【研究発表】

第343回令和元年6月月例会 (New!!)

研究発表

演題①  「江戸時代の道を求めて(山陽道)」
講師: 加藤岩男氏

演題②  「神武天皇伝説と三遠地方の関係」
講師: 前田豊氏

月例会レポート

★第343回月例会を6月16日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。参加者は29名。前日は強風の雨天であり、どうなるかと心配をしたが、当日は快晴、すがすがしい初夏の日和であった。

★最初の講演は、歴史探訪家である加藤岩男氏により「江戸時代の道を求めて(山陽道)」についてであった。

これまでも氏は、江戸時代の現在は廃道となっている荒れ果てた旧道となっている主要街道筋を、資料に沿って,忠実に、うるさい昆虫類に悩まされながら、そして『藪漕ぎ』をしながら、各地で走破されている。

すでに当会でもいく度も九州地区、山陰地区等の旅行記を過去に講演されている。そしてその時の記録を映像に残し編集して、プロジェクターを駆使して、聞いている我々をして臨場感あふれる楽しい現地への旅に案内をしてくれている。 

山陽道(中国路)は、西宮から下関まで、約500キロある。そこを氏は、平成22年から23年まで延27日かけて歩いて行かれた。いくつも新しい発見があった。

山陽新幹線に乗れば2時間半程度で着いてしまうあっと言う間の時間の距離である。でもその間には歴史的にぜひ見ておきたい名所、史跡等がいくつもある。関東に住んでいる人々にとっては、あるのは分かっているが、見る機会が意外と少ない。

いつも思うのであるが、山陽新幹線は、とにかくトンネルが多い。外の景色を楽しめるところが少ないような気がする。さらには、かって新幹線のない時代に東京から九州に行くとき、午前中に東京を出発する急行列車に乗っても、山陽路を通過する時刻には、いつも夜中であった。景色どころではない。

いずれ昼間の山陽路をじっくり見てみたいと願っていたが、今回、氏の講演の映像を見たときに余計にたきつけられた。   

山陽道には、旧道を辿る徒歩旅行をするときに、急峻な坂道の連続である峠越えが多い。赤穂市にある難所である播州箱根と呼ばれていた『有年峠』、三原市の鬱蒼とした竹林地帯にある『松子山峠』、小野田市にあり通るべき道が分かりにくく、途方に暮れる『蓮台寺峠』が、特に記憶に残っておられるようだ。

それらは別として、往時の面影を強く残す旧宿場町の街並みもノスタルジックにしてくれる。『姫路城』、『岡山城』、『広島城』の名城、毛利氏ゆかりの旧跡等にはぜひ行ってみたい。そして、最後に関門海峡の海底を歩いて下関から門司まで行ってみたい。

★次のスピーチは古代史研究家である前田豊氏による「神武天皇伝説と三遠地方の関係」についてであった。

氏は主張されている。神武東征は神話であるとされて架空説が歴史アカデミズムに浸透することとなった。しかしながら東三河を含む東海地方には、神武天皇伝承が豊富にあり、記紀に書かれた神武東征記事に該当する夥しい数の伝承地をもとに、初代天皇である神武天皇は実在したと述べられた。

これまでも、関連した自説を自著『古代神都東三河』、『倭国の真相』、『消された古代東ヤマト』等で意見を発表されている。かっての氏の勤務先であった東三河地域(愛知県豊橋、豊川等)ではこれらの著作が大いに売られ、かなり読まれたようである。

さすが氏は理科系の人である。数多くの書物を読み、それらの中から、理論的に整合するものを分類して、結論を導き出していく。その展開に揺るぎがない。

これまでにも、徐福研究では、ユニークな学説を発表されている。スサノオ神はいろいろな名前で祭られている。例えば、大山祇、速玉男、牛頭天王等々で、いずれも徐福伝承とのつながりがあるとされた。

そして、日本の古神道をもたらした物部集団が、徐福一行に含まれていた。物部神道は、日本神道の本流と考えられ、スサノオ神の父神はイザナギ神であるから、スサノオの父が徐福であれば、イザナギ神が徐福であろう。その結果として天皇家は徐福の子孫であるとされた。

氏は、古事記、日本書記、富士古文献(宮下文書)等を丹念にそして繰り返し熟読をしていかれた。共通の地名についても精査された。そこでいくつもの驚くべき発見があった。

東三河にもヤマトがあり、三輪山とか橿原は豊橋にあり、東征を図ったところは、九州の日向ではなく、蒲郡あたりであるし、途中の係留地も現在の筑紫、安芸、吉備等は通らずに東三河地区内を中心とした移動であると。さらには、この辺りには縄文、弥生、古墳時代の遺物も多量に出土している。

★例会終了後、藤沢の鳥貴族で開催した二次会の出席者は24名。盛会であった。
(レポート:浅見 実)

第342回令和元年5月月例会

研究発表

演題①  「都道府県別苗字の特徴・家紋」
講師: 新藤正則氏

演題②  「長屋王と周辺の人々」
講師: 橋本和子氏

月例会レポート

★第342回例会を5月19日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は37名。

★最初の講演は、新藤正則氏で「都道府県別苗字の特徴・難読苗字・家紋」についてお話をされた。氏は最近労作である『難読苗字辞典』を湘南社から出版された。

理科系のご専攻の方である。膨大な資料を丁寧にまとめ上げて、詳細に解説をされている。そして、その書籍の内容のなかでも特に興味ある事柄を今回はお話をされた。

我が国には、所謂、苗字の種類が、近隣の国に比べてやたら多い。おそらくは数万種以上はあるだろうと、耳にしたことがある。

これは多分和銅6年(713年)の『好字二字化令』の影響によるものであろう。苗字は原則2文字とすることになったからだ。漢字の組み合わせはいくらでもつくれる。

氏は都道府県別に、苗字の特徴を示された。それらの発祥の由来となる地名・地理的条件の特徴、あるいは人の移動によって、苗字の分布も異なってくる。東北地方では『佐藤』姓が一番多く、関東では『鈴木』姓が、関西では『田中』『山本』姓が多い。

特に興味を持てたのは、北海道への明治新政府の以降の移住政策により、東北・北陸地方よりの移住者が数では圧倒的に多いが、それでも日本中から人口の流入があり、苗字の面でもバラエティーある土地となったことである。

最近では、クイズに出てきそうな珍しい苗字についても言及された。。『小鳥遊』でタカナシ、『月見里』でヤマナシ等である。
また、この頃家紋を使用する機会が減ってきているが、日本の伝統文化であるので、大切にしたい述べられた。

★ 次の講演は、古代史の研究に詳しい橋本和子理事により「長屋王と周辺の人々」についてであった。長屋王は今から1290年前の天平元年に不比等の4子(藤原4子)と対立した結果、藤原宇合ら率いる軍勢に長屋王宅を囲まれ自害した。

奈良時代の政治家たちは権力闘争に明け暮れていたと言えよう。奈良時代・85年間の前期は皇族を中心とした皇親政治の時期で、長屋王の死後、藤原氏が台頭してきた節目の時代である。

長屋王は『密かに左道を学んで国家を傾けようとしている』と謀反を誣告された。左道とは邪悪を行い、聖武天皇を呪詛したという嫌疑であった。

不比等が養老4年(720年)に、藤原氏に対抗する皇族勢力の中から、長屋王が台頭、左大臣となり権力を握った。それは藤原氏側から見れば容認できなかったのではないだろうか。

事実、この頃以前より、律令により班田収授を基礎に庸・調などの人頭税を徴していたが、人口の増加により口分田が不足をしてきた。

また、あまりにも重税であったがために耕作している農民が逃げ出したりして、国家運営に基盤たる税収が不足をしてきた。公地公民制の崩壊の兆しが見えてきた。

そのような財政上の基盤のゆるみも、あるいは政権の維持に妨げになったのではないかと、自分は思う。一方で貴族、寺社の私的な領有地が拡大していった。

長屋王邸跡の側溝より6万点以上に及ぶ木簡群の出土により、奈良時代初期の貴族の家政経済、産物等の日常生活解明の道が大きく開けていけるであろう。
(レポート:浅見 実)

第341回平成31年4月月例会

研究発表

演題①  「武田信玄の跡目政策とお家滅亡の関係」
講師: 高野賢彦氏

演題②  「大津事件の真実」
講師: 槙良生氏
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月例会レポート

★第341回例会を4月21日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。本日の参加者は25名。この日は、たまたま、他所でも春のさまざまな行事があるために重なるメンバーもあり、当会にどれくらいの参加者が来られるか懸念されたが、心配することもなかった。いつもと同様であった。

★最初の講演は、当会で初めて発表をされる高野賢彦氏で、テーマは「武田信玄の跡目政策とお家滅亡の関係」についてであった。高野氏は、山梨県笛吹市のご出身で、とにかく武田氏については40年以上の研究成果があり、詳しい。多くの作品も出版されている。

その集大成とも言うべき成果を、今年の2月に、幻冬舎より『武田勢 京を目指して』というタイトルでの文庫本を出版された。今回の発表は、そのエッセンス部分のスピーチであった。

自分は今まで、戦国時代の武田家の信虎、信玄、勝頼の三人のなかでは、信玄が一番の人物であると思っていたが、そうではないらしい。確かに信玄は、川中島の合戦で知名度を上げ、氾濫する河川対策として信玄堤を築いたことは評価されている。

しかしながら、信虎は本拠を、甲府市北部の躑躅ケ崎に館を築いて今年はちょうど500年に当たる。敏捷で合戦上手の信虎が、甲斐の国を、苦心惨憺25年の歳月をかけて乱国を統一して、さらには、四隣攻め込み信玄と勝頼が版図を拡大して京を目指したのである。

武田家の来歴は、遡ること9世紀後半の清和天皇の子、陽成天皇の流れを汲んでいる。信虎は系図から見ると新羅三郎義光から始まり18代目に当たる。信玄19代、勝頼20代である。しかしながら家系は複雑である。

甲斐の国は、険阻な山々に囲まれた要害の地である、戦国の真ん中に位置して、周囲の状況、一族間の不和などが原因して、武田氏の甲斐の国での統治は挫折し、滅亡することなった。

その本当の原因は、信玄が謀殺した諏訪頼重の一人娘で、当時11歳の御寮人に心を奪われ、周囲の猛反対を押し切ってあたかも正室に準ずる形で迎え入れたことにあるという。

そこから御寮人から勝頼が生まれた。そのことが武田本来の体制が崩れる素因となり、跡目が混乱して勝頼時代は崩壊するに至ったとされる。意外にあっけなく滅びていった。長篠戦の敗北は主要原因ではなかった。

また、信玄は、父信虎を駿河の今川義元のもとに追放をした。親子関係を無情にそこまで割り切ってしまって良いのか。信玄は、父信虎よりも早くこの世を去っていった。

今回の講演を拝聴して新たに自分の知識に加えられたこと多々あった。複雑な歴史事実を、よくまとめられており有意義であった。氏の深い研究の賜物であろう。

★次の講演は、槙良生事務局長により「大津事件の真実」についての講演であった。今から128年前の明治24年(1891年)5月11日に、滋賀県大津市で国を揺るがした大事件が発生した。

来日中の、当時のロシア皇太子ニコライが、人力車で京町筋を通行中に路上の警備にあたっていた津田三蔵巡査により、突然に抜刀して頭部を斬りつけられ負傷をしたのである。大国ロシアに対しとんでもないことをした。

驚愕した政府は、津田に対して『皇室に対する罪』を適用して死刑を求めた。しかしながら大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙(こじまこれかた)は毅然とした態度でこれを退けて、無期徒刑の判決を行い司法権の独立を守ったとされる。

津田の犯行動機については、判然とはしないが、計画的なものではなく、突発的なものであったであろう。彼の西南戦争の体験からきた神経症の発作であろうと槙氏は推測している。

外国の皇太子は、当時の日本国刑法にいう『皇太子』には含まれるか否か争点になったが、児島は含まれないと強く主張をした。児島は宇和島藩の出身であり、もし彼が薩長の出身であったら事件の展開は変わっていたのではないだろうか。

津田は、この年の7月2日に、北海道の釧路集治監におくられた。しかしながら9月30日に肺炎により死亡した。収監後あまりに早すぎる死亡についてはいろいろ憶測されてはいる。

この事件が起こったときは、我が国では幕末に締結された条約改正に積極的に取り組んでいた。対外的な独立達成のためにも、明治政府の悲願であった。時の外相・青木周蔵は、この頃、イギリスに接近をして、領事裁判権撤廃の同意を得ていた。

しかしながら、大津事件発生のために交渉は中止となり、外相は責任をとり辞職をした。もしこの事件がなかったら、条約の改正は数年以上は多分早まったと、自分は思う。

自分がここの事件現場を訪ねたのはもう13年前のことだ。東海道を日本橋から、十数年かけて歩き通していき、最後の宿場町大津に到着した。

寿司屋で昼食をとり、安政年間に創業したというお茶屋に立ち寄り、店の奥さんと歓談後、いくつか品物を購入して、店を出たすぐのところに事件の石碑があった。だれもいなかった。あれほどの大事件の起こった現場とは思えないほどひっそりしていた。今思うと懐かしさが感じられる。
 
槙節は流れるように冴えわたっていた。よどみなく、わかりやすくまとめて事件の展開を述べていくスピーチに皆は聞きいっていた。よく調べられておられる。
(レポート:浅見 実)

第340回平成31年3月月例会

研究発表

演題①  「神沢杜口(かんざわとこう)」と「翁草(おきなぐさ)」
講師: 高橋正一氏
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演題②  「新十津川物語」
講師: 浅見実氏
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月例会レポート

★第340回例会を3月17日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。当日の参加者は27名。あと何日かでソメイヨシノの開花が待たれるが、この日は強風でやや薄ら寒かった。

★最初の講演は、当会での初めての発表をされる高橋正一氏で、テーマは「神沢杜口(かんざわとこう)と翁草(おきなぐさ)」についてであった。

高橋氏は京都を愛し、年間の三分の一近くは京都にワンルームマンションを借りて滞在、精力的に京都市内を徘徊、名所旧跡、祭り、行事などを見聞して『京日記』というタイトルでSNSに公開されている。

江戸時代中・後期の京都の人である神沢杜口も、奉行所与力を退職後に、85才過ぎまで京都市内を徘徊して見聞きをしたり、考察したことを『翁草』というタイトルの随筆集として纏めている。膨大な書物で、全部で200巻ほどになる。

その記録は歴史、地理、風俗、文学、芸能、有職故事、京都の事件等百般にわたり、江戸時代を理解するのに有益な資料である。高橋氏も杜口と似た嗜好があることから、『翁草』の研究を始めたという。杜口は、とにかく京都市内を歩き回ったらしい。

一日に20キロは、悪天候でも歩いたらしい。高橋氏もそれに負けないほど歩き回っている。歴史は足で研究するものであると。そして健康のためでもある。

杜口は、入江家に生まれるとしか、書かれていない。それを、高橋氏は杜口の屋敷探しを『京都武鑑(宝暦から慶応)』を参照して屋敷の所在地をほぼ突き止めたという。しかしながらこれは入江氏の屋敷についてであり、生家だとは断言できないが、まず実家であることは間違いなかろうと考えられると言われた。

