【研究発表】

第335回平成30年9月月例会 (New!!)

研究発表

演題①  「出雲の国の謎とその正体(根の国、黄泉の国)」
講師: 田中真生男氏

演題②  「家族システムの変遷(II)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」
講師: 大森健児氏
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月例会レポート

★第335回例会を9月16日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は30名。夏の暑さも峠を越えたようで、ホッと一息をつけた。それにしても、今年の夏は暑すぎた。

★最初の講演は、島根県出雲地方のご出身である田中真生雄氏が、「古代出雲の謎とその正体・黄泉の国と根の国」についてお話をされた。長年にわたる出雲研究の成果の発表である。

自分は学生時代にこの地を訪ね、松江城、宍道湖、出雲大社等を見学したことがあるが、懐かしく思い出された。松江の旅館で夜中に聞いた列車の汽笛のピッーと言う鋭い音が忘れられない。遠くに来たものだと実感した。

出雲は神話のふるさとでもある。小さな地域ではあるが、なにか日本の他の地域とは違う雰囲気があるのではないだろうか。小泉八雲が、ここに関心を持ち、『怪談』『霊の日本』を著作して日本独自のユニークな崇拝観、民間の習俗、文化、伝説等を西洋に紹介をしたが分かる気がする。

田中氏は、この地で育ち、そこに愛着を持ち、充分に出雲を調べ上げられている。『記紀』・『出雲風土記』等を、繰り返し読み込まれており、精通をされておられる。そこで以下のようにまとめられた。『黄泉の国』、『根の国』はいずれも出雲にあったのであろう。

出雲は、小さい地域ではあるが、長い年月をかけて、その国土の開発、他国との交流、文化の蓄積により、さらには祖先崇拝や祭祀により、かつては日本の中軸であった。『根の国』出雲は、『黄泉の国』に埋葬されて文化は、大和へと新生されていった。ギリシャが滅び、ローマが誕生したように。

★ 次の講演は、法政大学名誉教授であり工学博士の大森健児氏により「家族システムの変遷(2)ケーススタディー:律令制成立期における天皇家」であった。氏の歴史を見る目はグローバルな観点にたち、独創的である。

我々が歴史を学習するときに、どうしても小さな単位の個人史を中心に調べていくことが多いが、それよりもさらに大きく、世界史のなかでの範囲まで広げて、ミクロからマクロまでの共通の概念で捉えたら、これまでにないような新しい展開が開けるであろう。

数学の世界では、対象と射との関係である『圏論』というセオリーがある。まさに、それであろう。フランスの歴史人口学者であり家族人類学者でもあるエマニュエル・トッドが、人口統計による定量化と家族構成を分析してその説を唱えた。氏はそれを引用された。

さらに付け加えて、『平等・不平等』と『権威・自由』の2軸で、家族システムを性格付けされた。また、環境に順応をした『進化論』で考えた方がよいであろうと。

日本はもともと『核家族』であったが、663年の白村江の戦いで、唐の整備がされて訓練された軍により壊滅的な敗戦を被った。国力の違いを見せつけられた日本は、律令制に基づいた中央集権国家の建設を急いだ。

天皇家でも、天智・天武の頃に家族システムが核家族から直系家族に代わっていった。当時の歴代天皇の系図を示してその移り変わりを詳細に説明していかれた。
(レポート:浅見 実)

第334回平成30年8月月例会

研究発表

演題①  「日本の徐福伝承と神奈川の役割 ~徐福は倭国(古代日本)に何をもたらしたのか~」
講師: 前田豊氏
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演題②  「東海道を歩く(5)」
講師: 持田信廣氏

月例会レポート

★第334回例会を8月19日(日)に、藤沢市湘南台公民館で開催した。当日の参加者は25名。今年の夏はとにかく暑い。けれども、歴史好きのメンバーは、暑さに関係なく集まってきた。新メンバーとして石川重弘氏のご参加があった。

