若手歴史マニアの小林啓介氏で、演題は「一橋治済(はるさだ)と徳川御三卿について」であった。御三卿とは、吉宗が取り立てて2男の宗武を田安家に、4男の宗尹(むねただ)を一橋家に別家としたことから始まる。

さらに、家重が次男の家好を清水家に家を興した。宗家に嫡子がない時にそれを継承する資格を有した。一橋家は御三卿のひとつである。藩は作らず、大きな領地も持たなかったが、その代わりに幕府からそれぞれ10万石をあたえられていた。

しかしながら1843年刊行の『天保大江戸大絵図』写しを見て驚いた。この三家は江戸城の北側に、広大な敷地を有し、お互いにほぼ隣接している。親族間の交流もかなりあったことだろうと勝手に思われた。『一橋』の名前の由来は家康が入府時に、そこの掘割に丸木の一本橋が架けられていたということからきたものであるとされる。

確かに、徳川幕府は長期にわたり約270年も続いた。堅固な政治上・体制上の仕組みがあったからであろうが。しかしながら、18世紀の後半になると、その堅固さに脆さが顕在してきた。
幕府の崩壊の引き金となったのは、内部の人間であり、8代将軍吉宗の孫であり、11代家斉の父でもある一橋治済(1751-1827)、その人であると、氏は種々事例を挙げて説明をされた。
松平定信の田沼意次追い落とし工作に加担し、それが成功したら、定信の失脚を断行したり陰謀家であった。自分の息子・家斉を将軍につけた。これには財政浪費も大なるものがあったろう。

治済がこの世を去り、約50年後に幕府は実際に終焉の時を迎えるのである。薩長による明治維新はおまけであると断言されたが、要因多々あろうが、きっかけになったことには間違いがなかろう。
テーマは多岐にわたり難解なところもあるが分かりやすく解説された。

★2番目は、当会槇良生事務局長により「宇和島藩祖秀宗・奮闘の生涯について」の講演であった。
宇和島と聞くと、昨年歌われた水森かおりのヒットソング『宇和島別れ波』の演歌を思い浮かべる。『天に届くか段々畑・・・・愛媛宇和島波音哀しい』と。その程度の認識しか、かってはなかった。

宇和島市を含む愛媛県の西海岸一帯は、足摺宇和海国立公園に指定されており、リアス式海岸で島々が点在しており、変化に富んだ海岸景色を呈している風光明媚なところだ。市の人口は、現在約77,000人で10数年前に比較をして20パーセント程度減少している。過疎化は止まらない。空き家も増えている。

かって自分が北海道で何回か体験したことがあるが、そこの空き家を利用した短期移住体験も、安価に(月間数万円くらいで)、宇和島市のホームページによると、ここでもできるみたいだ。
確かに地理的に見て首都圏あるいは阪神地区からみてかなり遠いが、自然が豊かで素晴らしいであろう。産業面でも、水産業、柑橘類の生産等が主体みたいだ。そこで、ローカルフードを味わいながら、ゆっくり歴史を勉強しても良い。

宇和島藩は、仙台藩主伊達政宗の長男である秀宗が宇和島地方に10万石を受け、1614年に在封して、250年間統治をした地である。仙台藩からは独立した国持大名格ではなく、支藩とみられたりしてぎくしゃくした関係が長く続いた。
領地は荒廃をしており、藩草創期は苦難の連続であった。また、筆頭家老及びその家族殺害事件に続く一連の不幸な出来事により和霊騒動、別家を起こすことによる宇和島の血筋を守ろうとしての生産性の少ない領土での吉田分知等々を乗り越えて秀宗は藩維持に腐心したであろう。

氏は、資料を丹念に読み込み、簡潔にポイントを掴みよく纏められている。明治維新期に活躍をした伊達宗城(むねなり)は、四賢侯のひとりで公武合体派として広く知られているが、藩祖である宗秀の奮闘もそれに劣らず優れていた。
(レポート:浅見 実)

第329回平成30年2月月例会

研究発表

演題① 「徳富蘇峰終戦後日記 (頑蘇夢物語)」
講師: 横山忠弘氏

演題② 「勝海舟の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏

月例会レポート

★第329回月例会は、2月18日に藤沢市民会館で開催した。この会場を利用するのは、当会では始めてのことである。藤沢駅に近く、周辺には繁華街やデパート等の商業施設も多くあるし便利も良い。

知名度も高く、大きなイベントもいろいろとここで行われる。これからはここでも当会の会合の場所として時には選んでいきたい。今回の参加者は25名。まずまずの人数であった。

★今回のスピーチは、まず初めに、横山忠弘当会顧問より、テーマは「徳富蘇峰戦後日記(頑蘇夢物語)」と題して行われた。氏の歴史研究のキャリアは長い。一時は、月刊誌「歴史研究」の常連投稿者であり、独創的な論文を数多く発表されてきた。

当会以外の会の会報でも20年以上も前から、数々の研究成果を積極的に投稿されてきた。それらを纏めて『横山忠弘著作集』全2巻を出版されている。読み応えのある内容である。

徳富蘇峰は熊本生まれのジャーナリスト、歴史家である。同志社で学んだ。氏も、だいぶ後輩にはあたるが、同じ同志社のご出身である。

スピーチは、蘇峰が百年後の日本のために遺したと言われる『蘇峰夢物語』について述べられた。NHKの大河ドラマ『八重のさくら』のことも懐かしく思い出した。
その後、『国民新聞』を発行して、平民主義を提唱した。