研究を進めていくと、現在の通説と、翁草に書かれている事実と違うことがあるようだ。例えばある大手デパートの創業者の出自について、また別の大手のデパートのロゴマークの起源について、それぞれのデパートの説明との間に相違がある。

これこそ、歴史書を読み込んだ結果、発見した醍醐味であろう。さらには、明智光秀を織田信長へ推挙したのは本阿弥光正であると翁草には記載があるという。新発見もこれから多く出てくるであろう。

★次は私、浅見による「新十津川物語」についてであった。北海道の札幌の北80キロほどのところにある樺戸郡『新十津川町』は、奈良県吉野郡『十津川村』からの集団移住により、開拓された町である。

というのは明治22年(1889年)8月18日より20日までの3日間にわたり吉野郡一帯が壊滅的な未曽有の天災・暴風による大水害に襲われた。十津川はその当時戸数2,403戸、人口は12,862人の山村であったが、死者168人全壊・流出家屋426戸、水田の50%、畑の20%も流出した。

大きな被害が発生した。このままでは生活を立て直すことができない人々が600戸、2,489人が、現在の新十津川町に移住して、新しい町をつくった。

移住民たちは、その年の10月に、奈良を出発して、海路北海道に向かい小樽に上陸して、三笠まで列車に乗り、そこから越冬地である滝川までの52キロの道程を囚人たち助けられて歩いて、やっとのことで、たどり着いた。

寒い北海道の気候の土地に到着するまでの船や汽車のなかで死亡した人も大勢いた。奈良を出発後10か月間で96人の人々が死亡したという。囚人たちは橇を引きながら『大和移住民は空知の肥だよ』と歌ったほどだ。悲惨なものであった。翌年の7月に石狩川を渡り、新十津川のトック原野にたどり着いた。

とにかく昼なお暗い一面の原始林の未開の土地を切り開いていった。ヤチダモとかアカダモなどの大木や、クマザサが生い茂っていたところをである。少しずつ手作業によってである。ブ

ヨや蚊に悩まされながら。毎年、耕作する作物を増やしていった。その後、手作業からプラオによる馬耕が導入されて作物の生産量が多量にあがってきた。現在では米作中心の農業地域である。

奈良県五條市出身の川村たかし氏が、児童向けの小説『新十津川物語』10巻を出版後、さらに知れ渡ることとなった。
(レポート:浅見 実)

第339回平成31年2月月例会

研究発表

演題①  「回顧・私の歴史研究会と私」
講師: 横山忠弘氏
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演題②  「大久保利通の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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月例会レポート

★第339回例会を2月17日(日)に、藤沢市民会館教養室で開催した。当日の参加者は24名。毎月の例会に比し、やや人数が少ない。2月は、年間の寒さがピークの時期でもあり、風邪をひいているものもあり、やむを得ないか。

★最初の講演は、当会顧問でもある横山忠弘氏が、「回顧、私の歴史研究会」についてお話をされた。長年にわたる横山歴史研究の成果について、その概要を発表された。

氏は、勤務先をご退職された頃より、20年以上にわたり歴史についての小論文を50篇以上書き上げて、当会の機関紙を始めとして、総合出版社歴研発行の『歴史研究』、横浜歴史研究会の会誌『歴研よこはま』中文会の機関紙『ちゅうぶん』に、そのすべて発表されている。

内容も、天孫降臨の時代から現代まで、ジャンルも広い。内容も平易にして、温厚な主張が多い。自分には共感できるところがいくつもある。

氏は、昭和9年に、現在の広島市に生まれて、小学生時代に、幸いなことにご無事ではあったが原爆投下を経験されている。大学は京都にある同志社大学に学ばれ、卒業後当時の日本住宅公団に就職をされた。

ご退職後は、本格的に歴史研究に励まれていくつかの歴史サークルに入会されて現在に至っている。また、当会の事務局長として在任中は、会の発展のために、大いに貢献をされた。

これまで、氏の作成された原稿は、いずれも珠玉随想録であると、本人は自賛されているが、平成27年に刊行した『横山忠弘著作集』、及びその翌年に刊行した『横山忠弘著作集(Ⅱ)』が掲載されている。

大作である。その結果昨年開催された『全国歴史研究会2018全国集会』では、著作集出版の功績として歴史大賞功労賞を授与された。

本日の発表は、歴史大好きの人たち・みんなの協力もあったことを感謝しつつ、その経緯を説明された。氏は最後に、これらのことは『わが人生の誇りである』と締めくくられた。

★次の講演は、横浜市社会福祉協議会歴史講座担当講師、日本体育大学武道学科講師を歴任され、幕末の出来事や人物にターゲットおいて研究しておられる、当会理事である渡邊幸太郎氏により「大久保利通の生涯」についてであった。

写真、映像等を駆使して、バラエティーあるストーリの展開を進めていかれて、とにかく興味を持てた。氏の講演は、これまでも幕末の混乱期の偉人等について、皆が知らないようなことまで、その真実について、いきいきと話されることが多く、皆をして惹き付けることが多い。

薩摩藩出身の幕末の二大人物と言うと、多分、同郷の西郷隆盛と大久保利通であろう。ともに歴史の表舞台で大活躍をした。しかしながら、西郷の方が、これまでもテレビドラマ等で取り上げられる回数も多く、馴染みもあると、自分では思う。とにかくまさしく大人物であったことは間違いがなかろう。

しかしながら、大久保は、幕末は討幕運動に大活躍をし、維新政府設立後は内務卿に就任して版籍奉還、廃藩置県などの実現に努め、近代国家として必要な殖産興業、地租改定、秩禄処分などの諸政策を実行した。それらのことが、旧士族の恨みを買ったことも間違いあるまい。

そんな大久保の、西郷との確執どうして長州藩出身の要人をさしおいてまでトップに立てたのだろうか、明治政府に対して、大久保個人としての財政的協力、等々について膨大な資料を参照して得た結論を述べていかれた。
(レポート:浅見 実)

第339回平成31年度新年定期総会

新年特別講演会

演題①  「三国志の幕開けとなった黄巾の乱」
講師: 竹村紘一氏(神奈川歴史研究会会長)
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①新年定期総会 ②特別講演会 ③新年宴会

新年定期総会レポート

★総会では、あらかじめ事務局作成の議案に沿ってたんたんと進められていった。昨年度の活動の総括と、新年度の計画が発表された。昨年は当会35周年の大きなイベントを成功裏に収めた。会の運営は順調に進んでいる。愉快な歴史を楽しむ集まりでもある当会が更なる発展をしていくように皆で努力をしていきたい。

★恒例の新年特別講演では、竹村会長により「三国志の幕開けとなった黄巾の乱」のテーマでお話をされた。事件が勃発したのは西暦184年というから、今から1,800年以前の中国の後漢時代の出来事である。

日本では各地で弥生式土器がつくられていた時代である。『倭国大いに乱れ、更相攻伐して暦年主なし』の時代から、やっと邪馬台国を中心とする30国ほどの小国連合が成立したての頃である。

そんな時に、大陸では、後漢朝内部での権力争いが繰り返えされ、政治が乱れていた。天災飢饉が続発して、農民の反乱が絶えなかった。そこで登場したのが道士『張角』である。呪術を行い、民間宗教でもある『太平道』を広めて、貧民を救済し、たちまち強大となり、信徒数十万人が蜂起した。黄巾を標識としていた。

この乱はその後衰えたが、後漢滅亡の契機となった。ここから魏、呉、蜀の壮大すぎる三国志の時代が到来するのである。『血沸き肉躍る』三国志(演義)を愛読して歴史に興味をもった少年は竹村会長を含めて多い。
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★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークの一階レストラン『ふじ』を借り切って賑やかに行われた。総勢29名の出席者であった。 
例年に比較してとにかく料理も多すぎるくらい多く、アルコールも予想以上に次々と栓を抜き、盃を交わし、大いに盛り上がった。

しばらく歓談のあとに、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、昨年と同じように、意欲的にそして得意気に述べていかれた。今年度の発表内容を聞いていくと、実に独創的な発表が多い。テーマは平易でも、内容は通説だけではなく、いくつもの参考資料をあたり、時代の背景・意義をも深く研究しているもの。

マイナーな、あまり聞きなれない題材ではあるが、その時代の変遷をよく調べ上げているもの。歴史を、数学の法則に当てはめて、関連付けをやっているもの。旅と歴史を結び付けているもの。

テーマは最近の流行であろう古代史及びそれ以前を扱っているものが一番多い。今年はとにかく愉快そうだ。3月末には温暖な気候の桜花爛漫の頃、生麦の歴史地区を、竹村会長のご案内で、ゆったり散策し、終了後はビールパーティーを楽しみたい。
(レポート:浅見 実)

第338回平成30年12月月例会

研究発表

演題①  「和田氏の乱と三人の先二郎の謎」
講師: 山内玄人氏
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演題②  「歴史雑感・番外編」
講師: 瀬戸淳氏
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月例会レポート

★第338回例会を12月16日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。当日の参加者は、24名。とにかくこのところ寒い日が続いている、そのためか参加者も例月に比較して少ないようだ。

★最初の講演は、山内玄人理事により、「和田氏の乱と三人の先二郎の謎」についてお話をされた。鎌倉幕府がスタートしてから2,30年後の建暦3年(1213年)の和田義盛の乱は、鎌倉市内を舞台に繰り広げられた。稲村ヶ崎、若宮大路等、今では土日となると特に観光客でごった返すところが激戦地であったらしい。

そのなかには、和田方大将軍六人の一人として活躍して捕らえられ斬首された『山内先二郎』という武士がいた。その先二郎とはどのような人物であったのか。源氏御曹司の乳母を務めた山内首藤氏の一族と見る歴史家も少なくないようだ。

しかしながら、これには理事は疑問を持たれた。愛読している吾妻鏡には、同時代には、他に同名の『岡崎先二郎』や『土肥先二郎』も登場するのだ。はたして『先二郎』とは、何者であろうか。山内首藤氏と特定しても良いのであろうか。

膨大な歴史書・吾妻鏡のなかでの、謎解きの散策が始まった。微に入り細にわたり、あらゆる可能性を疑い推考をされていかれた。

自分の親族が住む家のすぐ近く、徒歩5分程度のところに佐奈田与一ゆかりとされる證菩提寺がある。その家に行くとき、そこの寺の前を、通らねばならない。何の知識もなく、変わった名前の寺だなと思い、ここをいつも通り過ぎていた。

JR大船駅から、バスに乗り、環状4号線に沿って行き、稲荷森の停留所を降り、證菩提寺を経て、親族の家に行っていた。途中稲荷森までに、往時の山内荘荘域内の地名が残るバス停の『笠間十字路』『公田』『中野町』等を通り過ぎていたが、まったく気がつかなかった。何気ない見落としがあった。

★次の講演は瀬戸淳氏により「歴史雑感・番外編」と題する独創的で意表を突いた、また興味あるスピーチを3題された。

(1)最初は、『末摘花』、すなわち源氏物語に出てくる女性についてであった。決して美女とは言えない滑稽なまでに大きな赤鼻の娘であった。

源氏は哀れんで世話をした。その娘は顔全体の色は白く、鼻が長いこともあり長顔に見える。さらには背丈もたかい。氏はひらめいた。これはコーカソイド(白人種)を想起されると。さらには、一時期、アイヌは形質的にコーカソイドとされる時期があった。

彼女の父親の任地は北関東の常陸の国であり、あるいは母親がアイヌかアイヌ系の人物であったのではないか。そのことから、末摘花はアイヌであるという説を唱えられた。

(2) そして、『李香蘭』。映画女優、歌手、政治家。山口淑子についてである。夜来香、支那の夜等のエキゾチックな歌を歌った。今でもついそのメロディーに聞き惚れてしまう。前半生は二つの故国で生きることに心を痛め、後半生は教訓を糧に国際人として活躍した。

一人で複数の名前と人生を生きた、波瀾万丈・激動の昭和の時代の申し子のような人であった。美貌な人でもあり、氏は自分の人生と重ね合わせて、若き日の郷愁にかられたかもしれない。 

(3)最後は「アレキサンダー大王と徐福伝説との相似性」について述べられた。紀元前4世紀のマケドニア王であった。ギリシア、エジプト、ペルシア、インド等に攻め入りバビロンに凱旋をした。ギリシア文明・ヘレニズムをはるか東方に伝播した。

紀元前3世紀に秦の始皇帝も徐福に命じ、周辺国の統一後、領土拡張と植民を目的として、東方に向かった。両人とも、東進開始後9年で死亡にており、新しい世界をつくる端緒となった。相似性がある。文明の東進性と歴史は繰り返すと言う。
(レポート:浅見 実)

第337回平成30年11月月例会

研究発表

演題①  「江戸時代の道を求めて(四国遍路 伊予から讃岐まで)後編」
講師: 加藤岩男氏

演題②  「その後の三浦氏」
講師: 橋本欣之介氏

月例会レポート

★第337回例会を11月18日(日)に、藤沢市民公民館で開催した。当日の参加者は、24名。いつもに比べてやや少なかった。

★最初の講演は、加藤岩男氏が、「江戸時代の道を求めて(四国遍路・伊予から讃岐まで)の後編」についてお話をされた。プロジェクターを駆使しての熱演であった。

氏は、これまでにも毎年当会で、現在は廃道になっている古い街道筋を走破されてその時の旅行記を発表されている。誰も通らないような舗装されていない旧道の砂利道を熊笹をかき分け苦労をして訪ね歩かれている。

これまでも馴染みのないような山陰路、日向路、さらには四国遍路の前編について、当会で講演をされている。昔を偲びながら敢えて旧道にこだわる意欲には感服の至りである。真似をしたいが、もうどうにもできない。

八十八か所ある四国地方の弘法大師の遺跡を巡礼する遍路の歴史は古いようだ。それが、江戸時代には急速に盛んになったという。さらには、現在では、定年を迎えて仕事をリタイアした人々が自分探しのために、気候の良い陽春の頃には大勢押しかけているようだ。

加藤氏は、そのようなラッシュの時期を避けて、初冬の頃、静かにじっくりと巡礼を行っておられる。それも枯れ葉に覆われた旧道をである。当然ながらこの時期には訪れる人はほとんどいない。雪のなか、気温は零度以下のこともある。遍路道は、つらいが自分の修行のためと割り切って歩を進めておられる。

今回は宇和島の四十番の観自在寺より、最後の八十八番の香川県の大窪寺までの行程を歩かれたときの記録である。歩き通されて最後に、讃岐うどんとビールで乾杯をされたとか。さぞかし美味かったであろう。

道中、静御前が尼になった寺とか、子宝を願う女性の信心が厚い寺等々訪れたところを映像を駆使して解説された。いろいろと興味あるところが多いみたいである。

★次の講演は、橋本欣之介理事により、「その後の三浦氏」についてのスピーチであった。三浦氏のファミリーヒストリーについてかなりの厚いレジメに纏められて、持ち時間一杯熱弁を振るわれた。