★最初の講演は、先古代史の会の会長であり、神奈川徐福研究会の理事でもある前田豊氏が、「日本の徐福伝承と神奈川の役割~徐福は倭国(日本)に何をもたらしたのか~」についてお話をされた。穏やかに、分かりやすく、前田古代史の研究成果を発表されていかれた。

今から、二千数百年前の紀元前3世紀頃の弥生時代の初期に、徐福は秦の始皇帝の命で、童男童女数千人を連れて、数十隻の大船団で、東海の三神山に不死の仙薬を求めて、日本に来たと言われている。徐福の目指したところは、何処にあったのか諸説があり特定することは難しい。しかしながら、伝説の存在する地が日本には数十か所ある。

そして、その存在の多さから言っても徐福が、日本に渡来をしてきたことは間違いはあるまい。隣国中国にも所謂『徐福村』が存在しており、歴史的にも徐福は歴史的人物であること確認されており、近時中国、韓国、日本において徐福研究が盛んになってきた。

日本の徐福の渡来地或いは存在したという伝説地は、主として関東以西にあり、九州に特に多い。北は青森県にも存在する。現在我々が歴史勉強を行っている、藤沢市にもその遺跡がある。当地の妙善寺には、福岡家墓碑に徐福の子孫である旨の記載がある。

すなわち、福岡家は秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に住んだのではないだろうかと。なんとなく親近感を覚えた。これは、日本に徐福が渡来してから、分隊となり、各地に拡散していったのであろう。

そのうち、一部の者が藤沢にもやってきた。さらには徐福は日本の各地で大神として祀られている。当時の進んだ大陸の文化・技術を持って来て、日本の弥生時代のインフラ整備の担い手でもあったのではなかろうか思えた。

日本の歴史は古事記、日本書記から始まっている。神話の神々は、人間の歴史活動を表現していることが多いと氏は述べられた。
 
★ 次の講演は、歴史散策旅行のベテランである持田信廣氏により「東海道を歩く(5)・日坂から新居宿まで」であった。
氏は、歴史を辿る旅が大好きで、特に東海道は数回以上も往来しており、そこに存在する過去の出来事についての習得・集積した知識の多さは、おそらくは誰にもひけをとらないだろう。

とにかく、自分に比べて詳しすぎる。当会でも、例年一回ずつ、江戸日本橋より数宿について興味あるお話をご披露されている。今回はその5回目で、昨年からの続きで遠州『日坂宿』からスタートをした。日坂宿は、我々にはあまりなじみがないし、それほど大きくはないが、見るべきものがいくつもある。

自分も20年以上前にここを訪れたことがあるが、子夜の中山、西行法師の歌碑、悲しいストーリーがある夜泣石等を懐かしく思い出された。ここでの名物であった水飴売りの100才のおばあさんと一緒に写った写真もあるが、多分今は存命ではあるまい。

『掛川宿』では、地元の人に教えてもらった、JR駅近くの洋菓子店で購入したロールケーキに感激。あまりに美味かったので、その後何回かわざわざここに車で買いに行ったほどだ。再建された木造の山内一豊ゆかりの地の掛川城の天守閣は見事だった。そして『袋井宿』は、江戸から数えても、京都から数えても27番目の宿場である。

東海道のど真ん中だとか。ここには、町のあちこちに彫刻像が多く見られた。さらに『見附宿』。ここでも、町はずれにある和菓子店のきんつばが美味すぎた。これも、今でも時々購入に行っている。旅はうまいもの巡りが付き物であろう。古い東海道筋には名店が多い。

制限時間一杯を使い、氏は東海道の魅力を淡々と述べていかれた。到底自分の歩いた知識では及ばない知らないことが多かった。来年は、浜松辺りからさらに街道筋を西へと向かう。
(レポート:浅見 実)

第333回平成30年7月月例会

研究発表

演題① 「神功皇后実在論」
講師: 村島秀次氏 (来演:横浜歴史研究会理事)

演題② 「ルーツのヒント 日本の苗字」
講師: 新藤正則氏
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月例会レポート

