研究発表

第350回令和2年2月月例会

研究発表

演題①  「帰化人、渡来人、渡来氏族に関する一考察」
講師: 横山忠弘顧問

演題②  「叔父秀吉に翻弄された悲運の天下人・豊臣秀次の生涯」
講師: 竹村紘一顧問

月例会レポート

第350回例会を2月16日(日)に、藤沢市役所5階の会議室で開催した。本日の参加者は22名。朝方は雨。またこの時期、コロナウイルスが広まってきており、それを恐れて、どの程度の参加者があるか懸念されたが、まずまずの参加者数であった。

◆最初の講演は、横山忠弘顧問により、テーマは「帰化人、渡来人、渡来氏族に関する一考察」についてであった。これまでも、顧問は、多くの論文を2冊のご自身の著作集に纏められている。そのなかでは、オールラウンドに難解な歴史上の出来事を、要領よく、わかりやすく説明をされている。 

日本人は最初から現在の国土にいたわけではない。そのルーツは、5万年程前に、日本列島がアジア大陸と地続きであった頃、縄文人の祖先が中国、朝鮮のルートを通ってやってきたのであろう。

ずっと下って、2千3百年前頃から、4段階に分けて別の人種が、多分、弥生人等がやってきた。
さらには、律令政権時代にやってきた帰化人は、大陸の新しい文化を伝えた。儒教、医学等の学問、多くの技術を我が国にもたらした。貢献度は大なるものがあったろう。隣国と日本との関係については、もっと過去の歴史を正しく理解すべきであろうと、顧問は結ばれた。

自分のルーツを探すために、歴史を学び始めるものが多い。でも、辿れるのは大多数のものは、菩提寺に資料が残っていれば精々遡っても江戸時代どまりであろう。自分の祖先は、いったいどこからやってきたのだろう。奈良平安時代には、さらには弥生時代には何をしていたのだろうか。どうしたら探せられるだろうか。この講演に関連して、ふと疑問に思った。

◆次の講演は、竹村紘一顧問により、「叔父秀吉に翻弄された悲運の天下人・豊臣秀次の生涯」についてのお話しがあった。
顧問はこの時代である戦国時代については特に詳しい。当会と親しい別のサークルでも、人気講師として数多くの講演があり、歯切れのよいストーリーをいつも楽しみにしているものも多い。

秀次の母親は秀吉の実姉である『日秀』である。実子がいなかった秀吉に用いられて、各地を転戦した。度重なる戦功により、近江、尾張、伊勢等を合わせて100万石を領するに至った、官位も、関白まで昇進をした。まさに絶頂にいたわけであった。しかしながら、秀頼の誕生後、秀吉との間が冷却し、高野山に追放、自殺を命じられた。さらにはその一族まで犠牲になったという。

歴史は身内に非情な面もある。権力の頂点にいて、家族関係にあるものに対する親しい思いやりがどうしてないのだろうか。

また、歴史には栄枯盛衰がつきものである。華やかな、歴史の表舞台に立ちながら、あっという間に消えた例が多い。前年の川瀬理事により講演があったミカン舟等で巨万の財を積み、豪遊をしたが、晩年には家産が傾いた『紀伊国屋文左衛門』他の事例を思い出した。さらには無常観を基調とした平家一門の栄華と滅亡の物語は好事例であろう。
<レポート 浅見 実>

令和2年度 新年定期総会、特別講演会および新年祝賀会 (New!!)

日時 令和2年1月19日
会場:藤沢市役所本庁舎 5階第2会議室
①定期総会(13時20分~14時20分 開場13:00)
②新年特別講演会(14:30~16:10)

新年特別講演会

演題   「織田信長と惟任(明智)光秀」
講師   柴裕之氏 (東洋大学文学部史学科非常勤講師)

新年定期総会等レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月19日(日)に、昨年新装になったきれいな会場の藤沢市役所会議室で開催をした。歴史が大好きなメンバーが、大勢押しかけた
。熱気むんむんであった。さらには、遠路はるばる歴史研究会本部より吉成勇主幹もご出席をされて、例年のように暖かい励ましのお言葉を述べられた。そのうえ、有り難く、お祝い金まで頂いた。
★総会では、あらかじめ事務局作成の議案に沿ってたんたんと進められていった。昨年度の活動の総括と、新年度の計画が発表された。一部、役員の異動もあった。
2-1今回選出された新会長より次のような発言があった。『神奈川、湘南の地で当会はスタートしてから37年を経過しており、大勢の歴史愛好家が集い、会の運営は順調に進んでいる。当会が更なる発展をしていくように、皆が楽しめるような会としていきたい。参加してみて面白かったと、感じさせるようにしていかなければいけない』と。
★恒例の新年特別講演では、中世史研究者であり、多くの著作も出版されている、柴裕之先生より「織田信長と惟任(明智)光秀」のテーマでお話をいただいた。
著名な講師が講演するということを聞きつけて、聴講者は当会のメンバー以外に、他会からの参加者を含めて54名。この日の夜から丁度、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の第一回目が始まるが、その主人公の物語である。 皆、大いに期待をしていた。
2-2光秀と言うと、一般には『本能寺』と『謀反人』というイメージが強く、歴史の表舞台に出てきたが、どうもそれだけではないようだ。自分も京都に旅行したときには、滞在していたホテルが近かったので、真っ先に新しい本能寺に行ってみたし、大阪に向かう新幹線のなかでは、京都を過ぎて大阪に入る手前で、この辺りが、山崎の合戦があったところだと想像していた。
そのくらいの思いでしかない。でも、さらには時代の背景をも考えて、もう少し突っ込んで、彼の立場を探っていく必要があるようだ。
先生は言われた。光秀はこの時代は、変動する国内情勢の展開のなかで、信長のもとに日本の中央にあった天下を管轄統治して、国内諸勢力の統合=『天下統一』を進めていった政治権力へと急激な発展を遂げた織田権力の特質を表徴したキーパーソンにあったといえる。
急激な情勢の展開が、彼の立場や家の将来に大きく影響をし、本能寺の変はこの時代性をもつ政変であったと位置づけられた。
聞きごたえがあった。ひとつのことがら範囲を広げて、客観的に考察することが大切であることを痛感した。
2-3新年祝賀会は、夕刻より会場を馴染みの藤沢商工会議所ミナパークの一階レストラン『ふじ』を借り切って賑やかに行われた。
総勢35名の出席者であった。これは昨年に比べて7名多かった。嬉しいことである。予定されていた座席が足りなく、急遽予備の椅子が運び込まれた。
例年と同様に、料理も多すぎるくらい多く、アルコール類も次々と栓を抜き、盃を交わし、大いに盛り上がった。
2-4宴席では、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負、等を意欲的にそして得意気に述べていかれた。
歓談に夢中であった出席者も、話しを中断して聞き入っていた。時間を気にせずに、長々と喋っていったものもいた。今年度の発表内容を聞いていくと、面白そうな、独創的な発表が多いようだ。