三浦一族は、桓武平氏の一支族と伝えれ、平安時代以来、相模国三浦郡を本拠とした豪族である。ここはまた歴史研究を愛好する我々が活動する地域でもある。11世紀の後三年の役で為継が、鎌倉権五郎の目に刺さった矢を引き抜いた伝説から、この一族の歴史は始まる。

理事は、詳細な一族の系図を作成された。それを見たときに、どういうわけだか、高校時代の化学の参考書に出ていた高分子化合物結合の表を思い出した。それ程精密であった。一族の登場人物は100人程度はあるだろう。

時代も、平安から明治維新期まで。ひとりひとり辿っていくと、それぞれが波乱に満ちた、或いは特異な生涯を、多分送っていったみたいだ。でもあまりにも登場人物が多い。

義明4兄弟、その子息7兄弟から新しい流れが形成、敷衍していく。多方面にわたるであろう。また、義明は源義朝に従って、ここ藤沢市の大庭御厨に乱入をしたとか。

一族は、力はあったが、和田合戦、宝治合戦等の戦乱に明け暮れ、そして16世紀初めの新井城の戦いでは、北条早雲に滅ぼされたという。当時は守護による一国単位の軍事行動が模索された時代で、相互の争いが激化されていった不運の時代でもあったといえよう。

しかしながら三浦氏は、ここで断絶したわけではなかった。一族は出羽国(山形県)鮎貝、美作(岡山県)勝山等で、その子孫が存続して維新を迎えている。さらには、ロマンチックで青春彷徨の日々を過ごした島崎藤村もこの末裔であった。
(レポート:浅見 実)

第336回平成30年10月月例会

研究発表

演題①  「消えた海人族・安曇氏(阿曇氏)の謎」
講師: 小林道子氏
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演題②  「日蓮大聖人苦難の生涯」
講師: 川瀬和男氏
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月例会レポート

★第336回例会を10月21日(日)に、藤沢市六会公民館で開催した。当日の参加者は、友好団体である横浜歴史研究会からの応援聴講者も含めて合計31名。盛会であった。

★最初の講演は小林道子理事で、「消えた海人族・安曇氏(阿曇氏)の謎」について、お話をされた。安曇野と言うと、勇大な北アルプスを背景に、常念岳の下に広がる平野を思い浮かべる。安曇族はこの素晴らしい地に進出をして定着をしたらしい。自分は何度かここに宿泊をしたことがある。

一度は常念の山に登頂して、眼下に展望できる安曇野を納得いくまで眺めてみたかった。麓のリンゴ園で一袋のリンゴを買ったときに、小学生と思われる店員がいくつかおまけをしてくれたことなどを、なつかしく思い出した。美味かった。

安曇族は、古代の海人(あま)、阿曇部を率いた豪族で、朝廷に仕えて各地の海人を支配し、天皇の食事を司ったと言われている。当時優れた航海術と稲作の技術を持っていた、数多くいる海人族のなかで最有力氏族であった。本拠地は福岡市志賀島であり、海の中道の先にある。

中道には、自分も何度か行ったことがあるが、香椎からそこまで行くコースが今では快適なドライブコースである。ここにあるリゾートホテルでウエディングパーティーを挙げることが、福岡の人の憧れであるとか。

この氏族は、紀元前の中国の春秋時代に黒潮や対馬海流に乗って、北部九州にやってきたことが始まりであるらしい。そこからスタートをして、長野県の安曇野を含む東日本の各地に拡散移住をしていったのであろう。

何分、これらを記載した資料が、記紀と筑前風土記ぐらいしかなく、時代も古く辿っていくのは難解であるかもしれない。それでも、理事は少ない資料を丁寧に分析して、明快に説明していかれた。

★次の講演は、川瀬和男理事による「日蓮大聖人苦難の生涯」についてのスピーチであった。レジメも21ページにわたる大作であり、その生涯を、淡々と語っていかれた。

日蓮は鎌倉時代の僧であり、日蓮宗の開祖である。16歳で出家して、伝統的仏教の教理に疑問を抱き、鎌倉、京、近畿、比叡山などで、諸教学を学んだ。

そこで、仏法の真髄を法華経に見出し、南房総の清澄山で日蓮宗を開いた。題目は『南無妙法蓮華経』である。当時多発していた天変地異は浄土宗などの宗派によるものであり、『法華経』に統一すべきであると主張をした。

そして『立正安国論』を首唱しそこで浄土宗、禅宗などの教理を激しく批判。それにより、種々の迫害を受けた。宗教上、新説を唱えるということは、欧州でも宗教改革に関与したルターもカルバンも、同様に平穏には暮らせなかった。

我々の会合を持つ土地、ここ湘南の地は日蓮が登場した重要な場所である。清澄山で開宗後、法華経信仰に関する辻説法を、鎌倉で開始をした。当時は幕府のお膝元の、そこかしこの街角で日蓮は大衆に訴えて、納得できる講話をしていったことであろう。

かなりの支持を受けていたに違いない。今では、この地には外国人も大勢訪れて、諸外国語が飛び交う賑やかな観光の地となっている。当然のことながら、この頃には、信仰の自由、言論の自由はなかったので、藤沢の龍ノ口で悲しい出来事が起こりそうになった。

日蓮の辿った地は多い。なかでも、山梨県身延山久遠寺一帯の森林の景観は素晴らしい。枝垂れ桜が春爛漫の頃にここを訪ねてみたい。
(レポート:浅見 実)

第335回平成30年9月月例会

研究発表

演題①  「出雲の国の謎とその正体(根の国、黄泉の国)」
講師: 田中真生男氏

演題②  「家族システムの変遷(II)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」
講師: 大森健児氏
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月例会レポート

★第335回例会を9月16日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は30名。夏の暑さも峠を越えたようで、ホッと一息をつけた。それにしても、今年の夏は暑すぎた。

★最初の講演は、島根県出雲地方のご出身である田中真生雄氏が、「古代出雲の謎とその正体・黄泉の国と根の国」についてお話をされた。長年にわたる出雲研究の成果の発表である。

自分は学生時代にこの地を訪ね、松江城、宍道湖、出雲大社等を見学したことがあるが、懐かしく思い出された。松江の旅館で夜中に聞いた列車の汽笛のピッーと言う鋭い音が忘れられない。遠くに来たものだと実感した。

出雲は神話のふるさとでもある。小さな地域ではあるが、なにか日本の他の地域とは違う雰囲気があるのではないだろうか。小泉八雲が、ここに関心を持ち、『怪談』『霊の日本』を著作して日本独自のユニークな崇拝観、民間の習俗、文化、伝説等を西洋に紹介をしたが分かる気がする。

田中氏は、この地で育ち、そこに愛着を持ち、充分に出雲を調べ上げられている。『記紀』・『出雲風土記』等を、繰り返し読み込まれており、精通をされておられる。そこで以下のようにまとめられた。『黄泉の国』、『根の国』はいずれも出雲にあったのであろう。

出雲は、小さい地域ではあるが、長い年月をかけて、その国土の開発、他国との交流、文化の蓄積により、さらには祖先崇拝や祭祀により、かつては日本の中軸であった。『根の国』出雲は、『黄泉の国』に埋葬されて文化は、大和へと新生されていった。ギリシャが滅び、ローマが誕生したように。

★ 次の講演は、法政大学名誉教授であり工学博士の大森健児氏により「家族システムの変遷(2)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」であった。氏の歴史を見る目はグローバルな観点にたち、独創的である。

我々が歴史を学習するときに、どうしても小さな単位の個人史を中心に調べていくことが多いが、それよりもさらに大きく、世界史のなかでの範囲まで広げて、ミクロからマクロまでの共通の概念で捉えたら、これまでにないような新しい展開が開けるであろう。

数学の世界では、対象と射との関係である『圏論』というセオリーがある。まさに、それであろう。フランスの歴史人口学者であり家族人類学者でもあるエマニュエル・トッドが、人口統計による定量化と家族構成を分析してその説を唱えた。氏はそれを引用された。

さらに付け加えて、『平等・不平等』と『権威・自由』の2軸で、家族システムを性格付けされた。また、環境に順応をした『進化論』で考えた方がよいであろうと。

日本はもともと『核家族』であったが、663年の白村江の戦いで、唐の整備がされて訓練された軍により壊滅的な敗戦を被った。国力の違いを見せつけられた日本は、律令制に基づいた中央集権国家の建設を急いだ。

天皇家でも、天智・天武の頃に家族システムが核家族から直系家族に代わっていった。当時の歴代天皇の系図を示してその移り変わりを詳細に説明していかれた。
(レポート:浅見 実)

第334回平成30年8月月例会

研究発表

演題①  「日本の徐福伝承と神奈川の役割 ~徐福は倭国(古代日本)に何をもたらしたのか~」
講師: 前田豊氏
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演題②  「東海道を歩く(5)」
講師: 持田信廣氏

月例会レポート

★第334回例会を8月19日(日)に、藤沢市湘南台公民館で開催した。当日の参加者は25名。今年の夏はとにかく暑い。けれども、歴史好きのメンバーは、暑さに関係なく集まってきた。新メンバーとして石川重弘氏のご参加があった。

★最初の講演は、先古代史の会の会長であり、神奈川徐福研究会の理事でもある前田豊氏が、「日本の徐福伝承と神奈川の役割~徐福は倭国(日本)に何をもたらしたのか~」についてお話をされた。穏やかに、分かりやすく、前田古代史の研究成果を発表されていかれた。

今から、二千数百年前の紀元前3世紀頃の弥生時代の初期に、徐福は秦の始皇帝の命で、童男童女数千人を連れて、数十隻の大船団で、東海の三神山に不死の仙薬を求めて、日本に来たと言われている。徐福の目指したところは、何処にあったのか諸説があり特定することは難しい。しかしながら、伝説の存在する地が日本には数十か所ある。

そして、その存在の多さから言っても徐福が、日本に渡来をしてきたことは間違いはあるまい。隣国中国にも所謂『徐福村』が存在しており、歴史的にも徐福は歴史的人物であること確認されており、近時中国、韓国、日本において徐福研究が盛んになってきた。

日本の徐福の渡来地或いは存在したという伝説地は、主として関東以西にあり、九州に特に多い。北は青森県にも存在する。現在我々が歴史勉強を行っている、藤沢市にもその遺跡がある。当地の妙善寺には、福岡家墓碑に徐福の子孫である旨の記載がある。

すなわち、福岡家は秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に住んだのではないだろうかと。なんとなく親近感を覚えた。これは、日本に徐福が渡来してから、分隊となり、各地に拡散していったのであろう。

そのうち、一部の者が藤沢にもやってきた。さらには徐福は日本の各地で大神として祀られている。当時の進んだ大陸の文化・技術を持って来て、日本の弥生時代のインフラ整備の担い手でもあったのではなかろうか思えた。

日本の歴史は古事記、日本書記から始まっている。神話の神々は、人間の歴史活動を表現していることが多いと氏は述べられた。
 
★ 次の講演は、歴史散策旅行のベテランである持田信廣氏により「東海道を歩く(5)・日坂から新居宿まで」であった。
氏は、歴史を辿る旅が大好きで、特に東海道は数回以上も往来しており、そこに存在する過去の出来事についての習得・集積した知識の多さは、おそらくは誰にもひけをとらないだろう。

とにかく、自分に比べて詳しすぎる。当会でも、例年一回ずつ、江戸日本橋より数宿について興味あるお話をご披露されている。今回はその5回目で、昨年からの続きで遠州『日坂宿』からスタートをした。日坂宿は、我々にはあまりなじみがないし、それほど大きくはないが、見るべきものがいくつもある。

自分も20年以上前にここを訪れたことがあるが、子夜の中山、西行法師の歌碑、悲しいストーリーがある夜泣石等を懐かしく思い出された。ここでの名物であった水飴売りの100才のおばあさんと一緒に写った写真もあるが、多分今は存命ではあるまい。

『掛川宿』では、地元の人に教えてもらった、JR駅近くの洋菓子店で購入したロールケーキに感激。あまりに美味かったので、その後何回かわざわざここに車で買いに行ったほどだ。再建された木造の山内一豊ゆかりの地の掛川城の天守閣は見事だった。そして『袋井宿』は、江戸から数えても、京都から数えても27番目の宿場である。

東海道のど真ん中だとか。ここには、町のあちこちに彫刻像が多く見られた。さらに『見附宿』。ここでも、町はずれにある和菓子店のきんつばが美味すぎた。これも、今でも時々購入に行っている。旅はうまいもの巡りが付き物であろう。古い東海道筋には名店が多い。

制限時間一杯を使い、氏は東海道の魅力を淡々と述べていかれた。到底自分の歩いた知識では及ばない知らないことが多かった。来年は、浜松辺りからさらに街道筋を西へと向かう。
(レポート:浅見 実)

第333回平成30年7月月例会

研究発表

演題① 「神功皇后実在論」
講師: 村島秀次氏 (来演:横浜歴史研究会理事)

演題② 「ルーツのヒント 日本の苗字」
講師: 新藤正則氏
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月例会レポート

★第333回例会を7月15日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は29名、嬉しいことに今月も、先月に続いて新入会員のご参加があった。それにしても今年の夏はとにかく暑い。連日の気温は30度をはるかに超えている。でも、熱心な歴史マニアには、暑さはあまり関係がないようである。出席率も高い。

★最初の講演は、数年前に歴研より『もうひとつの古代史』を出版された横浜歴史研究会の理事である村島秀次氏による特別講演で「神功皇后実在論」についてであった。神功皇后は、仲哀天皇の皇后であり、熊襲征服や新羅への攻略を行ったとされている。

現在の通説ではその存在は疑問視されて、伝説、伝承上の人物となっている。確かに、自分の中学生、高校生のときの学校の授業では多分、その史実については習わなかったであろう。しかしながら、第二次世界大戦以前には、皇后の実在は肯定されていたろう。

明治時代に発行された高額紙幣、高額郵便切手にはその肖像画までが書かれているくらいだ。なぜだか、その肖像画はお雇い外国人であるイタリア人画家のキヨッソネ氏が描いたとかされている。美人で気品がある女性像である。収集家にとって是非とも入手したい紙幣、切手であるとか。

氏は、述べられた。総合的に判断すると、神功皇后は実在したと考えるのが合理的であろう。すなわち、その根拠として、高句麗の広開王碑の碑文の記録、『三国史記』の記述、皇后の系譜、九州地方から畿内にかけて伝承が多いことなどからである。

さらには、大阪にある住吉大社の存在。奈良市にある五社神(ごさし)古墳は、皇后の御陵であろうとされる、等々である。古代史はロマンと夢、憧れの分野である。ひとつひとつ史実に基づいた想像を考え出していくと楽しい。

それには、氏が言われるように文献、例えば『記紀』を含めて、あるいは信頼性の観点から使用されていない『古語拾遺』『先代旧事本紀』、神社継承等を、考古学を含めた周辺学問とすり合わせて正確な古代史を作り上げていくべきであろう。