帝国主義の鼓舞者でもあったらしい。二宮町に記念館がある。自分は昨年の今頃ここを車で訪ねたことがあるが、資料も整備されており、展示は素晴らしい。氏のライフワークである『近世日本国民史』(100巻)も手に取って自由に読める。

政財界で活躍した著名人の手紙、書などの展示も多い。平和主義者であったのではないだろうかとも感じた。ちょうど、そこの庭園では梅の花が満開であった。華やかな花ではないが、清楚に咲いていた。今頃の季節である。

★次の講演は、渡邊幸太郎理事により「勝海舟の生涯・江戸の町を戦禍から救った男」についてであった。明治維新の時期に大きな役割を成し遂げた人物である。聞く人をしてどんどん引き込む、相変わらずの渡邊節を堪能できた。

氏の発表は、意表をつくことがいくつもあるが、異説ではない。通説に、冗談を交えて新しい事柄を追加されている。かなりの読書量がないと、ここまでは説明できないであろう。

安政年間、日米修好通商条約の批准書交換のために初めて太平洋の横断を果たした『咸臨丸』は、実はアメリカ軍艦のポーハタン号に護衛という名目での随行艦であったとか。

そして勝は艦長ではなく、教授方取り扱いという立場であった。勝が親交があった江戸火消しの棟梁である新門辰五郎は『を組』であった。『め組』ではない。確かに時代も、『め組』は暴れん坊将軍・吉宗の時代の火消しの新門辰五郎のことで、想像上の別人である。混乱して、誤り解釈をしていることが多分にある。

氏のスピーチは、勝の生涯を、そして広い意味での家族関係を含めて、興味深く話していかれた。勝は、西郷隆盛と会談して江戸の町の戦禍から救った。大なる功績である。当時は、江戸には150万人の住民が生活をしていた。大田区の洗足池には、勝海舟夫妻の墓と一緒に西郷隆盛の碑があるのを思い出した。
(レポート:浅見実)

平成30年度新年定期総会、特別講演会、新年会

新年特別講演会

演題① 「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」
講師: 竹村紘一会長

定期総会、講演会、新年会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月21日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。昨年に引き続いて新しい会場であり、気分も新鮮で当会設立後35年の節目の年がスタートした。参加者は、昨年より多かった。

他会からの聴講者を含めて総計36名。うち、当会への新規で入会された会員も数名おられて、嬉しい限りである。熱心な歴史好きの高校生の方の参加もあった。将来の見通しも明るい。インターネット効果も徐々に浸透してきている。さらには、歴史研究会本部より吉成勇主幹もご出席をされて、励ましのお言葉を述べられた。そのうえ、有り難く、お祝い金まで頂いた。

★総会では、あらかじめ事務局作成の議事次第はたんたんと進められていった。役員層も昨年度から大幅に若返っており、竹村会長、槇事務局長のスピーチでも、今年の35年周年での記念行事を盛り上げていこうという意欲が大きく感じられた。いつもと違う。いろいろな企画も立案中であるとか。楽しみが多い。

★恒例の新年特別講演では、竹村会長により「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」のテーマでお話をされた。結論として、秀吉軍は一部の地域の合戦では敗れたが、敵地での戦いであり、少しの領土も失っておらず、むしろ拡大をしている。家康側は敗北者である、政治的な意味合いで後に過大に評価したのであろうと述べられた。
子供の頃に、自分も、吉川英治著の「新書太閤記」の本を、わくわくしながら読んだ記憶がある。とにかく最初は面白かった。10巻以上はあったと思う。しかしながら、最後の小牧・長久手の合戦のあたりの部分になってくると、登場人物は多いし、場面も頻繁に変わるので、ストーリーの展開が分からなくなり、途中で読むのを止めてしまった。根気がなかった。でも今回、会長がお話をされ、まとめられた合戦のあらすじは実に分かりやすかった。

まったく関係はないが、「小牧」という地名は、東名高速道路等を走るとよく見かける。自動車のナンバープレートで、「尾張小牧」ナンバーがあるからだ。でも、「長久手」というナンバーはない。長久手市の車は「名古屋」ナンバーに含まれているとか。両方の町は僅か、10キロあまりしか離れていないので「小牧長久手」ナンバーがあっても良かったのに。

★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークの一階レストランを借り切って賑やかに行われた。総勢31名の出席者であった。例年に比較して料理もアルコールもふんだんにあり、大いに盛り上がった。

しばらく歓談のあとに、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、昨年と同じように、意欲的にそして得意気に述べていかれた。一人2分の持ち時間を大幅に超過しても、意に介することなく、とめどなく歴史上の新発見の自説を延々と話される人もいた。しかしながら、カラオケがなかったのがさびしいと感じた人もいたようだったが。

なお。今年の歴史散歩は春には、会長のご案内で「世田谷・豪徳寺、松陰神社」を、そして秋には、旅と歴史探訪のベテランである持田信廣氏の「鎌倉駅から材木座海岸方面へ」のハイキングを計画している。いずれも、楽しみに期待をしている。今年の会員、全員の健康を祈っている。
(浅見実)