<レポート> 浅見 実 、<画像>小林道子

第349回令和元年12月月例会

研究発表

演題①  「古代~中世における僧侶の役割」
講師: 大岩泰氏

演題②  「東海道を歩く⑥白須賀宿~宮宿」
講師: 持田信廣氏

月例会レポート

◆第349回例会を12月15日(日)に、新築間もない藤沢市役所会議室で開催した。本日の参加者は28名。綺麗な部屋であった。こんな素晴らしい会場で歴史を学べることが楽しい。

◆最初の講演は、大岩泰氏により、テーマは「仏教史を通して歴史を眺める・釈迦誕生から仏教伝来まで」についてであった。

お話は、今から2千5百年ほど前のインドでの釈迦誕生から始まった。4月8日が誕生日であったらしい。母親から聞いた懐かしい子供の頃が思い出される。

季節は厳冬の寒さから解放された陽春の頃(あるいは桜花爛漫の頃)であったろう。言い伝えによると「天上天下唯我独尊」と言いながら生まれてきたらしい。

いつから花まつりは始まったのであろうか。そして、それからの花まつりでは、子供たちは楽しく祝い、仏像に甘茶をかけた。でも、その時には甘茶とはどんなものか知らなかった。それどころか、今でも飲んだことはないのだが。

今回の、氏の講演は、我が国では538年の『仏教公伝』の後、国家仏教として受容され、仏教は国造りの基礎となり、日本の文化形成に大きな影響を与えてきている。

さらには我が国の戦国時代までの展開を中国の歴史や仏教政策(儒、道、仏の三教政策)と照らして述べていかれた。その前提としての古代のインドと中国の歴史も、時間を割いて明快に解説をされた。大きいテーマのために、広域を見ながらいろいろと教わることが多かった。

釈迦は、菩提樹の下で悟りを開き、その教えをガンジス川流域の中インド各地に教えを広めていった。紀元前3世紀頃、インド全土を統一したアショカ王は、仏教を重視して保護宣布していった。

その後、7世紀頃ヒンドウ教が活性化してきて、インドでの仏教は徐々に衰退していった。しかしながら1-2世紀頃には中国に渡り、日本には6世紀中頃に朝鮮を経由して伝来した。この間の変遷を詳しく述べられた。大いに啓発をさせられた。

◆次の講演は、持田信廣氏により、「東海道を歩く(6)・白須賀から宮宿まで」について痛快な旅行記を話された。氏は東海道を始めとして五街道を何度も、徒歩で往来されている。健脚家である。

その土地々々で美味い酒を飲みながら、微に入り細に入り、そこでの歴史を研究されている。自分も、十数年前にこの地を歩き通したが、氏の講演を聞きながら懐かしさが蘇ってきた。

静岡県の浜名湖の先のよく知られた新居の関所を過ぎ、しばらく行くと潮見坂を登って行くと古い家並みが残る『白須賀宿』がある。もともとはこの宿は遠州灘を臨む真砂が集まっていた海辺にあったのだが、18世紀の始めの津波で被害を受けて坂上の現在地に移転したと言う。

ここから眺める太平洋の景色は素晴らしい。でも、関東地方の人々には、ここの地名はあまり知られていない。並行するJR東海道線も、遥か内陸を通っており馴染みのないところだ。

ここから愛知県となり、『二川宿』に入る。昔は二つの宿であったが、一か所に集めて、ふた川となった。やはり、あまり聞かない地名であろう。復元された本陣では、関連した資料もゆっくり見学ができる。

その後、『吉田宿』では、江戸時代から続く、料理屋のきく宗で菜飯田楽を食べ、『御油宿』の松並木をあっという間に過ぎ『赤坂宿』では、古い旅籠・大橋屋を見て、『藤川宿』、『岡崎宿』では家康の城に登り、『知立宿』を過ぎると桶狭間の古戦場の先に『鳴海宿』から『宮宿』と名古屋に至る。あっという間に過ぎていった。

もう一度、東海道筋を歩き通してみたい。知らない土地には、興味あることが多い。
(レポート:浅見 実)

第348回令和元年11月月例会

研究発表

演題①  「神仏分離と廃仏毀釈」
講師: 橋本欣之介氏

演題②  「その後の人生、どうなったのか」
講師: 川瀬和男氏

月例会レポート

◆第348回例会を11月17日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。本日の参加者は28名。いつものとおりとにかく歴史が大好きなメンバーが、嬉々として期待を込めて集まった。

◆最初の講演は、橋本欣之介理事により、テーマは「神仏分離と廃仏毀釈」についてであった。氏は幼少の頃より歴史小説を読むことを好み、歴史の中にどっぷり浸かっておられる。

このテーマとなった出来事は大きな歴史上の転換点であっただろう。

明治初年に布告された一連の神仏分離令は、維新政府の宗教政策として王政復古、祭政一致に基づいて神と仏を区別するもので、発令と同時に速やかに、そして強力に実施されていった。

この機を捉えて、多くの神官、神道家及び一部の施政者たちが、これを拡大解釈をして廃寺、廃仏に結びつけて活動、扇動するに至り、全国的な廃仏毀釈運動に発展をしていった。

その結果として天平以来の神仏習合の伝統的な文化を否定して、多くの貴重な文化財を喪失した。

その背景としては、江戸時代になり寺請制度の権限を用いて、寺は檀家と強固な関係を築いて、葬祭により民衆からの収奪を行うものが出てきたり、僧侶の堕落が見うけられるようになった。また、国学の勃興、神職と僧侶の対立等にも起因している。

神奈川歴史研究会の活動地である藤沢市の江の島でも、大きな変化があった。島に存在していた仏教的な堂塔伽藍の破却はもとより、仏像、撞鐘に至るまでほとんど整理されてしまった。

すなわち、護摩堂、開山堂、楼門、観音堂、地蔵堂、三重塔、仁王門等々がである。また、弁財天、弘法大師、不動明王等の像や図像も徹底して流出、滅失した。惜しいことしたが、もう後には戻らない。

この政策の結果として、我が国は国家神道設立の道を歩むこととなった。

◆次の講演は、川瀬和男理事により、「その後の人生、どうなったのか」について興味あるお話をされた。歴史上の難解な、異説がいくつもある争点を研究しての発表も、なるほどなと納得できることもある。

けれども、見方を変えて、聞く人をして満足されて、さらには、楽しくさせてくれる、皆が知らないような歴史豆知識のご披露も一服の清涼剤となる。

人生、最高の栄華を極めたものでも、その絶頂期はいつまでも続かない。場合としては悲惨な最後が待っている。

それらの事例を、江戸期以降の偉人、財を成した人物が歴史を降りてからの意外な「行方」について詳細に述べていかれた。確かに、偉業をなして歴史上の表舞台に立ち、名前を後世まで残したが、それらの人物の余生は意外に知られていない。