★次の講演は新藤正則氏で「ルーツのヒント・日本の苗字」についてであった。氏は奈良市のご出身で、現役時代にはケミストであった。ご退職後、10数年の歳月をかけて、苗字のご研究に没頭され、数年とちょっと前に、70才になったときに、その記念として、『苗字辞典』を刊行された。大作である。

また、氏は、藤沢市生涯学習人材バンクの講師でもあられる。ファンも多いと聞いている。趣味としてマジック、詩吟等があり、来年の当会の新年会では、ぜひともご披露をされることを心待ちにしている。旅行もご趣味で、東海道をご夫人と歩き通して、各宿場での表札を見るのが大きな楽しみであったそうだ。お二人の和やかな様子が窺える。

日本には苗字数は、10万とも、あるいは漢字の読み方の変化を加えると30万とも言われている。苗字の多くは地形・地名、古代からの氏族名、職業名、信仰等々に由来するものが多い。特に稲作田を示す『田』のつく苗字が一番多い。

生活圏にある山・野・木・松のついた苗字も多い。藤原族に由来する藤も多い。646年の大化の改新時には戸籍の作成が定められた。唐の均田法下の税制を真似て日本でも、同様な制度を制定した。租調庸を負担する民の正確な数を把握するためにも絶対に必要であったからだ。

最後に、氏は神奈川歴史研究会全員のルーツ(由来と分布)について、調べられた結果を報告された。自分の苗字である『浅見』姓は日本全国のうちに埼玉県で40パーセント占めていると説明されたが、まさに的を射ている。埼玉県の父親方の生誕地に行くと、浅見という家が多い。
(レポート:浅見 実)

第332回平成30年6月月例会

研究発表

演題① 「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」
講師: 藤田文康氏

演題② 「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と嵯峨天皇」
講師: 里見絢子氏

月例会レポート

★第332回例会を6月17日(日)に、藤沢市市民会館で開催した。当日の参加者は34名、うち3名が新入会員であった。今回、高校生の新入会員も参加されて、これで高校生の当会での在籍者は2名となった。いよいよ当会の若返りが進んでいく感じがする。

★最初の講演は、中国の歴史と文化を学ぶ会の会員でもある藤田文康氏で「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」であった。壮大なテーマであった。氏の資料の作成も徹底している。全体の中国史年表を各ページの冒頭に一表として纏めて、その下にご自身で調べ上げられた歴史上のコメントを要領よく簡潔に記載されている。

具体的な例をあげると、『秦の始皇帝』が天下を統一した頃とか、唐が衰退に向かった『安史の乱』等の当時の情勢がこの年表で、時代を辿ることができる。唐の時代は3百年近く続いたが、それに反して、その前の隋の時代は40年弱しか続かなかった。

長い歴史がある中国の変化の様子が、これも主要な出来事が数ページのレジメに要約されている。我々が、日本史を学ぶときに 周辺国、特に隣国である中国の歴史の理解・対比が絶対に必要である。日本の古代史、鎌倉時代の元寇、戦国時代の兵法、江戸時代の儒学思想等々へ大きな影響を与えた。

氏は述べられた。中国の本当の起源は秦の始皇帝の統一時からである。中国にはそれまで異民族が混血して住んでいた。さらには、モンゴルのチンギス・ハーンの帝国がユーラシア大陸の東西を結び付けたことが、世界史の始まりであろうと。氏の説明は年表のみならず、地図、写真等を駆使して雄大な国・中国を時代を越えてオールラウンドに説明をされた。

★次のスピーチは、当会の理事でもある里見絢子さんの「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と蘇我天皇」についてであった。自分の学生時代、といっても60年以上も前であるが『阿弖流為』という人物の名前については聞いたことがなかった。

この名前が中学校の社会科の教科書に登場したのは、やっと今から20年前だそうである。それまで知る人はほとんどいなかったであろう。手元にある広辞苑にですら第五版までには、『阿弖流為』の項目はなかった。やっと最近改訂された第六版になりはじめて登場した。

『阿弖流為』は、平安時代の初期に岩手県の北上川流域を支配した蝦夷の族長である。これ以前の奈良時代には、東北地方の北半分が、朝廷の支配下に組み込まれていなかった。蝦夷の地であった。豊かな山や川、愛らしい小鳥や花に恵まれて、この地は蝦夷にとって、楽園であったろう。

そこに平穏に暮らしていた。しかしながら、支配地域拡大を目指す国家が、ここに入り込んできた。あるいは、天平年間に、宮城県湧谷町に於いて、我が国ではじめて発掘された金が目当てでもあったかもしれない。そこで朝廷と蝦夷たちとの争いが始まった。

しかしながら強大な朝廷軍の前に蝦夷たちは散っていった。『阿弖流為』は坂上田村麻呂に降伏して河内の国に連れていかれたが、そこで斬殺された。彼の残し た東北人の誇りはその後も消えることはなかった。
(レポート:浅見 実)

創立35周年記念式典・祝賀会 (平成30年5月20日)

創立35周年記念式典・記念講演会・祝宴

特別講演

演題① 「壬申の乱と天皇」
講師: 関裕二氏 (歴史作家)

★神奈川歴史研究会が、湘南の地に発足してから、昭和58年に設立後、満35年の月日が経過をした。その節目となる35周年の記念の式典、講演会及び祝宴を、5月20日(日)に「ホテル横浜ガーデン」に於いて開催をした。

五月晴れの爽やかな一日であった。参加者は63名。当会のメンバー30人余りと、ご来賓11名、近隣の友好歴史グループである横浜歴史研究会より10余名、江戸の歴史研究会より5名余等々がお祝いに参加されていた。とにかく盛大で、和気藹々としていた。

★最初の式典では、当会の35年にわたるブリーフヒストリーを浅見実副会長が述べ、竹村紘一会長の挨拶、続いて、ご来賓として歴史研究会本部の吉成勇主幹、さらには加藤導男横浜歴史研究会長、高橋倭子江戸の歴史研究会長から、お祝いの言葉を頂いた。

いずれも暖かい、また、励ましのお話であった。当日には、所用があり、参加できなかったお二人・相模原シニア活動の森の安田隆春会長よりの祝電と本部常任理事の坂本花子さんより有り難くお祝い金を頂いた。

★記念の講演会は、歴史作家である関裕二先生で、「壬申の乱と天皇」と題して講演をされた。先生は、お若いころから仏教美術に魅せられて奈良に通いつめ、古代史を得意としておられる。デビュー作は『聖徳太子は蘇我入鹿である』であったという衝撃的なタイトルであった。

今回も、2時間にわたり千数百年前の古代史の世界のなかに聞く人をして、どんどん引き込んでいった。先生には『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』等々の著作も多数ある。正史に隠れた裏の英雄を探っていくと、本当の歴史が見えてくるし、その人達の輝かしい業績も見えてくると、先生は『古代史50の秘密』の本のなかに、その旨、書かれているが、大いに納得ができる。

★続いて、待望の祝宴であった。今回の出し物の企画は、会長、槙良生事務局長等の練りに練ったアイディアからであり、参加者をして充分に楽しませてくれた。松田芳久史友会代表、三堀八郎中国の文化と歴史を学ぶ会会長の、これも暖かいご祝辞をいただいたあとから、山内玄人理事の名司会のもとに楽しい出し物はスタートした。

まず、総勢9名による賑やかな桜川寿々慶先生をはじめとする一門の『江戸芸かっぽれ』の踊りからであった。秋山寿子史友会会員による分かりやすい解説をまじえながら、進行していった。江戸末期・化政時代の町人文化の爛熟期に始まった独特の衣装をつけた大道演芸であったとか。懐かしい曲もいくつかあった。思いは江戸の町を踊り歩く盛り場で見物をしているみたいに 。

乾杯のあとには、それぞれの懇談の時間であった。会場も広く、席を移動しながら、皆と歴史談義を語り合っていった。35年間の話題もいくつか飛び出した。昭和58年にはNHKテレビで『おしん』が放映されたとか、『東京ディズニーランド』がオープンしたとか、よく知っている人がいる。

しばらくして、 ここから最大の余興であるアコーディオン演奏兼カラオケタイムに入っていった。演奏は数千曲演奏できるという相模原シニア活動の森のアコーディオニスト藤沢賢二氏であった。最初は、皆歌うのをためらっていたが、興に乗ると、我も我もと名乗りを挙げて、注文に追い付かないくらいのリクエストが続出した。参加者の年齢は高いひとが多かったために昭和の歌が中心であったが。

祝宴での3時間はあっという間に過ぎていってしまった。でも、当会のみならず、友好団体とも貴重なそして打ち解けた懇親の機会を持てて、大成功であったと言えよう。
(レポート:浅見 実)

第331回平成30年4月月例会

研究発表

演題① 「樋口一葉について」
講師: 浅見実氏
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演題② 「和泉式部とその娘小式部内侍」
講師: 津久井勤氏
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月例会レポート

★第331回例会を4月15日(日)に藤沢市六会公民館で開催した。当日の参加者は23名であった。いつもよりやや少なかったが、行楽日和の天候もあってやむを得ないであろう。

★最初の講演は、浅見実(私)でテーマは「樋口一葉」についてであった。わが国では女性による、豊かな情操や繊細な感受性を生かした主観的、抒情的な文学作品は多く、これまで発表されている。

そして、平安時代の10世紀から12世紀にかけて、遣唐使廃止の頃より日本独自の文化を創造するようになった。藤原氏の摂関政治を中心とする貴族社会の背景のもとで展開された国風文化である。

そこで、紫式部、清少納言、和泉式部等の後記の三才女の作家が輩出した。しかしながら、その後、所謂中学校の歴史教科書で出てくるような、有力な女性の作家は、明治の時代までほとんど見当たらない。明治初年に樋口一葉が出るまでは。

一葉は、幼少の頃から、万葉集、源氏物語、栄花物語、平家物語、日本外史等の古典文学を読み込んでいた。しかも、学校教育は小学校の4年程度しか授業は受けていないのに。現在のように、古典文学の注釈書はほとんどなく、原文からである。

かなりの意欲と才能があったであろう。そこから、明治維新期の混乱の時代に、家父長制度のもとで、遊里のような特殊な世界を書き続けた。短い25年弱の生涯で。

★2番目は、津久井勤氏により「和泉式部とその娘小式部内侍」についてであった。今から約1千年前の過去にさかのぼる。摂関時代の女流文芸、そこでの一条天皇の後宮文壇、互いに競合しあい、特に王朝三才女の活躍は目を見張るようなものがあった。

最も華やかな時代を生き抜いた。清紫が宮仕え意識をしていたのに対して、一方、和泉式部の軸は恋愛であり、和歌であったとされる。その生涯において、ふたりの受領(諸国の長官)との結婚、ふたりの親王との交際の間にも、いろいろな人々との自由奔放な交流を通じて、和歌を詠んでいる。

激しい恋、多くの恋愛経験の持ち主で情熱的な歌で知られている。
式部の作であろうとされる『和泉式部日記』は、冷泉天皇第4皇子・敦道(あつみち)親王との10か月の愛情の進展の経過を歌日記風に記したものである。私家集から日記文学への発展の流れを示す作品であるとされる。

小式部は、彼女が20才前後で最初に結婚をした橘道貞との間の子でであった。しかながら、小式部は30才に満たないで亡くなった。母として、娘の死は大きな悲しみであり、哀傷歌を残している。

先生の講演は、レジメで10ページにわたり、内容は豊富であり、引用された短歌の数も多く、説明も簡潔明瞭である。式部には勅撰和歌集に取り上げられた歌も多く収録されており、この時代を研究されている者には、論文を構築するのに格好のヒント・資料となるであろう。
(レポート:浅見 実)

第330回平成30年3月月例会

研究発表

演題① 「一橋冶済と徳川御三卿」
講師: 小林啓介氏

演題② 「宇和島藩祖秀宗 奮闘の生涯」
講師: 槙良生氏
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月例会レポート

★第330回例会を3月18日(日)に藤沢市民会館・教養室で開催した。当日の参加者は、他会よりの応援聴講者を含めて34名と盛況であった。いつもより多く、そのためか、講師の2名も大いに張り切っていたような感があった。話しごたえがあったのであろう。

★最初の講演は、当会でのスピーチデビューである若手歴史マニアの小林啓介氏で、演題は「一橋治済(はるさだ)と徳川御三卿について」であった。御三卿とは、吉宗が取り立てて2男の宗武を田安家に、4男の宗尹(むねただ)を一橋家に別家としたことから始まる。

さらに、家重が次男の家好を清水家に家を興した。宗家に嫡子がない時にそれを継承する資格を有した。一橋家は御三卿のひとつである。藩は作らず、大きな領地も持たなかったが、その代わりに幕府からそれぞれ10万石をあたえられていた。

しかしながら1843年刊行の『天保大江戸大絵図』写しを見て驚いた。この三家は江戸城の北側に、広大な敷地を有し、お互いにほぼ隣接している。親族間の交流もかなりあったことだろうと勝手に思われた。『一橋』の名前の由来は家康が入府時に、そこの掘割に丸木の一本橋が架けられていたということからきたものであるとされる。

確かに、徳川幕府は長期にわたり約270年も続いた。堅固な政治上・体制上の仕組みがあったからであろうが。しかしながら、18世紀の後半になると、その堅固さに脆さが顕在してきた。
幕府の崩壊の引き金となったのは、内部の人間であり、8代将軍吉宗の孫であり、11代家斉の父でもある一橋治済(1751-1827)、その人であると、氏は種々事例を挙げて説明をされた。
松平定信の田沼意次追い落とし工作に加担し、それが成功したら、定信の失脚を断行したり陰謀家であった。自分の息子・家斉を将軍につけた。これには財政浪費も大なるものがあったろう。

治済がこの世を去り、約50年後に幕府は実際に終焉の時を迎えるのである。薩長による明治維新はおまけであると断言されたが、要因多々あろうが、きっかけになったことには間違いがなかろう。
テーマは多岐にわたり難解なところもあるが分かりやすく解説された。

★2番目は、当会槇良生事務局長により「宇和島藩祖秀宗・奮闘の生涯について」の講演であった。
宇和島と聞くと、昨年歌われた水森かおりのヒットソング『宇和島別れ波』の演歌を思い浮かべる。『天に届くか段々畑・・・・愛媛宇和島波音哀しい』と。その程度の認識しか、かってはなかった。

宇和島市を含む愛媛県の西海岸一帯は、足摺宇和海国立公園に指定されており、リアス式海岸で島々が点在しており、変化に富んだ海岸景色を呈している風光明媚なところだ。市の人口は、現在約77,000人で10数年前に比較をして20パーセント程度減少している。過疎化は止まらない。空き家も増えている。

かって自分が北海道で何回か体験したことがあるが、そこの空き家を利用した短期移住体験も、安価に(月間数万円くらいで)、宇和島市のホームページによると、ここでもできるみたいだ。
確かに地理的に見て首都圏あるいは阪神地区からみてかなり遠いが、自然が豊かで素晴らしいであろう。産業面でも、水産業、柑橘類の生産等が主体みたいだ。そこで、ローカルフードを味わいながら、ゆっくり歴史を勉強しても良い。

宇和島藩は、仙台藩主伊達政宗の長男である秀宗が宇和島地方に10万石を受け、1614年に在封して、250年間統治をした地である。仙台藩からは独立した国持大名格ではなく、支藩とみられたりしてぎくしゃくした関係が長く続いた。
領地は荒廃をしており、藩草創期は苦難の連続であった。また、筆頭家老及びその家族殺害事件に続く一連の不幸な出来事により和霊騒動、別家を起こすことによる宇和島の血筋を守ろうとしての生産性の少ない領土での吉田分知等々を乗り越えて秀宗は藩維持に腐心したであろう。

氏は、資料を丹念に読み込み、簡潔にポイントを掴みよく纏められている。明治維新期に活躍をした伊達宗城(むねなり)は、四賢侯のひとりで公武合体派として広く知られているが、藩祖である宗秀の奮闘もそれに劣らず優れていた。
(レポート:浅見 実)

第329回平成30年2月月例会

研究発表

演題① 「徳富蘇峰終戦後日記 (頑蘇夢物語)」
講師: 横山忠弘氏

演題② 「勝海舟の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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月例会レポート

★第329回月例会は、2月18日に藤沢市民会館で開催した。この会場を利用するのは、当会では始めてのことである。藤沢駅に近く、周辺には繁華街やデパート等の商業施設も多くあるし便利も良い。

知名度も高く、大きなイベントもいろいろとここで行われる。これからはここでも当会の会合の場所として時には選んでいきたい。今回の参加者は25名。まずまずの人数であった。

★今回のスピーチは、まず初めに、横山忠弘当会顧問より、テーマは「徳富蘇峰戦後日記(頑蘇夢物語)」と題して行われた。氏の歴史研究のキャリアは長い。一時は、月刊誌「歴史研究」の常連投稿者であり、独創的な論文を数多く発表されてきた。

当会以外の会の会報でも20年以上も前から、数々の研究成果を積極的に投稿されてきた。それらを纏めて『横山忠弘著作集』全2巻を出版されている。読み応えのある内容である。

徳富蘇峰は熊本生まれのジャーナリスト、歴史家である。同志社で学んだ。氏も、だいぶ後輩にはあたるが、同じ同志社のご出身である。

スピーチは、蘇峰が百年後の日本のために遺したと言われる『蘇峰夢物語』について述べられた。NHKの大河ドラマ『八重のさくら』のことも懐かしく思い出した。
その後、『国民新聞』を発行して、平民主義を提唱した。

帝国主義の鼓舞者でもあったらしい。二宮町に記念館がある。自分は昨年の今頃ここを車で訪ねたことがあるが、資料も整備されており、展示は素晴らしい。氏のライフワークである『近世日本国民史』(100巻)も手に取って自由に読める。

政財界で活躍した著名人の手紙、書などの展示も多い。平和主義者であったのではないだろうかとも感じた。ちょうど、そこの庭園では梅の花が満開であった。華やかな花ではないが、清楚に咲いていた。今頃の季節である。

★次の講演は、渡邊幸太郎理事により「勝海舟の生涯・江戸の町を戦禍から救った男」についてであった。明治維新の時期に大きな役割を成し遂げた人物である。聞く人をしてどんどん引き込む、相変わらずの渡邊節を堪能できた。

氏の発表は、意表をつくことがいくつもあるが、異説ではない。通説に、冗談を交えて新しい事柄を追加されている。かなりの読書量がないと、ここまでは説明できないであろう。

安政年間、日米修好通商条約の批准書交換のために初めて太平洋の横断を果たした『咸臨丸』は、実はアメリカ軍艦のポーハタン号に護衛という名目での随行艦であったとか。

そして勝は艦長ではなく、教授方取り扱いという立場であった。勝が親交があった江戸火消しの棟梁である新門辰五郎は『を組』であった。『め組』ではない。確かに時代も、『め組』は暴れん坊将軍・吉宗の時代の火消しの新門辰五郎のことで、想像上の別人である。混乱して、誤り解釈をしていることが多分にある。

氏のスピーチは、勝の生涯を、そして広い意味での家族関係を含めて、興味深く話していかれた。勝は、西郷隆盛と会談して江戸の町の戦禍から救った。大なる功績である。当時は、江戸には150万人の住民が生活をしていた。大田区の洗足池には、勝海舟夫妻の墓と一緒に西郷隆盛の碑があるのを思い出した。
(レポート:浅見実)

新年特別講演会

研究発表

演題① 「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」
講師: 竹村紘一会長
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月21日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。昨年に引き続いて新しい会場であり、気分も新鮮で当会設立後35年の節目の年がスタートした。参加者は、昨年より多かった。

他会からの聴講者を含めて総計36名。うち、当会への新規で入会された会員も数名おられて、嬉しい限りである。熱心な歴史好きの高校生の方の参加もあった。将来の見通しも明るい。インターネット効果も徐々に浸透してきている。さらには、歴史研究会本部より吉成勇主幹もご出席をされて、励ましのお言葉を述べられた。そのうえ、有り難く、お祝い金まで頂いた。

★総会では、あらかじめ事務局作成の議事次第はたんたんと進められていった。役員層も昨年度から大幅に若返っており、竹村会長、槇事務局長のスピーチでも、今年の35年周年での記念行事を盛り上げていこうという意欲が大きく感じられた。いつもと違う。いろいろな企画も立案中であるとか。楽しみが多い。

★恒例の新年特別講演では、竹村会長により「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」のテーマでお話をされた。結論として、秀吉軍は一部の地域の合戦では敗れたが、敵地での戦いであり、少しの領土も失っておらず、むしろ拡大をしている。家康側は敗北者である、政治的な意味合いで後に過大に評価したのであろうと述べられた。
子供の頃に、自分も、吉川英治著の「新書太閤記」の本を、わくわくしながら読んだ記憶がある。とにかく最初は面白かった。10巻以上はあったと思う。しかしながら、最後の小牧・長久手の合戦のあたりの部分になってくると、登場人物は多いし、場面も頻繁に変わるので、ストーリーの展開が分からなくなり、途中で読むのを止めてしまった。根気がなかった。でも今回、会長がお話をされ、まとめられた合戦のあらすじは実に分かりやすかった。

まったく関係はないが、「小牧」という地名は、東名高速道路等を走るとよく見かける。自動車のナンバープレートで、「尾張小牧」ナンバーがあるからだ。でも、「長久手」というナンバーはない。長久手市の車は「名古屋」ナンバーに含まれているとか。両方の町は僅か、10キロあまりしか離れていないので「小牧長久手」ナンバーがあっても良かったのに。

★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークの一階レストランを借り切って賑やかに行われた。総勢31名の出席者であった。例年に比較して料理もアルコールもふんだんにあり、大いに盛り上がった。

しばらく歓談のあとに、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、昨年と同じように、意欲的にそして得意気に述べていかれた。一人2分の持ち時間を大幅に超過しても、意に介することなく、とめどなく歴史上の新発見の自説を延々と話される人もいた。しかしながら、カラオケがなかったのがさびしいと感じた人もいたようだったが。

なお。今年の歴史散歩は春には、会長のご案内で「世田谷・豪徳寺、松陰神社」を、そして秋には、旅と歴史探訪のベテランである持田信廣氏の「鎌倉駅から材木座海岸方面へ」のハイキングを計画している。いずれも、楽しみに期待をしている。今年の会員、全員の健康を祈っている。
(浅見実)

第328回平成29年12月月例会

研究発表

演題① 「中世の津軽安藤氏と蝦夷島における和人地の形成」
講師: 大岩泰氏
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演題② 「歴史研究の履歴」
講師: 瀬戸淳氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第328回月例会は、12月17日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。当日は寒かった。この冬一番の寒さだったかもしれない。参加者は、他のグループからの応援聴講者もあり35名。これだけ集まると広い会場も、さすがに狭く感じる。活気に満ちていた。

★最初は、ベテランの歴史研究者であるが、当会デビュー講演の大岩泰氏で「中世の津軽安藤氏と蝦夷島における和人地の形成」であった。氏は、九州・大分県のご出身で、サラリーマン時代は札幌に4年間ほど、ご勤務をされていたそうである。道産子ではないが北海道には詳しい。アイヌの歴史、和人の進出について、平易に概略を説明していかれた。

北海道は、もともとアイヌの居住地であったが、鎌倉時代以降和人の移住者が漸増していった。

自分も、北海道のアイヌについては、大いに関心を持っていた。鹿部に暫く滞在をしていた時に、車で江差地方を旅行したことがある。帰りに上ノ国の夷王山からの日本海を眺めたくなり、そこに立ち寄ってみた。風光明媚な、大きく展望が開けた素晴らしいところであった。

上ノ国には、北海道に和人が最初に定住したところで、勝山舘跡が、綺麗に整備されて保存されてある。郷土館のあったそこには、この地方ではアイヌと和人が、争うだけでなく、一緒に住んでいたようであると説明を受けた。

最初のアイヌ対和人の生活は、温厚な関係であったと自分には感じられた。そこで、それならばと、アイヌの歴史を調べ始めた。文字を持たなかったので、アイヌ側の資料は少ないようだ 。ほとんどが松前藩とか和人の記録による。しかしながら、コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いのいずれを見ても、アイヌは制圧されていったようだ。その原因は和人側にあるようだ。どうして、もっと、平和的に融合できなかったのであろうか。

★次の講演は、毎年、当会や、その他の学会で研究発表をしている瀬戸淳氏で今回は「歴史研究の履歴」について述べられた。あるいはこれは氏のこれまで発表された研究論文の総まとめであろうか。

とにかく、氏は数多くの論文をまとめ上げられている。大半は佐賀県関連のものが多い。熱烈なる佐賀県・肥後サポーターであり、プライド・矜持を持っておられる。幕末には薩長土肥の雄藩が、主に明治日本を動かしたが、優れた大砲製造の技術を持っており、戊辰戦争で大きな働きをした佐賀藩の行動があまりに評価されないことに対して義憤を感じられていたことも、佐賀についての研究を、意欲的にされたこともあるかもしれない。

佐賀は、江戸時代に長崎出島に近くて、ヨーロッパの先進的な文化が 、地政学的に他藩に比べて一番取りやすいところに存在した。幕末の藩主である名君・鍋島直正が維新の直後の明治4年に惜しくも死去してしまったことも、影響力のある人物を早く失ったこともあるかもしれないと、自分には思えた。

氏は、歴史学の研究についてもユニークな鋭い感性をお持ちである。10年近く前に当会で世界史を見てみるに民族の力は西へ、宗教の力は東へと向かうと説明をされた。精神性の高い宗教は、太陽に向かって東へと進み、民族の力は太陽のエネルギーを背に受けて西に進むと、それは地球の自転と関係があろうとか示唆された。

さらには、歴史は繰り返すと、氏なりの学説を披露された。ダイナリズムを解明するために、歴史的知見から仮説を立て、思考、観察により検証して、法則性を見つけ出し、新しい理論へと導くという。参考にできること、そして得るところ大であった。
(浅見実)

第327回平成29年11月月例会

研究発表

演題① 「江戸時代の道を求めて (四国遍路)」
講師: 加藤岩男氏
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演題② 「関東の争乱と小弓公方足利義明」
講師: 橋本欣之介氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第327回月例会は、11月19日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。ここの会場は新設間もなく設備も整っているし、小田急線六会日大前駅からも近い。坂を上がらなくてもよい。なにしろきれいである。参加者は24名。いつもよりも多少参加メンバーは少ないかもしれない。でも、みんな歴史大好きなものばかりである。和気藹々とした雰囲気で始まった。

★最初の講演は、加藤岩男氏で「江戸時代の道を求めて(四国遍路)」編であった。氏は、主に、江戸期の九州地方路、中国地方路等我が国の今は廃れた古い街道筋をあちこちと何日もかけて、まわられておられる。それも昔に忠実に古いルートを辿り、クマザサの茂るなか、虫にさされながら歩まれている。本当のマニアであろう。その熱意には敬服いたしたい。

今回訪れたのは、白衣を着用して八十八か所をまわる、弘法大師ゆかりの四国遍路である。全行程を走破するには通して四十日ほどかかる。弘法大師というのは諡号で、我が国の真言宗の開祖である空海のことである。

とにかく、この人物は、とてつもなく大人物であった。空海の創立した和歌山県にある高野山金剛峯寺を自分は30年も前に行ったことがあるが、その荘厳さとか規模の大きさ、広さには圧倒された。とても一日では歩いてまわりきれなかった。

四国八十八か所の霊場の殆どは真言宗の寺院である。さらには西国三十三か所の寺院も殆どが真言宗系である。空海は、教育面でも熱心で綜芸種智院を設立したり、また能書家であり、三筆の一人であった。平安時代の初期には優れた、影響力のある人物がいたと思う。

加藤氏は、今回は阿波の国から土佐までの霊場についての体験談をDⅤDに纏められてプロジェクターを使用して発表された。確かに、旅行記は動画を使用すると迫力がある。臨場感がある。舗装された道路を避けて旧道である山道を行く路程に苦労が多かったらしい。その分、それぞれの行き先で新しい発見があり、知識を深めていったことであろう。それにも増して、先々での人のやさしさ親切さに感謝をしておられた。

最後に、有り難く、そのDVDを全員に配布されそれぞれ頂いた。もし、自分が行けたら参考にしたい。

★次の講演は、橋本欣之介理事により「関東の争乱と小弓公方足利義明」についてであった。

室町時代に起こったこの争乱の時代は長かった。15世紀半ばの享徳の乱から、実に136年間にわたるという。関東地方では激しい戦いが数多く勃発した。絶えず、戦いが頻発したからといって、継続して、いつも戦場になっていたわけではないが、ここに住む人々にとって心が休まることはなかったであろう。もし、自分が、この時代にそこで生活をしていたらどんなに恐ろしかったか。

理事は、このテーマで、時代を追って通史的に発表されていかれた。登場人物もとにかく多い。武家の名前は似たような名前が多く理解をするのに、率直に言って、難しい。それを20ページ以上のレジメにボリュウームは多 いが項目を区切り、分かりやすくまとめあげられらた。太田道灌とか河越夜戦とかなじみのある用語もいくつか出てきたのでほっとした。

室町幕府(北朝)は60年程かけて南北朝を統一したものの、荘園の侵略を始めたり、権限の拡大が進行した強力な大名に成長した守護に悩ませられたという。中央政府としても、鎌倉府がある関東地方の内乱に関与するなど到底できないことであった。鎌倉幕府、江戸幕府に比較しても基盤は弱かったと言えるかもしれない。

さらには、応仁・文明の乱以降、在地武士層の領国が増大して、幕府の権威は失墜して、群雄が割拠する戦国時代に、世は移り進んでいった。
掲題にある小弓方足利義明は国府台で戦死をしたが、その一族・子孫は、秀吉の庇護もあり、その後、代々名家として幕末まで存続したという。
(浅見実)

第326回平成29年10月月例会

研究発表

演題① 「平城太上天皇の変 (薬子の変) と唐に渡った高岳親王」
講師: 小林道子氏
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演題② 「寛政の三奇人」
講師: 竹村紘一氏
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月例会レポート