しかしながら、江戸時代の豪商『紀伊国屋文左衛門』については、自分の子供の頃から、『沖の暗いのに、白帆が見える、あれは紀の国のみかんぶね』という江戸かっぽれの名調子を、何度も聞いていた思い出がある。

紀州から蜜柑を悪天をついて回漕し一躍巨万の富を得たり、また、材木商として、江戸の大火の際には木曽の材木を買い占めて財をなしたと言われている。

そこで豪遊して紀文大尽とも称せられた。確かに伝説化された部分もあろう。彼の晩年には家産も傾き、落魄したという。

理事は、その他の具体例として、『平賀源内』『クラーク博士』『華岡青洲』『唐人お吉』『白瀬中尉』等について、広く文献を漁り、ユーモアを交えて話を進められていかれた。

知らないことも多くあり、歴史のトリビアルを垣間見ることができた。
(レポート:浅見 実)

第347回令和元年10月月例会

研究発表

演題①  「加賀の一向一揆」
講師: 村本博氏

演題②  「刀伊の入寇-藤原隆家と九州武士団」
講師: 小林道子氏

月例会レポート

★第347回例会を10月20日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。本日の参加者は34名。今回は、他のグループよりの聴講者もあり、きわめて盛況、さらには講師も気合充分であった。

★最初の講演は、村本博氏で、テーマは「加賀の一向一揆」についてであった。氏は今回のテーマとして取り上げられた金沢のご出身であり、精力的に加賀地方の研究をされている。

室町幕府(北朝)は60年かけて南北朝を統一したものの、大名に成長した守護達に足元を脅かされ続けた。

彼らは公然と荘園の侵略を始めたほか、在地の国人を自らの支配下に置き、ますます巨大化していった。応仁の乱以降、幕府の権威は衰えて、実質、京都の地方の政権的な状態となっていった。

もともと、この時代の体制は守護大名の連合政権であったために、幕府の統制力は欠けて、大名の勢力争いが絶えなかった。このような背景での加賀の国の出来事であった。

加賀(現在の石川県)地方では、本願寺八世蓮如の精力的な布教によって地侍、名主などの国衆と呼ばれる層に迎えられて急速に勢力を増していった。

蓮如は精力的かつ現実に対応するやわらかい頭脳と、人間的な魅力によって教化に成功して、教団を拡大していった。

長享2年(1488年)に、一向宗(浄土真宗の俗称)門徒は巨大な組織のもとに団結して、新興の武士や土豪層と連合して、各地で武装蜂起をして、彼らに弾圧を行っていた守護である富樫正親を倒すことに成功した。

そして以降、信長に滅ぼされるまでの90余年にわたって加賀一国支配していき、我が国のなかでは前代未聞の「百姓の持ちたる国」を実現させた。

★次の講演は、小林道子理事により「刀伊の入寇・藤原隆家と九州武士団」についてであった。刀伊とは夷狄(いてき)を意味する朝鮮語で、女真族を指した。

東部満州(中国黒竜江州)のツングース系民族である。有力な民族であった。宋を滅ぼし、中国東北地方『金』を後に建国をしたほどである。

11世紀の初めは、我が国では、藤原氏による摂関政治の絶頂期であった。特に、藤原道長は3人の娘を皇后に、1人を皇太子妃にし、3人の天皇の外祖父となり、30年余りもの間、権威を振るい続けた。

『此の世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも 無しと思へば』という即興の歌を詠んでいた頃である。

このような太平の時に、突然に、驚愕的な事件が発生した。寛仁3年(1019年)に、刀伊は高麗を襲い、さらには50余隻の軍船で、対馬・壱岐を攻め、筑前の能古島へ侵入してきた。

これまでも、アジア大陸に隣接している我が国には、たびたび新羅や高句麗などの異民族による襲撃・略奪をたびたび受けていた。でも、今回は規模が違った、あまりにも甚大な被害をもたらした。

殺人、放火等、多くの損害が発生した。九州大宰府の官兵は防戦したが、大宰府自体が持つ軍事力は微弱なものであり、これだけではとても防ぎきれるものではない。

賊徒は現在の唐津市から佐世保市までもやってきた。太宰権帥である中納言・藤原隆家ら九州武士の働きでやっと撃退することができた。刀伊の来襲による我が国の被害は、殺された者365人、捕らえられたもの1,289人等甚大であった。
(レポート 浅見 実)

第346回令和元年9月月例会

研究発表

演題①  「家族システムの変遷(Ⅲ)・ケーススタディー:律令制成立期における大伴氏」
講師: 大森健児氏
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演題②  「古代出雲の謎とその正体-ヤマタノオロチと因幡の白兎-」
講師: 田中真生雄氏
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月例会レポート

★第346回例会を9月15日(日)に、藤沢市六会公民館で開催した。本日の参加者は27名。久々の新築間もない六会での会合であった。

★最初の講演は、大森健児氏で、テーマは「家族システムの変遷(3)・ケーススタディー:律令制成立期における大伴氏」についてであった。

すなわち、最も基幹的で最小の構成単位である社会を構成する方法(家族システム)が、その他の組織に差異を生み出す主要な要因であるとされる。(フランスのエマニュエル・トッドが提唱したのである。)

氏は、これまでの当会では、2回にわたり今回の発表以前の時代の家族システムについて独創的な見解を発表されている。

我が国では、以前は母方あるいは双処居住であった家族システムは、8世紀はじめ頃の律令制の導入によって大きな変化を受けた。一族の拠点で営みをしていた豪族や有力者たちは、平城京への遷都によって、住む場所を強制的に都のなかに移された。

そして、蔭位制(オンイセイ・父祖のお蔭で子孫に位を賜うこと)等によって嫡子が優遇され男系継承へと導いていかれた。但し、当時は結婚に至るまで妻問婚であった。意識のなかでは母方居住が強く残っており、葛藤も見られたという。

大伴氏は古代の有力貴族のひとつであり、大和朝廷下では、軍事的にもすぐれた氏族であった。しかしながら、藤原不比等、武智麻呂(ムチマロ・不比等の子、南家の祖)などの台頭により苦境に立つことが多く、官も不遇となった。

しかしながら、人材は、多々あり、大伴旅人は歌人として名高い。その子である家持は万葉集中歌数数最も多く、その編纂者の一人に擬せられている。旅人の異母妹にあたり、同様に万葉集で女流では最も歌数が多い坂上郎女等々である。

律令制の導入に伴って甚大な影響を受けた大伴一族の家族システムの変遷を詳細に述べていかれた。

★次の講演は、出雲研究では、これまでいくつものすぐれた見解を『歴史研究』誌等で発表されている田中真生雄氏で「古代出雲の謎とその正体・ヤマタノオロチと因幡の白兎」についてであった。

これまでも氏は、出雲史で、記紀及び出雲の出雲国風土記を正史として扱い、すでに解明できた謎の意味・概念に基づき、さらには中国の史書との類似性・筆法をも考慮して研究されている。

そして、古代出雲を理解するために、その地理的条件を把握することが必須である。地区には多様性があり、日本の地形を凝縮して呈しており、記紀に登場する土地の特徴が、現在の地形とよく合致している。

出雲では多くの遺跡や遺物の出土が、独自性を示していると同時に、他地区との交流も盛んに行われていたことが窺うことができるとされた。

また、日本文化の発祥地であり、起源でもあると言われている。そして、ここは日本文化の根底をなす役割を果たしてきたと考えられる。特に、日本の祭祀において、出雲が影響していると言及された。

ヤマタノオロチは、真っ赤な目をしており頭尾八つに分かれており、スサノオがこれを退治して、(奇)稲田姫を救い、その尾を割いてアマノムラクモノツルギを得たとされる。出雲の国の『簸川(ヒノカワ』の上流に住んでいた。

ここを流れる『斐伊川』と『神戸川(カンドガワ)』(いずれも斐伊川水系である)に広がる出雲平野では、砂鉄採取に伴う多量の流砂で急速な流れに平野が成長した。天然資源ではメタンガスの埋蔵量が多い。

ヤマタノオロチはここの、神戸川のことであり、出雲で一番奥深く、水系も多く、一帯に堅い鉄がとれ、様々な道具を造ることができる。スサノオは、鉄の生産に関わりその交易に携わったと考えられると。

因幡の白兎は、因幡イコール稲場のことであり、稲葉を含んだ広い土地のことであろう。そして白兎は、相当数の水稲による稲作を生業とする民に擬制した。

比較的におとなしく、多産な民であった。大国主命は、稲作を普及させ、豪族の国をまとめあげ、統一した日本の国を成立させたと考えられると。
(レポート:浅見 実)

第345回令和元年8月月例会

研究発表

演題①  「生駒騒動とは」
講師: 竹村紘一氏

演題②  「西行法師の和歌と神奈川とのかかわり」
講師: 津久井 勤氏
>>内容はこちら→

月例会レポート

★8月18日(日)345回の例会を、藤沢市市民会館教養室で開催した。参加者は他からの応援5名をふくめて27名、酷暑にしては盛況であった。

★最初の発表者は当会会長の竹村で、演題は「生駒騒動とは」である。生駒氏では、譜代重臣(主席家老で国元の家老の生駒将監)と新参の江戸詰め重臣の前野助左衛門・石崎若狭等の主導権を巡る抗争が勃発する。

藩祖・親正の嫡子の一正は関ヶ原で父と離れて東軍に付いたことで、戦後は本領安堵され、西軍に味方した父・親正が隠居後は家督を継いだが、家の存続を確実なものとするため、外様ながら、家康や秀忠の信頼が厚い藤堂高虎の娘を嫡男・正俊の正室に迎えた。

正俊は早世したが、元服前の嫡子・高俊は外祖父の高虎の奔走により、高虎が後見することで家督相続は無事に認められた。

しかし、高俊は当時流行していた風流踊りに耽り美少年を着飾らせて躍らせ、生駒踊りと称されるに至った。他にも干害対策や江戸城修復のお手伝い普請費用の借り入れ問題や前野や石崎に対するお手盛り加増事件等が勃発し、両者の対立は激化の一途を辿り紆余曲折を経て、公儀による裁判となった。

前野や石崎派の連中が徒党を組み、武装して高松城を立ち退いたことが幕府の禁制に触れるとして結審し、前野・石崎派の主要メンバーは切腹若しくは死罪となり、生駒帯刀(将監の嫡子)派は他家お預けとなり、高俊は家を治めることが出来ないとして改易されたのであった。

★二番目の発表者は当会会員の津久井勤氏で、演題は「西行法師の和歌と神奈川のかかわり」であり、西行の生涯の概要を丁寧に解説された。

西行は藤原氏の一門の佐藤一族の出身で北面の武士に任ぜられ、和歌や有職故実に通じた人物としても将来を嘱望されていたが、二十三歳の時に突然、出家し、嵯峨野・小倉山・鞍馬山・吉野山・高野山・伊勢等で気の赴くままに草庵を結び、諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの秀歌を残した。

二回に亘る陸奥への旅や、四国の白峰陵への参拝や、二回目の陸奥の旅では鎌倉で、頼朝と会い一晩弓馬の話をしたとの話も遺されている。一説には頼朝の器量を見定める目的もあったとされる。

頼朝が与えた銀製の猫を近所で遊んでいた子供等に無造作に与えたとの話もある。七十を過ぎて終焉を迎える河内の弘川寺での判詞を藤原俊成やその息子の定家に依頼した歌合の話をされた。

神奈川での所縁の地は大磯を始めとして伊勢原・相模原・藤沢・茅ヶ崎があり、それぞれに西行の歌が遺されているが疑問のある和歌もあるという。

短時間はあったが、非常に興味深い話を聞かせて頂いて充実した時間を送ることが出来た。会終了後、近くの「鳥貴族」に有志二十一名が参加し盛会裏に懇親会を終えて大いに盛り上がった。
(レポート:竹村紘一)

第344回令和元年7月月例会

研究発表

演題①  「継体天皇は応神の『五世の孫』か?」
講師: 村島秀次氏

演題②  「『土芥寇讎記』と元禄期の大名」
講師: 長尾正和氏

月例会レポート

★第344回月例会を7月21日(日)に、藤沢市民会館会議室で開催した。参加者は横浜歴史研究会等の友好団体よりの応援参加者も含めて37名が出席した。久しぶりに、大勢の参加であり盛会であった。

★最初の講演は、横浜歴史研究会の理事である村島秀次氏により「継体天皇は応神の『五世の孫』か?」についてであった。

氏は歴研より、ご自身の長年の研究成果をまとめて『もうひとつの古代史・日本建国史試論』を上梓されている。売れ行きもまずまずであるとか。最近の傾向として歴史愛好者は、取り上げるテーマは圧倒的に古代史についてが多いらしい。

参考とする文献も漢字のみで書かれた記紀等を引用する。難解ではあるが、注釈書もいくつも出版されている。我が国の建国の頃の世界に入り込み、そこで壮大なロマンを追っている。

新しい自分なりの発見も多い。その際に氏の著書は、いくつものヒントを与えてくれる。簡潔明瞭な文章で歯切れがよく、理解しやすい。

邪馬台国の所在地についても、氏は九州説を支持されるという。と云うのは、2世紀後半から3世紀前半にかけて倭国が大陸の王朝との外交で、大和地方では距離が遠すぎる。

海路、瀬戸内海を経由していくにも危険が多い。大陸に面した海を挟んだ九州の方が、短距離でもあり、考え方としては無難であろうと。あるいは、そうかもしれない。

本日の、演題にある継体天皇は、記紀に記載された6世紀前半の天皇である。そして、応神天皇の5世の孫と言われている。しかしながらここにはいろいろな争点がある。越前から迎えられて河内で即位した。