★10月15日(日)藤沢市善行公民館で、第326回月例会を開催した。参加者40名。いつもより多い、盛会であった。活気に満ちていた。というのは、横浜歴史研究会の加藤会長等をはじめてとして、江戸の会、古代史懇話会等の他会の聴講者が12名も参加された。友好団体の応援は有り難いことである。それ故に、講師も大いに張り切っていた。

★最初の講演は、小林道子理事による「平城太上天皇の変(薬子の変)と唐に渡った高岳親王」であった。

とにかくよく調べられている。この「変」については、自分の手元の中学生の時の歴史の教科書を読み直してみたが、多分まったく記載がない。高校時代の教科書でも、記載はあるがそれ程詳しくない。マイナーな事件であったとするには、自分だけの誤りであろう。

そこを講師はよく調べられておられる。各種の資料を充分に読み込み、推考されて、丁寧に自説を構築しており、歴史の勉強のなかに没頭して、堪能しているのではないだろうか。貴重なレジメであろう。歴史を勉強するのに得るところ大であった。

この事件が起こったのは、平安時代の初めの9世紀初頭であった。平安京に都を定めて間もない頃で、まだインフラの整備も充分でなく、建設途中で、まわりを取り囲む一般市民層、商人等も多くはなかった。壮大な計画のもとに造営された直前の長岡京は、たたりの事件等が次々起こりあえなく中止された。

そのようなときに平安京を都と定めたのである。新都普請や蝦夷討伐により国家財政も逼迫していた。政権も安定していなかった。ここに都を完成させようとしていた桓武天皇の息子である嵯峨天皇と、平城京へのあこがれを持つ同じ息子の平城天皇との兄弟争いが、桓武天皇の死後、藤原氏等をも含めての対立となったものであろうか。

同じ血を分けた兄弟争いは、自分には納得できないが。相和すべきであろう。

★次の講演は、竹村紘一会長による「寛政の三奇人」についてであった。久しぶりに奥行きが深いが、軽妙洒脱の竹村節の講談を傾聴できた。

自分が最初に思い出すのは、三奇人のひとり高山彦九郎のことである。平成18年に東海道53次を13年間にわたって全行程を歩き通したときに、京都の三条大橋で、その像が出迎えてくれた。はっきり言ってどんな人物か、その時には、よく知らなかった。後に、長期間、滞在したことがある近くの群馬県新田郡の出身であることを知り親近感を覚えた。

残りの二人、林子平と蒲生君平については、高校生時代に受験参考書でその名前を暗記をしたにすぎない。

ところで、寛政と言うのは激動の時代であった。その数年前の天明の大飢饉、一揆、打ちこわし等で各地は混乱をしていた。松平定信が行った各種の改革もあまり効果がなかったらしい。

巷では風俗も乱れ山東京伝の黄表紙(大人向けの読み物)が受け入れられていた。町人文化も大坂から江戸へのシフトしてきた。町民の不平不満も著しかった。表面的な言論の自由はあったらしいが、おおっぴらに活字にして表現はできなかった。

寛政異学の禁による学問の統制により、蘭学は、風俗を害するものとして、禁止された。朱子学のみが正学として認められた。今は忘れられた学問であるが、朱子学を簡単な言葉で説明をしてみると、人々を妥協を許さぬ方向へ駆り立てる思想で、幕藩体制擁護のための思想であるとか。

★会場を移しての2次会の参加者は21名。お互いにわいわい自説を強調して大いに盛り上がった。アルコールもどんどん進んだことは言うまでもない。      (浅見実)

第325回平成29年9月月例会

研究発表

演題① 「家族システムの変遷(1) 縄文時代のモラルと家族システム」
講師: 大森健児氏
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演題② 「古代出雲の謎とその正体 (国引き神話)」
講師: 田中真生雄氏
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月例会レポート

月例会レポート
★9月17日(日)藤沢市湘南台公民館で、第325回月例会を開催した。参加者19名。当日は、ちょうど記録的に大きな台風が、日本列島を縦断しており、参加者がどのくらい参集されるのか心配していたが、降雨の中予想以上に集まったメンバーが多かった。

講師お二人のスピーチ内容は、これまでになく高レベルな展開であったと言えるかもない。あたかも大学で、日本文明誕生の頃についての特殊講義を受けているようであった。縄文時代、および神話の時代の物語である。

★最初の講演は、大森健児先生の「家族システムの変遷(1)縄文時代のモラルと家族システム」についてであった。

先生は法政大学名誉教授であり、工学博士でコンピューターについてはご専門であり、数多くの関連論文も発表されている。歴史については、研究をはじめて、それほど時期が経っていないとのことであるが、理論構成、推考・引用文献の多さ等からみるとかなりのキャリアがあると思われる。

自分も10数年前に当会で、藤沢市域の人口の変遷について、各時代ごとに纏めてみたことがある。遺跡の数と規模の推移のみによって、縄文時代は、当地の人口が約400人、平安時代は約4,000人くらい居住していたと勝手に発表したことがあるが、根拠の乏しい、不正確の極みであった。

そこにいくと先生は、掲題について縄文時代の事象について、文献が存在しない時代を、周辺学問である『考古学』『進化人類学』『社会学』『経済学』等からの理論展開を行っており、学問の幅の広さ、スケールの大きさには、自分は足元にも及ばないと痛感した。視野を広くしないといけないと、反省をしている。

そして、縄文時代の家族システムは、母方居住の、統合あるいは一時同居の、核家族であったと結論付けられた。

★次の講演は、田中真生雄先生の「古代出雲の謎とその正体・国引き神話」についてであった。

先生は、月刊誌『歴史研究』等の雑誌に、古代史について投稿をされている常連の研究者である。今回の発表は、文献(今回は、8世紀の前半に成した出雲風土記について)をじっくり、一字一句細部にわたり考証していく方法をとっておられるように感じられた。

自分は懐かしかった、昭和10年代の後半から20年代にかけての小学校唱歌であった『国引き』の歌を思い出した。『くにこい、くにこい、えんやらや、神様綱引き・・・・・』のメロディーを、つい口ずさんでしまうほどであった。本のなかに出てくる綱引きをしている挿絵も、かなり鮮明にあたまのなかに蘇ってきた。

神話によると、出雲の神が、対岸の新羅の地などに綱を打ちかけて、『国来、国来』といって引き寄せて、これを出雲国に結びつけたという国土拡張の伝説である。先生は、謎の多い疑問点の解法が、他の謎の解決の参考になり、貢献できるだろうと結論付けられた。

そして出雲について知ることは、日本の歴史と文化とを知ることだと。確かに、荒神谷遺跡から弥生時代の銅剣358本が出土したし、北九州、ヤマト以外にもここには大きな文化があったと言われる。
(レポート:浅見実)

第324回平成29年8月月例会

研究発表

演題① 「大塩平八郎の乱」
講師: 島口建次氏

演題② 「東海道を歩く-江尻宿(清水市)~金谷宿」
講師: 持田信廣氏
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月例会レポート

★8月20日(日)藤沢市湘南台公民館で、神奈川歴史研究会第324回月例会を開催した。参加者31名。連日の猛暑のなか、部屋の定員を超えるほどの熱心な歴史好きなメンバーが例月以上に集まった。これには講師も気合が入ったようである。

★最初の講演は、厚木歴史研究会代表でもある島口健次氏により「大塩平八郎の乱」について話された。

平八郎は江戸後期の大坂町奉行所の与力であり、陽明学者であった。天保の大飢饉のときには大坂でも餓死者が続出したため、奉行に救済策を講じるように再三にわたり嘆願したが、聞き入られなかった。それ故、自分の蔵書を売り払い、大金を入手して、これを窮民1万軒に1朱 (現在の約1万円弱か)ずつ分配したという。

さらには、ひそかに門弟の与力や近隣の富豪、近隣の農民に檄を飛ばして参加を呼びかけ挙兵を実行した。今から180年前の天保8年にである。天満に放火をして、船場に近い豪商を襲い金穀を奪ったという。というのは、この地区で備蓄していた米をここで消費することなく、多く儲けるために江戸に回送して暴利を、豪商たちは、博していたことに平八郎は我慢ができなかった。

大坂城の占拠も図ったらしい。平八郎の起こした挙兵・乱により大坂市内の家屋は1万戸が焼失したという。この町には大変なことが起こったのである。結局、計画は失敗に終わり、平八郎は自害をした。その後、越後柏崎では生田万の乱等、各地で暴動が起こるきっかけとなった。このころは、徳川家斉の時代であり、綱紀は弛み風俗は頽廃していた。大飢饉の影響もあり、奉行ににも救済できる余裕などなかったであろう。幕府崩壊への序曲のメロディーが流れ出していたと言っても良いのではないだろうか。

でも、島口講師のスピーチは、定説についてはあまり触れずに、意表を突いた異説の披露に力を入れていた。

大塩平八郎は、挙兵が失敗すると、自害などしていない。息子格之助を連れて大陸に渡った。そして、清朝打倒を目指した太平天国をうち立てた洪秀全は実は格之助のことであると。とにかく驚きであった。

最初講師のテーマを聞いたときに、毎年それぞれの異説を述べられているが、今年はいよいよ定説をお話をされるかと思っていたが、そんなことはなかった。過去と同様に、異説が主体であった。時代背景その他周辺の歴史事実を加えて、面白くアレンジされて、今回も異説を発表された。それも、今年は特に極めて正確に、話題関連の周辺知識を調べ上げられているのには感心した。声も大き く、話法も卓越、皆聞き惚れた。

★次の講演は、持田信廣氏で「東海道を歩く(4)・江尻宿から金谷宿まで」であった。

氏はかって大手銀行を退職後、やはり大手旅行会社の名物・歴史担当ツアー・コンダクターであった。歴史に対する知識は極めて豊富であり、歴史は足で書き、語るものであるとの信念を持っているようである。

旧東海道の全行程走破は数回にわたるし、五街道はすべて走破されたとか。凄いことである。一方、自分も東海道は江戸から京都まで14年かけて、夫婦で歩き通したが、その他の街道についてはほとんど歩いていない。

今回は、過去に当会で、3年にわたり江戸から興津宿までお話をされているので、そこから続く江尻宿(清水)から説明をされた。聞いているうちに、ここで自分の歩いたときの思い出が蘇り懐かしい。

江尻では追分羊羹、府中(静岡)では安倍川もちと鰻、丸子ではとろろ汁とどうも、食べ物を真っ先に思い浮かべる。見どころでは、丸子で拝観をした吐月峰・紫屋寺の境内から見た周りの借景、岡部の大旅籠であった柏屋(かしばや)の内部での見学、いずれも素晴らしかった。時間一杯氏は体験談を述べられた。
(レポート:浅見実)

第323回平成29年7月月例会

研究発表

演題① 「紫式部と源氏物語の和歌から-百人一首の歌と紫の上との関係で」
講師: 津久井勤氏
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演題② 「馬の話あれこれ(その4)」
講師: 村本博氏
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月例会レポート

★7月16日(日)藤沢市湘南台公民館で、第323回月例会を開催した。参加者25名。盛会であった。

インターネットを閲覧して、当会の活動を知り、横浜市在住の櫛田久美さんが新たに当会へ入会され、参加され、嬉しかった。徐々にネットによる媒体も大きな効果が出つつあると言えよう。

それにしても、当日は蒸し暑かった。外気は摂氏32度以上。おまけに、会場である公民館のエアコンは故障して全く効き目なし。最悪の状況であった。でも、この暑さにクレームをつけるメンバーはいなかった。内容の濃い、講師の高度なスピーチを熱心に聞き入った。それほど皆、歴史が好きである。

★最初の講演は、津久井勤先生による「紫式部と源氏物語の和歌から・百人一首の歌と紫の上との関係で」であった。先生は東海大学教授を経て全日本かるた協会七段、そのいくつものかるた団体の役員を兼ねておられる。

源氏物語は、平安時代中期である今から約一千年前に書かれた物語である。作者はおそらく紫式部であろう。華やかな舞台は藤原氏全盛時代の貴族社会である。雄大な構想を持って、精緻な心理状態を描き出している物語であると言われている。紫の上を失ったあとの光源氏の栄華は崩壊していったとされる。

先生の講演は、あたかも中世文学の特殊講義を聴講しているようだった。聞いているうちに、本居宣長が指摘をしたという物の哀れ感が、自分にはひしひしと感じられた。友人で、一生のうちに一度は大作を読んでおこうとトルストイの「戦争と平和」を読みだしたものがいるが、自分は、そうだ瀬戸内寂聴氏訳の大河小説の「源氏物語」を読んでみようかと思っている。でも、長そうだ。

★次の講演は、村本博氏で「馬の話・あれこれ(その4)」についてであった。とにかく、馬については詳しい人である。これまで当会でも昨年まで3回にわたり、馬についてのあれこれと興味がある歴史上の出来事を披露され好評であったが、今回は、それらの集大成ともいえる『馬と人を結ぶもの』『競馬』等についてお話しされた。

やはり氏の馬術におけるキャリアーが長く、それが確かな礎となっている。馬と人類の付き合いは古代に遡る。時代の変遷に伴っていろいろと馬具も徐々に変化していった。快適にそして合理的に乗馬を行うために改良に改良を重ねていった。ガソリンエンジン、電気モーターが発明されるまで、運搬、連絡、移動、戦術等で大きな力となった。

そして、講演の終了後の『鳥貴族』での二次会で嬉しそうに、うまそうにじっくりアルコールを嗜む氏のおだやかな表情は平和そのものであった。自分の家の近くに、乗馬ができる施設があるが、折角だから一回くらい試してみようかと思った。無理かもしれない。
(浅見実)

第322回平成29年6月月例会

研究発表

演題① 「埋れた歴史の宝庫-清盛も来るはずだった相模の松田亭」
講師: 山内玄人氏
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演題② 「暗殺疑惑の日本史」
講師: 川瀬和男氏
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月例会レポート

▼ 6月18日(日)332回の例会を、藤沢市六会公民館会議室で開催した。参加者は、町田の歴史を楽しみ歩く会の会長以下の応援団四名を含めて29 名。

▼ 最初の発表者は当会ベテランの山内玄人理事で、「埋もれた歴史の宝庫―清盛も来るはずだった相模の松田亭」と題して発表された。平素から「自己チュー史学」と称して先祖の山内氏を中心にそこから派生する数多くの鎌倉武士をテーマに深く掘り下げて研究をされている同氏の綿密且つ行動力溢れる探求姿勢には敬服せざるを得ない。

松田亭は義朝と源氏股肱の家臣の波多野義通の妹との間に誕生した朝長が生まれ育った地であった。義平と頼朝の間に生まれた二男であったが、平治合戦で敗れて東国へ落ち延びる途次に敵に襲われて重傷を負い、これ以上の逃避行は無理と判断し美濃青墓で自決したとも父・義朝により斬殺されたとも伝えられる悲劇の若武者であった。

松田亭の存在は『吾妻鏡』にも記載があるが、講師は松田亭を特定する過程で清盛が鹿島詣や富士参りの名目で東国入りする計画があり、当時は平家与党の大庭景親やその縁に繋がる波多野義常(義通の嫡子で妻は景親の姉妹)が協力し松田亭を増改築して清盛の宿舎として提供せんとしたことを公家の日記である『山塊記』等で確認された。