この頃から我が国の国際関係が変化し、朝鮮半島での日本の勢力が任那4県の割譲などにより衰えてきた。磐井の乱もあり、大和朝廷の支配が内外に大きく動揺した時期である。

多々問題のあった武烈天皇以降には適当な皇子はいなかった。そこで継体天皇が、後継者としてふさわしいとされたのであろう。

氏は述べられた。調査の結果、応神天皇の五世の孫とは、正確には応神天皇の母である一族(実在したと確信される神功皇后につながる息長氏)の出身であるとされた。

古代史については、文献、遺跡等多くあるが、説が分かれるものがいくつもあり、それだけに研究のし甲斐がある。

★次の講演は長尾正和氏により「『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』と元禄期の大名」についてであった。これは江戸時代の大名列伝・評価を記した書のひとつである。意味は君主が家臣を見下ろしていれば、家臣は敵意を抱くことになるだろうということである。

元禄3年(1690年)現在の大名243人の家伝、所領、行跡を記し、そして『謳歌評説』と称する批評を加えている。現存するのは東大史料編纂所にある1冊だけである。本書の作成目的、編纂者等不明な点も多く、謎の書ともいわれている。

しかしながら、編纂者については、『幕府当局ないしは将軍家に密着した、一定階層の高官が、何人かの助手を使って調査を行ったのではないか』とされる。

予想されるのは、側用人の牧野成貞、水戸光圀、儒学者である林家等いくつかの説がある。いずれにしても、高い立場から記されている。

あまり知られていない文献ではあったが、磯田道史氏が『殿様の通信簿』という著作で紹介したので、その存在も大分知られるようになった。

自分はこのような書物があるとは今まで知らなかった。大体書名の漢字も難しい。他にも、当会には、江戸時代後期の随筆で神沢杜口著の『翁草』を研究している高橋正一氏もおられ、或いはポピュラーではない分野で歴史開拓に励まれて、新しい発見をして、その醍醐味を味わっている。

この書が成立した頃は、江戸期の水陸交通網が整備され、経済発展は助長して、着々と財力をつけた商人が台頭してきた。反対に武士は貧困に喘いでいったころである。

武家体制の維持のためにも、大名、武士たちに節度を保つように示唆した意味合いもあるかもしれないと自分は一瞬は思った。

しかしながら、諸大名の動静を知る類書は各地の大名家にも、いくつもあり、あくまで蔵書であり、出版されたり一般的に流布されたものではないことから、倫理的な要素はないであろう。記録書である。

この書物で高く評価された大名のひとりに奥州仙台藩第4代藩主伊達綱村がいる。文武両道を学び、主将の器であると。政策面でも、農業関連、文化政策、寺社仏閣の保護に貢献があった。他にも、興味ある大名が多い。
(レポート:浅見 実)

第343回令和元年6月月例会

研究発表

演題①  「江戸時代の道を求めて(山陽道)」
講師: 加藤岩男氏

演題②  「神武天皇伝説と三遠地方の関係」
講師: 前田豊氏

月例会レポート

★第343回月例会を6月16日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。参加者は29名。前日は強風の雨天であり、どうなるかと心配をしたが、当日は快晴、すがすがしい初夏の日和であった。

★最初の講演は、歴史探訪家である加藤岩男氏により「江戸時代の道を求めて(山陽道)」についてであった。

これまでも氏は、江戸時代の現在は廃道となっている荒れ果てた旧道となっている主要街道筋を、資料に沿って,忠実に、うるさい昆虫類に悩まされながら、そして『藪漕ぎ』をしながら、各地で走破されている。

すでに当会でもいく度も九州地区、山陰地区等の旅行記を過去に講演されている。そしてその時の記録を映像に残し編集して、プロジェクターを駆使して、聞いている我々をして臨場感あふれる楽しい現地への旅に案内をしてくれている。

山陽道(中国路)は、西宮から下関まで、約500キロある。そこを氏は、平成22年から23年まで延27日かけて歩いて行かれた。いくつも新しい発見があった。

山陽新幹線に乗れば2時間半程度で着いてしまうあっと言う間の時間の距離である。でもその間には歴史的にぜひ見ておきたい名所、史跡等がいくつもある。関東に住んでいる人々にとっては、あるのは分かっているが、見る機会が意外と少ない。

いつも思うのであるが、山陽新幹線は、とにかくトンネルが多い。外の景色を楽しめるところが少ないような気がする。さらには、かって新幹線のない時代に東京から九州に行くとき、午前中に東京を出発する急行列車に乗っても、山陽路を通過する時刻には、いつも夜中であった。景色どころではない。

いずれ昼間の山陽路をじっくり見てみたいと願っていたが、今回、氏の講演の映像を見たときに余計にたきつけられた。

山陽道には、旧道を辿る徒歩旅行をするときに、急峻な坂道の連続である峠越えが多い。赤穂市にある難所である播州箱根と呼ばれていた『有年峠』、三原市の鬱蒼とした竹林地帯にある『松子山峠』、小野田市にあり通るべき道が分かりにくく、途方に暮れる『蓮台寺峠』が、特に記憶に残っておられるようだ。

それらは別として、往時の面影を強く残す旧宿場町の街並みもノスタルジックにしてくれる。『姫路城』、『岡山城』、『広島城』の名城、毛利氏ゆかりの旧跡等にはぜひ行ってみたい。そして、最後に関門海峡の海底を歩いて下関から門司まで行ってみたい。

★次のスピーチは古代史研究家である前田豊氏による「神武天皇伝説と三遠地方の関係」についてであった。

氏は主張されている。神武東征は神話であるとされて架空説が歴史アカデミズムに浸透することとなった。しかしながら東三河を含む東海地方には、神武天皇伝承が豊富にあり、記紀に書かれた神武東征記事に該当する夥しい数の伝承地をもとに、初代天皇である神武天皇は実在したと述べられた。

これまでも、関連した自説を自著『古代神都東三河』、『倭国の真相』、『消された古代東ヤマト』等で意見を発表されている。かっての氏の勤務先であった東三河地域(愛知県豊橋、豊川等)ではこれらの著作が大いに売られ、かなり読まれたようである。

さすが氏は理科系の人である。数多くの書物を読み、それらの中から、理論的に整合するものを分類して、結論を導き出していく。その展開に揺るぎがない。

これまでにも、徐福研究では、ユニークな学説を発表されている。スサノオ神はいろいろな名前で祭られている。例えば、大山祇、速玉男、牛頭天王等々で、いずれも徐福伝承とのつながりがあるとされた。

そして、日本の古神道をもたらした物部集団が、徐福一行に含まれていた。物部神道は、日本神道の本流と考えられ、スサノオ神の父神はイザナギ神であるから、スサノオの父が徐福であれば、イザナギ神が徐福であろう。その結果として天皇家は徐福の子孫であるとされた。

氏は、古事記、日本書記、富士古文献(宮下文書)等を丹念にそして繰り返し熟読をしていかれた。共通の地名についても精査された。そこでいくつもの驚くべき発見があった。

東三河にもヤマトがあり、三輪山とか橿原は豊橋にあり、東征を図ったところは、九州の日向ではなく、蒲郡あたりであるし、途中の係留地も現在の筑紫、安芸、吉備等は通らずに東三河地区内を中心とした移動であると。さらには、この辺りには縄文、弥生、古墳時代の遺物も多量に出土している。

★例会終了後、藤沢の鳥貴族で開催した二次会の出席者は24名。盛会であった。
(レポート:浅見 実)

第342回令和元年5月月例会

研究発表

演題①  「都道府県別苗字の特徴・家紋」
講師: 新藤正則氏

演題②  「長屋王と周辺の人々」
講師: 橋本和子氏

月例会レポート

★第342回例会を5月19日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は37名。

★最初の講演は、新藤正則氏で「都道府県別苗字の特徴・難読苗字・家紋」についてお話をされた。氏は最近労作である『難読苗字辞典』を湘南社から出版された。

理科系のご専攻の方である。膨大な資料を丁寧にまとめ上げて、詳細に解説をされている。そして、その書籍の内容のなかでも特に興味ある事柄を今回はお話をされた。

我が国には、所謂、苗字の種類が、近隣の国に比べてやたら多い。おそらくは数万種以上はあるだろうと、耳にしたことがある。

これは多分和銅6年(713年)の『好字二字化令』の影響によるものであろう。苗字は原則2文字とすることになったからだ。漢字の組み合わせはいくらでもつくれる。

氏は都道府県別に、苗字の特徴を示された。それらの発祥の由来となる地名・地理的条件の特徴、あるいは人の移動によって、苗字の分布も異なってくる。東北地方では『佐藤』姓が一番多く、関東では『鈴木』姓が、関西では『田中』『山本』姓が多い。

特に興味を持てたのは、北海道への明治新政府の以降の移住政策により、東北・北陸地方よりの移住者が数では圧倒的に多いが、それでも日本中から人口の流入があり、苗字の面でもバラエティーある土地となったことである。

最近では、クイズに出てきそうな珍しい苗字についても言及された。。『小鳥遊』でタカナシ、『月見里』でヤマナシ等である。
また、この頃家紋を使用する機会が減ってきているが、日本の伝統文化であるので、大切にしたい述べられた。

★ 次の講演は、古代史の研究に詳しい橋本和子理事により「長屋王と周辺の人々」についてであった。長屋王は今から1290年前の天平元年に不比等の4子(藤原4子)と対立した結果、藤原宇合ら率いる軍勢に長屋王宅を囲まれ自害した。

奈良時代の政治家たちは権力闘争に明け暮れていたと言えよう。奈良時代・85年間の前期は皇族を中心とした皇親政治の時期で、長屋王の死後、藤原氏が台頭してきた節目の時代である。

長屋王は『密かに左道を学んで国家を傾けようとしている』と謀反を誣告された。左道とは邪悪を行い、聖武天皇を呪詛したという嫌疑であった。

不比等が養老4年(720年)に、藤原氏に対抗する皇族勢力の中から、長屋王が台頭、左大臣となり権力を握った。それは藤原氏側から見れば容認できなかったのではないだろうか。

事実、この頃以前より、律令により班田収授を基礎に庸・調などの人頭税を徴していたが、人口の増加により口分田が不足をしてきた。

また、あまりにも重税であったがために耕作している農民が逃げ出したりして、国家運営に基盤たる税収が不足をしてきた。公地公民制の崩壊の兆しが見えてきた。

そのような財政上の基盤のゆるみも、あるいは政権の維持に妨げになったのではないかと、自分は思う。一方で貴族、寺社の私的な領有地が拡大していった。

長屋王邸跡の側溝より6万点以上に及ぶ木簡群の出土により、奈良時代初期の貴族の家政経済、産物等の日常生活解明の道が大きく開けていけるであろう。
(レポート:浅見 実)

第341回平成31年4月月例会

研究発表

演題①  「武田信玄の跡目政策とお家滅亡の関係」
講師: 高野賢彦氏

演題②  「大津事件の真実」
講師: 槙良生氏
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月例会レポート

★第341回例会を4月21日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。本日の参加者は25名。この日は、たまたま、他所でも春のさまざまな行事があるために重なるメンバーもあり、当会にどれくらいの参加者が来られるか懸念されたが、心配することもなかった。いつもと同様であった。

★最初の講演は、当会で初めて発表をされる高野賢彦氏で、テーマは「武田信玄の跡目政策とお家滅亡の関係」についてであった。高野氏は、山梨県笛吹市のご出身で、とにかく武田氏については40年以上の研究成果があり、詳しい。多くの作品も出版されている。

その集大成とも言うべき成果を、今年の2月に、幻冬舎より『武田勢 京を目指して』というタイトルでの文庫本を出版された。今回の発表は、そのエッセンス部分のスピーチであった。

自分は今まで、戦国時代の武田家の信虎、信玄、勝頼の三人のなかでは、信玄が一番の人物であると思っていたが、そうではないらしい。確かに信玄は、川中島の合戦で知名度を上げ、氾濫する河川対策として信玄堤を築いたことは評価されている。

しかしながら、信虎は本拠を、甲府市北部の躑躅ケ崎に館を築いて今年はちょうど500年に当たる。敏捷で合戦上手の信虎が、甲斐の国を、苦心惨憺25年の歳月をかけて乱国を統一して、さらには、四隣攻め込み信玄と勝頼が版図を拡大して京を目指したのである。

武田家の来歴は、遡ること9世紀後半の清和天皇の子、陽成天皇の流れを汲んでいる。信虎は系図から見ると新羅三郎義光から始まり18代目に当たる。信玄19代、勝頼20代である。しかしながら家系は複雑である。

甲斐の国は、険阻な山々に囲まれた要害の地である、戦国の真ん中に位置して、周囲の状況、一族間の不和などが原因して、武田氏の甲斐の国での統治は挫折し、滅亡することなった。

その本当の原因は、信玄が謀殺した諏訪頼重の一人娘で、当時11歳の御寮人に心を奪われ、周囲の猛反対を押し切ってあたかも正室に準ずる形で迎え入れたことにあるという。

そこから御寮人から勝頼が生まれた。そのことが武田本来の体制が崩れる素因となり、跡目が混乱して勝頼時代は崩壊するに至ったとされる。意外にあっけなく滅びていった。長篠戦の敗北は主要原因ではなかった。