松田亭の侍所は四百人以上の武士が詰めるだけの大きさであった。侍所とされるが、後年の御家人を統制し軍事・警察を所管する鎌倉幕府機関ではなく、武士が詰める場所の意であった。

しかしながら、京での政治情勢は複雑で反平家の陰謀もあり多くの問題を抱えていた清盛は多忙のために東国入りを断念した。清盛は要衝の地である松田に相模や武蔵を始めとする坂東武士団との主従関係を固める意図があったと推測され、それが実現しておれば、後の頼朝の挙兵も不可能になったかも知れないのである。

後にこの松田亭には源行家(源為義の十男とされる新宮十郎義盛)も滞在したことがあり、頼朝自身も富士川合戦の前後に松田亭を訪れている。訪れる前に中村宗平に命じて松田亭の修復をさせており、帰りには修復なった松田亭に入っている。頼朝はその後もしばしば松田亭に宿泊しているのである。

講師の山内氏は清盛の東国入りの計画を最初に発見したのは、歴史学者の多賀宗隼氏で『平清盛と東国』と題する論文で発表された。歴史学者で東国武士団に造詣が深い野口実氏がその論文を踏まえて松田亭の侍所を例に挙げて清盛の政治手法に迫ったものである。

自分はその二人の研究を皆様に知らせようとしたに過ぎないと謙虚に結ばれたが、先祖に関わることとはいえ、山内氏の鋭く粘り強い不断の探究心が無ければここまでの発表には至らなかったと思う。実に興味深い話が聞けたことを感謝したいと思う次第である。

▼ 二番目の発表者は川瀬和男理事で「暗殺疑惑の日本史」と題されて暗殺か否かは判然としないが、古くから疑惑を持たれている暗殺事件を幾つか取り上げて話をされた。取り上げられた人物は源頼朝・足利直義・足利義満・毛利隆元・武田信玄・蒲生氏郷・加藤清正・徳川綱吉・徳川家定・孝明天皇で、「歴史の謎を探る会」編の資料を元にされた興味深い話で、是非、続編をお願いしたいと思う興味深い内容であった。

その後は、湘南台の鳥貴族にて懇親会が開催され13 名が参加し大いに盛り上がった。
(竹村紘一)

第321回平成29年5月月例会

研究発表

演題① 「茅ヶ崎と“音貞”」
講師: 原田信作氏
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演題② 「欽明天皇とその時代」
講師: 橋本和子氏
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月例会レポート

5月21日(日)藤沢市善行公民館において、第321回の例会を開催した。参加者24 名。

今回の発表は、歌舞伎に造詣が深い原田信作氏と、古代史の研究を通して夢を追い続ける橋本和子理事の2名であった。

★最初の講演は原田氏で「茅ヶ崎と音貞」についてであった。淡々としているが氏の語り口は素晴らしい。演劇の舞台にどんどん引きずりこまれてしまう。

今回は、茅ケ崎ゆかりの川上音二郎と貞奴夫妻の物語である。この二人が近代日本演劇史に残した功績は大きかった。今から、32年前にNHKの大河ドラマ『春の波濤』を思い出した。明治・大正期の有名人が大勢画面に現れた。主たる配役は音二郎役の背の高くてかっこいい中村雅俊と貞奴役のバニーガールの衣装で登場し、大ヒットソングの『愛の水中花』を歌ったあの松坂慶子である。

それにしても茅ケ崎ゆかりの人物は素晴らしい。市川團十郎、加山雄三、桑田佳祐、平尾昌晃等々文化面での大物が多い。音二郎は、明治の始めに板垣退助等が起こした自由民権運動のさなかに自由党に入党して過激に政界を批判していったり、、「オッペケペー節」歌い政治と世情を風刺して大好評を博した。一方、藤沢地区での自由民権運動は、かなり盛んではあったが、近隣の地区に比べて動きは、はがゆかったといわれる。

★次の講演は橋本理事で、「欽明天皇とその時代」について力強くスピーチをされた。6世紀の出来事である。その前後の時代に朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の各国が互いに抗争しあっていた。我が国「倭」もその争いのなかに巻き込まれていった。大和朝廷の命により朝鮮出兵が行われる際には、九州の人々への負担が多く、地方支配面でも不満が重なり大和への抵抗として豪族である磐井の乱が勃発をして内戦となった。

この頃、我が国に、紀元前5世紀にインドのガンジス川地方に起こった教えである仏教が、約1千年かけて、朝鮮半島経由で伝来した。欽明天皇の時代である。当時、天皇系は欽明系と安閑、宣化系との二朝が並立をしていたという。欽明天皇を支えていた渡来人との関係が深く、進歩的な考えをもっている蘇我氏は、神事と深いつながりがある物部氏の反対を押し切って仏教を取り入れた。そして仏教は豪族の連合政権から中央政権的律令国家へと変革を促す役割を果たした。さらに紆余曲折を経た後に、日本に定着して、その後の政治や文化に大きな影響を与えた。
(浅見実)

第320回平成29年4月月例会

研究発表

演題① 「偽書について①『信長公記』首巻と『史疑徳川家康事蹟』」
講師: 二階堂玲太氏
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演題② 「エドワード・シルヴェスター・モース(Morse)」
講師: 浅見実氏・里見絢子氏 (補足・修正)
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月例会レポート

★4月16日(日)湘南台市民センターにて第320 回例会が開催され参加者は21 名であった。

★最初の発表者は当会のベテランの二階堂玲太顧問で演題は「偽書について」で『信長公記』首巻と『史疑徳川家康事蹟』に関して興味深い話をされた。氏は時代小説の作家仲間と共同で『決戦!桶狭間』を執筆され、多くの疑問に遭遇され研究された。また、異色の作家として有名な八切止夫についても言及された。反骨精神旺盛で通説に果敢に挑戦したため敵も多く、遂には筆禍事件を起こしたとされ出版界から追放された人物である。私自身は同氏の本を数冊所持しておりそれなりの評価をしている。

昨今、本能寺の変の真実に迫る著作が多い明智憲三郎は八切止夫からの引用が多いし、また、司馬遼太郎は徳富蘇峰の『近世日本国民氏』を参考にしているにも拘わらず参考文献に入れていないのは何か憚られることがあるのであろうか疑問なしとしない。『信長公記』は信長の側近であった太田牛一によって書かれたもので、信長一代記を語る上で重要な史料とされているが、その首巻は牛一が晩年に追加したもので年次等の誤りが多く史料としての評価は低いとされている。それによると桶狭間の合戦は通説では永禄三年(1560)であるが、首巻では天文二十一年(1552)と記してあり八年も繰り上げられているし、信長の生涯でも重要な戦で活躍した侍で後年に出世した者が殆どいないのは如何なものか等疑問も生じるのである。八切止夫は奇襲戦とされる桶狭間の戦いは無かったと主張している。歴史を学んだ人からは驚くべき主張であるが、首肯出来る面もあるように思われる。

史実と言われていても実際は時の権力者の意向で歪められた物が多いのも事実である。二階堂氏は、女城主直虎は実は男であったとの説を紹介され、井伊家には直虎の時代に山の民(賤民)の血統が紛れ込んだとの説を展開され、それが本編の『史疑徳川家康事蹟』にある貴賤交替(顛倒)論とも重なる面があると指摘された。井伊氏の祖とされる井伊共保にまつわる奇瑞譚や事蹟についても興味深い話が多い。仮説ではあるが、井伊共保から直虎までを山の民とその末裔とし、松平元康と入れ替わった世良田次郎三郎元信も同じく駿河の賤民と考えられる。元康の室であった瀬名姫も井伊直平の末裔で山の民(賤民)であるから、両者には接点があったとする。元康が家臣によって暗殺された後に、元信が入り込む余地はあったとする説である。通説では、元信は元康と改名しさらに桶狭間で今川義元が戦死すると三河で独立し家康と改名し永禄九年(1566)には徳川に改姓し徳川家康を名乗ることになる。

明治三十五年(1902)に徳富蘇峰が主催する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。その中身についてはレジメに書かれているので詳細は割愛するが、大坂夏の陣の茶臼山の戦いで真田信繁に敗れ駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛に槍で突かれて負傷した家康が堺まで落ち延びたが、既に事切れていたので同地の南宗寺に葬ったとの話がある。徳川氏はその事実を隠し影武者を立てて徳川政権の安定化を図り、事なるや用済みとして暗殺したという。鯛の天ぷらを食し過ぎて死に至ったとの話が伝えられているが大いに疑問である。

尚、大坂の陣ではなく関ヶ原の時であるとする説も唱えられていて、家康影武者説は小説にも数多く取り上げられている。村岡素一郎の本は初版500 部が出版されたが、重版されず絶版となった。絶版となった理由は、その著書の内容に憤激した徳川氏一族や旧徳川氏の幕臣が、民友社に圧力をかけたためという説や、徳富蘇峰が貴族院議員就任を目指しており、貴族院に多数存在する徳川家関係者に遠慮したためとも言われる。また、礫こいしかわぜんじ川全次はこの本は歴史書の体裁をとった明治の元勲山県有朋や伊藤博文への批判書だとしており、両者からの圧力があった可能性を指摘している。いずれにせよ、村岡説は学会や世間に反響を起こすこともなく、戦前は完全に忘れられた存在であった。

しかし、昭和三十年代、南條範夫が村岡の著書を基にして『願人坊主家康』(後に加筆改題して『三百年のベール—異伝 徳川家康』)という小説を著した。八切止夫も小説『徳川家康は二人だった』を著している。昭和三十八年(1963)には村岡の外孫に当たる榛葉英治が『史疑 徳川家康』を出版した。平成六年(1994)には礫こいしかわぜんじ川全次が『史疑 幻の家康論』を著し、同書の背景を検証した。隆慶一郎は、村岡説に触発されたものの、「家康が入れ替わった時期が村岡説では早過ぎる。家康の人格が変わった1600 年頃としたほうが無理がない」と考え、家康が慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際に暗殺され、その後は影武者・世良田二郎三郎が代役として家康に成り代わったという設定で小説『影武者徳川家康』を著している。歴史愛好家にとっては絶好のテーマであり興味深いものがある。講師は複雑多岐に亘る話を巧く纏めて発表された。
二番目の講師は当会理事の里見絢子氏で演題は「大森貝塚を発見したモースと藤沢との関連について」と題されて発表された。本来は当会副会長の浅見実氏が発表される予定であったが、前日の夜に胆石で救急車にて病院へ搬送されるハプニングが生じ、急遽、大森貝塚の出土土器を研究しておられた里見氏に代役をお願いした次第であった。里見氏は以前から浅見氏よりも発表の際に10分でも20分でも土器関係の話についてはサポートして貰えぬかとの話があったので、多少の準備が出来ていたので及ばずながらお手伝いすることが出来たとの前置きで浅見氏が用意されたレジメを使用しながら、自らが用意されたレジメにも触れながら丁寧に分かり易く話を進められた。大森貝塚とモースの名前は有名であるので知らぬ人も少ないが、発見の経緯とかモースなる人物の生涯となると知らない人も多い。

モースは性格的には問題児であり小学校も退学させられたり、その後通った学校や学園からも度々放校処分を受けたりしてハイスクールも卒業出来ず、大学も出ていないし家庭にあっては厳格なプロテスタントである父親とも衝突していた。母親は科学・博物学・天文学にも興味を示す女性でモースにも理解があったようである。その後、製図工として働くことになる。上司と衝突し職場にはなじめなかったが元来、絵が得意であったモースは製図に従事したことから貝を始めとする動物の正確なスケッチが特技となり後に研究報告の記録に非常に役立つことになる。

貝のコレクターとして多少名前が出始めたモースはポートランドの博物学会に入会し、そこで運命の人ハーバード大学教授のハガシー博士と出会い、彼の引きで博物館の学生助手として採用され、博士の紹介により多くの有為な人材に出会い大いに成長したのであった。しかし、師のアガシー博士は当時、『種の起源』で一世を風靡していたダーウィンの進化論に反論していたため大勢の弟子が去った。モースはアガシー博士を支持していたというが別な理由から彼も師と決別した。その後、紆余曲折はあったが、幸運にもセーラムのビーボディ科学アカデミーの創設に参加する機会に恵まれ、研究成果の発表で名前が知られるようになり博物学関係の学会で要職に就くことになる。海岸に面した臨海実験所が開設され、一時疎遠になっていたアガシー博士ともよりを戻し多くの弟子も復帰した。腕足類の研究に注力した結果、進化論の有力な推進者となったモースは研究を深化させるために腕足類が多く生息する日本を目指すことになる。

来日したモースは東京大学の教授として招聘され破格の給与を与えられ、江の島にて腕足類の収集・研究に取り掛かった。モースが大森貝塚を発見したのは来日してから僅か2日のことであった。思わぬ発見に感激したモースは他の人に先を越されぬことを非常に懸念し、慎重且つ秘密裡に準備を進めて報告書を作成し翌年に出版した。これが本邦における近代考古学の幕明けとなったのであった。大森貝塚の出土品の重複品はアメリカやヨーロッパにも送られ、その見返りに多くの得難い標本や図書が日本に齎された。
また、モースの著書『日本その日その日・JAPAN Day bay Day』明治初期の日本の事情が分る貴重な日記風の読み物で、3500 ページにも亘る大作であり、他にもスケッチ画が777 枚もある。モースは当時の日本人を高く評価し、人間としての品位が高く礼儀が厚い。具体的事例を挙げて日本人ほど文明的な人種はいないとまで日本人を褒め称えている。真の知日家といえるのではなかろうか。現在を生きる我々としては気恥ずかしい限りであるが。里見氏のお蔭で浅見氏のレジメも生き我々もモースの知られざる生涯を知ることが出来、有意義な時間を過ごせたことに感謝したいと思う。

その後は例によって、懇親会が湘南台の居酒屋で和やかに開催された。
(竹村紘一)

第319回平成29年3月月例会

研究発表

演題① 「シーボルトの生涯とその実像」
講師: 槙良生氏
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演題② 「イワクラと縄文文明を継ぐ日本人のルーツ」
講師: 前田豊氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第319回例会は、3月19日(日)に、藤沢市湘南台公民館で開催をした。清々しい陽春の暖かい行楽日和であった。

春の彼岸のピークの日曜日でもあり、参加者があるいは少ないのではないだろうと心配をしたが、そんなことはなかった。いつもより多い32名の聴講者であった。その中には、横浜歴史研究会や江戸の会のメンバーの参加もあり嬉しかった。講師も大いにやる気になったみたいである。

もう一つ、関心を感心をしたこともある。本日は、花粉飛来が非常に多い日であるとの気象情報であったが、32名の誰もが花粉症に悩まされていないみたいであった。咳をしたり、クシャミをしたりしているものは皆無であった。年齢を重ねると『花粉症』を患うことはなくなると言われているみたいだが、その通りであろう。実感をした。