また、信玄は、父信虎を駿河の今川義元のもとに追放をした。親子関係を無情にそこまで割り切ってしまって良いのか。信玄は、父信虎よりも早くこの世を去っていった。

今回の講演を拝聴して新たに自分の知識に加えられたこと多々あった。複雑な歴史事実を、よくまとめられており有意義であった。氏の深い研究の賜物であろう。

★次の講演は、槙良生事務局長により「大津事件の真実」についての講演であった。今から128年前の明治24年(1891年)5月11日に、滋賀県大津市で国を揺るがした大事件が発生した。

来日中の、当時のロシア皇太子ニコライが、人力車で京町筋を通行中に路上の警備にあたっていた津田三蔵巡査により、突然に抜刀して頭部を斬りつけられ負傷をしたのである。大国ロシアに対しとんでもないことをした。

驚愕した政府は、津田に対して『皇室に対する罪』を適用して死刑を求めた。しかしながら大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙(こじまこれかた)は毅然とした態度でこれを退けて、無期徒刑の判決を行い司法権の独立を守ったとされる。

津田の犯行動機については、判然とはしないが、計画的なものではなく、突発的なものであったであろう。彼の西南戦争の体験からきた神経症の発作であろうと槙氏は推測している。

外国の皇太子は、当時の日本国刑法にいう『皇太子』には含まれるか否か争点になったが、児島は含まれないと強く主張をした。児島は宇和島藩の出身であり、もし彼が薩長の出身であったら事件の展開は変わっていたのではないだろうか。

津田は、この年の7月2日に、北海道の釧路集治監におくられた。しかしながら9月30日に肺炎により死亡した。収監後あまりに早すぎる死亡についてはいろいろ憶測されてはいる。

この事件が起こったときは、我が国では幕末に締結された条約改正に積極的に取り組んでいた。対外的な独立達成のためにも、明治政府の悲願であった。時の外相・青木周蔵は、この頃、イギリスに接近をして、領事裁判権撤廃の同意を得ていた。

しかしながら、大津事件発生のために交渉は中止となり、外相は責任をとり辞職をした。もしこの事件がなかったら、条約の改正は数年以上は多分早まったと、自分は思う。

自分がここの事件現場を訪ねたのはもう13年前のことだ。東海道を日本橋から、十数年かけて歩き通していき、最後の宿場町大津に到着した。

寿司屋で昼食をとり、安政年間に創業したというお茶屋に立ち寄り、店の奥さんと歓談後、いくつか品物を購入して、店を出たすぐのところに事件の石碑があった。だれもいなかった。あれほどの大事件の起こった現場とは思えないほどひっそりしていた。今思うと懐かしさが感じられる。

槙節は流れるように冴えわたっていた。よどみなく、わかりやすくまとめて事件の展開を述べていくスピーチに皆は聞きいっていた。よく調べられておられる。
(レポート:浅見 実)

第340回平成31年3月月例会

研究発表

演題①  「神沢杜口(かんざわとこう)」と「翁草(おきなぐさ)」
講師: 高橋正一氏
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演題②  「新十津川物語」
講師: 浅見実氏
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月例会レポート

★第340回例会を3月17日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。当日の参加者は27名。あと何日かでソメイヨシノの開花が待たれるが、この日は強風でやや薄ら寒かった。

★最初の講演は、当会での初めての発表をされる高橋正一氏で、テーマは「神沢杜口(かんざわとこう)と翁草(おきなぐさ)」についてであった。

高橋氏は京都を愛し、年間の三分の一近くは京都にワンルームマンションを借りて滞在、精力的に京都市内を徘徊、名所旧跡、祭り、行事などを見聞して『京日記』というタイトルでSNSに公開されている。

江戸時代中・後期の京都の人である神沢杜口も、奉行所与力を退職後に、85才過ぎまで京都市内を徘徊して見聞きをしたり、考察したことを『翁草』というタイトルの随筆集として纏めている。膨大な書物で、全部で200巻ほどになる。

その記録は歴史、地理、風俗、文学、芸能、有職故事、京都の事件等百般にわたり、江戸時代を理解するのに有益な資料である。高橋氏も杜口と似た嗜好があることから、『翁草』の研究を始めたという。杜口は、とにかく京都市内を歩き回ったらしい。

一日に20キロは、悪天候でも歩いたらしい。高橋氏もそれに負けないほど歩き回っている。歴史は足で研究するものであると。そして健康のためでもある。

杜口は、入江家に生まれるとしか、書かれていない。それを、高橋氏は杜口の屋敷探しを『京都武鑑(宝暦から慶応)』を参照して屋敷の所在地をほぼ突き止めたという。しかしながらこれは入江氏の屋敷についてであり、生家だとは断言できないが、まず実家であることは間違いなかろうと考えられると言われた。

研究を進めていくと、現在の通説と、翁草に書かれている事実と違うことがあるようだ。例えばある大手デパートの創業者の出自について、また別の大手のデパートのロゴマークの起源について、それぞれのデパートの説明との間に相違がある。

これこそ、歴史書を読み込んだ結果、発見した醍醐味であろう。さらには、明智光秀を織田信長へ推挙したのは本阿弥光正であると翁草には記載があるという。新発見もこれから多く出てくるであろう。

★次は私、浅見による「新十津川物語」についてであった。北海道の札幌の北80キロほどのところにある樺戸郡『新十津川町』は、奈良県吉野郡『十津川村』からの集団移住により、開拓された町である。

というのは明治22年(1889年)8月18日より20日までの3日間にわたり吉野郡一帯が壊滅的な未曽有の天災・暴風による大水害に襲われた。十津川はその当時戸数2,403戸、人口は12,862人の山村であったが、死者168人全壊・流出家屋426戸、水田の50%、畑の20%も流出した。

大きな被害が発生した。このままでは生活を立て直すことができない人々が600戸、2,489人が、現在の新十津川町に移住して、新しい町をつくった。

移住民たちは、その年の10月に、奈良を出発して、海路北海道に向かい小樽に上陸して、三笠まで列車に乗り、そこから越冬地である滝川までの52キロの道程を囚人たち助けられて歩いて、やっとのことで、たどり着いた。

寒い北海道の気候の土地に到着するまでの船や汽車のなかで死亡した人も大勢いた。奈良を出発後10か月間で96人の人々が死亡したという。囚人たちは橇を引きながら『大和移住民は空知の肥だよ』と歌ったほどだ。悲惨なものであった。翌年の7月に石狩川を渡り、新十津川のトック原野にたどり着いた。

とにかく昼なお暗い一面の原始林の未開の土地を切り開いていった。ヤチダモとかアカダモなどの大木や、クマザサが生い茂っていたところをである。少しずつ手作業によってである。ブ