★最初の講演は、槇良生事務局長により「シーボルトの生涯とその実像」についてであった。幕末の外交史はとにかく面白い。良く調べており、聞きごたえがあった。

たまたま、自分は、何年か前に草津温泉のリゾートマンションの一部屋を、春から秋まで半年間借りて、時々訪れて、温泉三昧の日々を送っていたことがあるが、ここに行く途中の中之条町の六合(くに)地区で、そこかしこで『高野長英』滞在の地の看板を目にした。不似合いな地かもしれない。伝統的建造物群保存地区である赤岩地区でである。のどかな田舎チックな静かなところである。どうしてこんなところに長英はいたのであろうといつも疑問に思っていた。

彼は、もともと、シーボルトから長崎で蘭学を学んだ江戸の町医者であったが、モリソン号事件に際して夢物語を書いて鎖国の不可を主張して、番社の獄に連座をして終生入牢を申し渡された。その後、獄舎に放火をさせ脱牢をして、逃亡して諸藩等の庇護を受け、あちこちに滞在をした。そのときに、親交のあった当地の医師等の好意により、ここ中之条に滞在をしたらしい。こんなところにもシーボルトの影響があった。

確かに、ここなら江戸から離れており、山の中で見つかることもなかったであろう、その上日本でもトップクラスの温泉群が、ここには点在する。冬はあまりにも寒すぎるが、その他のシーズンは極楽である。シーボルトとから育っていった医学者、科学者は数十人にのぼるという。我が国の医学、科学分野に貢献した功績は多大なものがあるだろう。氏は平易に分かりやすくその生涯について、詳しい知識を述べていかれた。

★次の講演は、前田豊氏により「イワクラと縄文文明を継ぐ日本人のルーツ」について説明をされた。

イワクラとは巨石建造築物のことである。聖地・祭祀遺跡の側面もある。このテーマについて、他の研究者や愛好家が中心となり専門的に研究をする学会を2004年に立ち上げて、現在国際用語として世界に流通させるべく鋭意活躍中である。意表をついて自分の意見を構築するのに、とても参考になった。

氏の活動は独創的であり時代の先端を走っている。もともと本業である炭素繊維についての研究の他、不思議現象の発現メカニズムについての意識科学を突き詰められておられる。

さらには、秦の始皇帝の命で仙薬を求めて来日して、熊野または富士山に定住したという徐福や、我が国のどこにあったか定説の決まらない耶馬台国の東三河への位置確定の考察に、確固たる、理論的にユニークな学説を構築されている。守備範囲は広い。いずれについても著作があり、ネットでも購入できる。当会にもそのファンがいるかもしれない。

自分で行ったわけではないが、オーストラリアのアボリジニの聖地であるウルル(エアーズロック)に観光旅行で行った友人がいるが、そこの山の頂上には、水たまりにおたまじゃくしが泳いでいたと得意気に話していた。そんなことを聞くとなんだか行って確認をしてみたい気がする。

実際に自分で行ってみた巨石では、琉球王国の最高の聖地である斎場御嶽(せいふぁうたき)の大きな岩の迫力がある見事さに驚かされた。さらには、10年以上前の1月末頃に行った時、同じ沖縄の今帰仁(なきじん)グスクで見かけた濃い紅色の緋寒桜が咲いているのを見たときに、本土とは違うものを見つけたような気がした。

★2次会の参加者は22名。2時間近く、大いに盛り上がり、これまでの最大級のアルコール類をオーダーした。かってにめいめいが歴史について、勝手に自説を披露していった。皆がうるさくて聞き取れないところもあったが。
(浅見 実)

第318回平成29年2月月例会

研究発表

演題① 「新撰組生残り永倉新八・斉藤一の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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演題② 「横山忠弘著作集(1)(2)について」
講師: 横山忠弘氏
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月例会レポート

★藤沢市湘南台公民館において、第318回の例会を開催した。当日の参加者は22名で、やや少ないかもしれない。でも、会長、事務局長等、役員の一部は、若返り、今後の当会は、いろいろと新しい企画を出し実行していき、大いに発展をしていくであろう。

★最初の講演は、渡邊幸太郎理事により「新選組の生き残り永倉新八・齋藤一(はじめ)の生涯」であった。新選組は幕末に、京都の治安維持にあたった浪士隊であり、尊攘・討幕派弾圧に活躍をした。イメージとしては、商家より資金を強引に提供させたり、内部粛清があったり、怖い集団ではあったが、なにか興味をひかれるものもある、不思議な集団であった。

かってNHKの大河ドラマ『新選組!』により、好意的な演出もあり、親しみの印象を与えられたかもしれない。山口智充氏が演ずる永倉新八、オダギリジョー氏の齋藤一、ふたりの演技が懐かしく思い出された。

★次の講演は、横山弘忠新顧問により、同氏が発刊した二冊の論文集である「横山忠弘著作集及びそのⅡ」に関連したスピーチであった。とにかく、当会や他の会の役員・会員としての激務にかかわりながら、これほどのいくつもの論文を発表されたことは驚きであり、大いに敬意を表したい。

これまでも、氏は当会では同じテーマで、その内容の一部はお話をされているが、今回は、その集大成である。さらには、個人的な側面をも含めており、ほのぼのとした家族愛が感じられた。今後は、第一に、健康には充分ご留意をされて、さらに歴史研究を極めて、その後の発表を期待している。
(浅見 実)

新年特別講演会

研究発表

演題 「ミッドウェー海戦の真相と敗因を探る」
講師: 神奈川歴史研究会 新会長 竹村紘一氏
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①定期総会 ②新年特別講演会 ③新年宴会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月15日(日)藤沢市六会公民館で開催した。この会場の利用は当会では始めてであるが新設間もなく、設備も整っているし、小田急線六会日大前駅からも近い。なにしろきれいである。参加者は29名。吉成勇本部主幹もご出席をされて、当会のブリーフヒストリーを説明され、励ましのお言葉を述べられた。さらには、有り難く祝い金まで頂戴した。

★あらかじめ事務局作成の議事はたんたんと進められ、最後に当会の役員改選では、新会長に竹村紘一氏、新事務局長に槇良生氏、さらに新理事には小林道子さんが就任されて、大幅に役員の年齢層が若返ったことは頼もしかった。これからやるだろうという大きな期待感が生まれた。新会長の就任ご挨拶は力強かった。一方、長年にわたり当会の維持、発展に大きく貢献された横山旧事務局長の退任には一抹の寂しさが感じられた。引き続き顧問として残ってはいただいたが。

★恒例の新年特別講演は、新会長による「ミッドウェー海戦の真相と敗因を探る」のテーマによるお話であった。日米両軍間の戦力の分かれ目になった重要な處である。ミッドウェーは、ハワイの北西にある珊瑚礁の海域である。独特な自然資源も豊富であり、また鳥類特にアホウドリの大規模な繁殖地である。そこにかつてアメリカ海軍の基地があった。

というのは、ミッドウェー(Midway)とは、その名の通りに、カリフォルニア(アメリカ大陸)と東アジアとの中間点に位置しており、重要なアメリカ軍の基地がそこに所在していたからだ。そこでの日米両軍の壮絶な戦闘で多くの貴重な自然遺産がかなりの被害をこうむったに違いない。現在は、この地の自然は厳重に保護されている。

新会長は、日本軍の敗因について、自説もまじえて明快に説明していかれた、あっという間の1時間半であった。

★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークで賑やかに行われた。総勢27名の出席者数であった。料理もアルコールもふんだんにあり、大いに盛り上がった。しばらく歓談のあと、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、意欲的にそして得意気に述べていかれた。

一人2分の持ち時間を大幅に超過しても、意に介することなく、とめどなく歴史上の新発見の自説を延々と話される人もいた。話題も多岐にわたり、時代も太古から現代まで幅が広い。

なお。歴史散歩は春には大山阿夫利神社を、そして秋には横浜の三渓園を計画している。いずれも、楽しみに期待している。今年の全会員の健康と幸福を祈るや切である。
(浅見 実)

第317回平成28年12月月例会

研究発表

演題① 「地球生物の発生と進化」
講師: 杵鞭充千男氏

演題② 「歴史雑感(5)」
講師: 瀬戸淳氏

第316回平成28年11月月例会

研究発表

演題① 「三善康信とその時代」
講師: 橋本欣之介氏

演題② 「江戸時代の道を求めて(山陰道編)」
講師: 加藤岩男氏

第315回平成28年10月月例会

研究発表

演題① 「東海道を歩く(3) 箱根峠~興津宿」
講師: 持田信廣氏

演題② 「先史洞窟内の赤色手形の謎」
講師: 齊藤守弘氏

第314回平成28年9月月例会

研究発表

演題① 「行方不明の将軍実朝の首 -源実朝暗殺-」
講師: 島口健次氏

演題② 「『更級日記』の中の東海道 -国司が通った古代官道を辿る-」
講師: 小林道子氏

第313回平成28年8月月例会

研究発表

演題① 「秋の歴史散歩のご案内」
講師: 持田信廣氏

演題② 「井伊直虎と直政」
講師: 川瀬和男氏

演題③ 「馬の話あれこれ」
講師: 村本博氏

第312回平成28年7月月例会

研究発表

演題① 「戊辰戦争-越後長岡の惨状
稲垣平助、河井継之助 二人家老の足跡を見る」
講師: 武士俣光也氏

演題② 「伊勢斎宮と名張の関わり-主に万葉集を題材にして」
講師: 津久井勤氏

第311回平成28年6月月例会

研究発表

演題① 「わが歴史体験-奥州山内首藤氏の滅亡をめぐって」
講師: 山内玄人氏

演題② 「コロンブスのアメリカ大陸発見」
講師: 浅見実氏

第310回平成28年5月月例会

研究発表

演題① 「太平記を歩く(護良親王編)」
講師  原田信作氏

演題② 「邪馬台国の新視点」
講師  前田豊氏

第309回平成28年4月月例会

研究発表

演題①:「大航海時代と戦国日本(3)(家康〜家光)」
講師: 二階堂玲太氏

演題②:「応神王朝から継体王朝へ」
講師: 橋本和子氏

第308回平成28年3月月例会

研究発表

演題①:「朝鮮を駆けた近江商人三中井」
講師: 槙良生氏

演題②:「『横山忠弘著作集』(Ⅱ)について」
講師: 横山忠弘氏

第307回平成28年2月月例会

研究発表

演題①:「明王朝復活にかけた鄭成功」
講師: 竹村紘一氏

演題②:「木戸 孝允(桂小五郎)の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏

平成28年度定期総会

新年特別講演会

演題①:「神奈川県の三重塔と五重塔」
講師: 江戸の歴史研究会副会長 川崎 克美先生

第306回平成27年12月月例会

研究発表

演題①:「山内首藤氏と宍戸氏の軌跡」
講師: 横山忠弘氏

演題②:「歴史雑感」
講師: 瀬戸淳氏

第305回平成27年11月月例会

研究発表

演題①:「フェリペ二世の生涯」
講師: 浅見実氏

演題②:「(続)東海道を歩く」
講師: 持田信廣氏

第304回平成27年10月月例会

研究発表

演題①:「天石窟戸神話 -記紀原文の語る仰天真相-」
講師: 斉藤守弘氏

演題②:「縄文の謎が解けました -「縄紋」から「縄文」への転換の実相-」
講師: 里見絢子氏

第303回平成27年9月月例会

研究発表

演題①:「宗祇と百人一首」
講師: 津久井勤氏

演題②:「極地交代運動」
講師: 杵鞭充千男氏

第302回平成27年8月月例会

研究発表

演題①-1:「秋の歴史散歩・鎌倉案内」
講師: 橋本欣之介氏

演題①-2:「大久保一翁」
講師: 橋本欣之介氏

演題②:「日本語 のルーツを訪ねる-縄文語の発見について-」
講師: 前田豊氏

第301回平成27年7月月例会

研究発表

演題① 「蒙古襲来考」
講師: 池田勝宣氏

演題② 「歴史研究「特集」横山忠弘著作集について」
講師: 横山忠弘氏

第300回平成27年6月月例会

研究発表

演題① 「鎌倉時代の守護制度について」
講師: 井上誠一氏

演題② 「江戸時代の道を求めて-日向国から豊後国を結ぶ梓街道」
講師: 加藤岩男氏

第299回平成27年5月月例会

研究発表

演題① 「チャールス・H・ダラスと米沢牛の歴史」
講師: 槙良生氏

演題② 「藤原道長の時代」
講師: 橋本和子氏

第298回平成27年4月月例会

研究発表

演題① 「大航海時代と戦国日本2(秀吉編)」
講師:  二階堂玲太氏

演題② 「化石燃料の起源」
講師:  仲西肇氏

第297回平成27年3月月例会

研究発表

演題① 「日本古代史におけるユダヤ民族渡来説」
講師:  島口健次氏

演題② 「空手道の歴史と現状」
講師:  渡邊幸太郎氏

第296回平成27年2月月例会

研究発表

演題① 「薩英戦争勃発の発端・経緯・結末について」
講師:  竹村紘一氏

演題② 「例会発表14年を振り返って」
講師:  原田信作氏

平成27年度定期総会

新年特別講演会

演題 「藤末鎌初に活躍した仏師運慶、快慶」
講師:  横浜歴史研究会会員 「斎木敏夫」

第295回平成26年12月月例会

研究発表

演題① 「歴史雑感3」
講師:  瀬戸淳氏

演題② 「東海道雑感」
講師:  浅見実氏

第294回平成26年11月月例会

研究発表

演題①:「県下の東海道を尋ねて」
講師:  持田信廣氏

演題②: 「安政期における開国と幕府外交」
講師:  橋本欣之介氏

第293回平成26年10月月例会

研究発表

演題①:「茅ヶ崎と市川團十郎」
講師:  原田信作氏

演題②: 「大正時代の政治状況」
講師:  植村泰彦氏

第292回平成26年9月月例会

研究発表

演題①:「戦国を生き抜いた藤堂高虎の実像」
講師:  竹村紘一氏

演題②: 「常在戦場 自筆の軸物を座右の銘としていた 海軍提督 山本五十六」
講師:  武士俣光也氏

第291回平成26年8月月例会

研究発表

演題①:「秋の戸塚~藤沢間歴史散歩」
「家康が開発した保土ヶ谷~藤沢間の新東海道、天下を制す」
講師:  横山忠弘氏

演題②: 「馬の話あれこれ (その二)」
講師:  村本博氏

第290回平成26年7月月例会

研究発表

演題①: 「弥生人が求めた神仙思想と不老不死の世界
~日本精神文化の基層に関する考察~」
講師:  前田豊氏

演題②: 「イザベラ・バードの生涯と今日的意義」
講師:  槙良生氏

第289回平成26年6月月例会

研究発表

演題①: 「鎌倉仏教と鎌倉五山」
講師:  井上誠一氏

演題②: 「壬申の乱と私の歴史観」
講師:  横山忠弘氏

第288回平成26年5月月例会

研究発表

演題①: 「地球大気と生物の歴史・CO2あと0.03%・全滅寸前の植物達」
講師:  杵鞭充千男氏

演題②: 「三種の神器は縄文時代に由来する」
講師:  齋藤守弘氏