ヨや蚊に悩まされながら。毎年、耕作する作物を増やしていった。その後、手作業からプラオによる馬耕が導入されて作物の生産量が多量にあがってきた。現在では米作中心の農業地域である。

奈良県五條市出身の川村たかし氏が、児童向けの小説『新十津川物語』10巻を出版後、さらに知れ渡ることとなった。
(レポート:浅見 実)

第339回平成31年2月月例会

研究発表

演題①  「回顧・私の歴史研究会と私」
講師: 横山忠弘氏
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演題②  「大久保利通の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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月例会レポート

★第339回例会を2月17日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。当日の参加者は24名。毎月の例会に比し、やや人数が少ない。2月は、年間の寒さがピークの時期でもあり、風邪をひいているものもあり、やむを得ないか。

★最初の講演は、当会顧問でもある横山忠弘氏が、「回顧、私の歴史研究会」についてお話をされた。長年にわたる横山歴史研究の成果について、その概要を発表された。

氏は、勤務先をご退職された頃より、20年以上にわたり歴史についての小論文を50篇以上書き上げて、当会の機関紙を始めとして、総合出版社歴研発行の『歴史研究』、横浜歴史研究会の会誌『歴研よこはま』中文会の機関紙『ちゅうぶん』に、そのすべて発表されている。

内容も、天孫降臨の時代から現代まで、ジャンルも広い。内容も平易にして、温厚な主張が多い。自分には共感できるところがいくつもある。

氏は、昭和9年に、現在の広島市に生まれて、小学生時代に、幸いなことにご無事ではあったが原爆投下を経験されている。大学は京都にある同志社大学に学ばれ、卒業後当時の日本住宅公団に就職をされた。

ご退職後は、本格的に歴史研究に励まれていくつかの歴史サークルに入会されて現在に至っている。また、当会の事務局長として在任中は、会の発展のために、大いに貢献をされた。

これまで、氏の作成された原稿は、いずれも珠玉随想録であると、本人は自賛されているが、平成27年に刊行した『横山忠弘著作集』、及びその翌年に刊行した『横山忠弘著作集(Ⅱ)』が掲載されている。

大作である。その結果昨年開催された『全国歴史研究会2018全国集会』では、著作集出版の功績として歴史大賞功労賞を授与された。

本日の発表は、歴史大好きの人たち・みんなの協力もあったことを感謝しつつ、その経緯を説明された。氏は最後に、これらのことは『わが人生の誇りである』と締めくくられた。

★次の講演は、横浜市社会福祉協議会歴史講座担当講師、日本体育大学武道学科講師を歴任され、幕末の出来事や人物にターゲットおいて研究しておられる、当会理事である渡邊幸太郎氏により「大久保利通の生涯」についてであった。

写真、映像等を駆使して、バラエティーあるストーリの展開を進めていかれて、とにかく興味を持てた。氏の講演は、これまでも幕末の混乱期の偉人等について、皆が知らないようなことまで、その真実について、いきいきと話されることが多く、皆をして惹き付けることが多い。

薩摩藩出身の幕末の二大人物と言うと、多分、同郷の西郷隆盛と大久保利通であろう。ともに歴史の表舞台で大活躍をした。しかしながら、西郷の方が、これまでもテレビドラマ等で取り上げられる回数も多く、馴染みもあると、自分では思う。とにかくまさしく大人物であったことは間違いがなかろう。

しかしながら、大久保は、幕末は討幕運動に大活躍をし、維新政府設立後は内務卿に就任して版籍奉還、廃藩置県などの実現に努め、近代国家として必要な殖産興業、地租改定、秩禄処分などの諸政策を実行した。それらのことが、旧士族の恨みを買ったことも間違いあるまい。

そんな大久保の、西郷との確執どうして長州藩出身の要人をさしおいてまでトップに立てたのだろうか、明治政府に対して、大久保個人としての財政的協力、等々について膨大な資料を参照して得た結論を述べていかれた。
(レポート:浅見 実)

第339回平成31年度新年定期総会

新年特別講演会

演題①  「三国志の幕開けとなった黄巾の乱」
講師: 竹村紘一氏(神奈川歴史研究会会長)

①新年定期総会 ②特別講演会 ③新年宴会

新年定期総会レポート

★総会では、あらかじめ事務局作成の議案に沿ってたんたんと進められていった。昨年度の活動の総括と、新年度の計画が発表された。昨年は当会35周年の大きなイベントを成功裏に収めた。会の運営は順調に進んでいる。愉快な歴史を楽しむ集まりでもある当会が更なる発展をしていくように皆で努力をしていきたい。

★恒例の新年特別講演では、竹村会長により「三国志の幕開けとなった黄巾の乱」のテーマでお話をされた。事件が勃発したのは西暦184年というから、今から1,800年以前の中国の後漢時代の出来事である。

日本では各地で弥生式土器がつくられていた時代である。『倭国大いに乱れ、更相攻伐して暦年主なし』の時代から、やっと邪馬台国を中心とする30国ほどの小国連合が成立したての頃である。

そんな時に、大陸では、後漢朝内部での権力争いが繰り返えされ、政治が乱れていた。天災飢饉が続発して、農民の反乱が絶えなかった。そこで登場したのが道士『張角』である。呪術を行い、民間宗教でもある『太平道』を広めて、貧民を救済し、たちまち強大となり、信徒数十万人が蜂起した。黄巾を標識としていた。

この乱はその後衰えたが、後漢滅亡の契機となった。ここから魏、呉、蜀の壮大すぎる三国志の時代が到来するのである。『血沸き肉躍る』三国志(演義)を愛読して歴史に興味をもった少年は竹村会長を含めて多い。
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★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークの一階レストラン『ふじ』を借り切って賑やかに行われた。総勢29名の出席者であった。
例年に比較してとにかく料理も多すぎるくらい多く、アルコールも予想以上に次々と栓を抜き、盃を交わし、大いに盛り上がった。

しばらく歓談のあとに、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、昨年と同じように、意欲的にそして得意気に述べていかれた。今年度の発表内容を聞いていくと、実に独創的な発表が多い。テーマは平易でも、内容は通説だけではなく、いくつもの参考資料をあたり、時代の背景・意義をも深く研究しているもの。

マイナーな、あまり聞きなれない題材ではあるが、その時代の変遷をよく調べ上げているもの。歴史を、数学の法則に当てはめて、関連付けをやっているもの。旅と歴史を結び付けているもの。

テーマは最近の流行であろう古代史及びそれ以前を扱っているものが一番多い。今年はとにかく愉快そうだ。3月末には温暖な気候の桜花爛漫の頃、生麦の歴史地区を、竹村会長のご案内で、ゆったり散策し、終了後はビールパーティーを楽しみたい。
(レポート:浅見 実)

これまでの年別アーカイブ

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