★第333回例会を7月15日(日)に、藤沢市民会館で開催した。当日の参加者は29名、嬉しいことに今月も、先月に続いて新入会員のご参加があった。それにしても今年の夏はとにかく暑い。連日の気温は30度をはるかに超えている。でも、熱心な歴史マニアには、暑さはあまり関係がないようである。出席率も高い。

★最初の講演は、数年前に歴研より『もうひとつの古代史』を出版された横浜歴史研究会の理事である村島秀次氏による特別講演で「神功皇后実在論」についてであった。神功皇后は、仲哀天皇の皇后であり、熊襲征服や新羅への攻略を行ったとされている。

現在の通説ではその存在は疑問視されて、伝説、伝承上の人物となっている。確かに、自分の中学生、高校生のときの学校の授業では多分、その史実については習わなかったであろう。しかしながら、第二次世界大戦以前には、皇后の実在は肯定されていたろう。

明治時代に発行された高額紙幣、高額郵便切手にはその肖像画までが書かれているくらいだ。なぜだか、その肖像画はお雇い外国人であるイタリア人画家のキヨッソネ氏が描いたとかされている。美人で気品がある女性像である。収集家にとって是非とも入手したい紙幣、切手であるとか。

氏は、述べられた。総合的に判断すると、神功皇后は実在したと考えるのが合理的であろう。すなわち、その根拠として、高句麗の広開王碑の碑文の記録、『三国史記』の記述、皇后の系譜、九州地方から畿内にかけて伝承が多いことなどからである。

さらには、大阪にある住吉大社の存在。奈良市にある五社神(ごさし)古墳は、皇后の御陵であろうとされる、等々である。古代史はロマンと夢、憧れの分野である。ひとつひとつ史実に基づいた想像を考え出していくと楽しい。

それには、氏が言われるように文献、例えば『記紀』を含めて、あるいは信頼性の観点から使用されていない『古語拾遺』『先代旧事本紀』、神社継承等を、考古学を含めた周辺学問とすり合わせて正確な古代史を作り上げていくべきであろう。

★次の講演は新藤正則氏で「ルーツのヒント・日本の苗字」についてであった。氏は奈良市のご出身で、現役時代にはケミストであった。ご退職後、10数年の歳月をかけて、苗字のご研究に没頭され、数年とちょっと前に、70才になったときに、その記念として、『苗字辞典』を刊行された。大作である。

また、氏は、藤沢市生涯学習人材バンクの講師でもあられる。ファンも多いと聞いている。趣味としてマジック、詩吟等があり、来年の当会の新年会では、ぜひともご披露をされることを心待ちにしている。旅行もご趣味で、東海道をご夫人と歩き通して、各宿場での表札を見るのが大きな楽しみであったそうだ。お二人の和やかな様子が窺える。

日本には苗字数は、10万とも、あるいは漢字の読み方の変化を加えると30万とも言われている。苗字の多くは地形・地名、古代からの氏族名、職業名、信仰等々に由来するものが多い。特に稲作田を示す『田』のつく苗字が一番多い。

生活圏にある山・野・木・松のついた苗字も多い。藤原族に由来する藤も多い。646年の大化の改新時には戸籍の作成が定められた。唐の均田法下の税制を真似て日本でも、同様な制度を制定した。租調庸を負担する民の正確な数を把握するためにも絶対に必要であったからだ。

最後に、氏は神奈川歴史研究会全員のルーツ(由来と分布)について、調べられた結果を報告された。自分の苗字である『浅見』姓は日本全国のうちに埼玉県で40パーセント占めていると説明されたが、まさに的を射ている。埼玉県の父親方の生誕地に行くと、浅見という家が多い。
(レポート:浅見 実)

第332回平成30年6月月例会

研究発表

演題① 「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」
講師: 藤田文康氏

演題② 「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と嵯峨天皇」
講師: 里見絢子氏

月例会レポート

★第332回例会を6月17日(日)に、藤沢市市民会館で開催した。当日の参加者は34名、うち3名が新入会員であった。今回、高校生の新入会員も参加されて、これで高校生の当会での在籍者は2名となった。いよいよ当会の若返りが進んでいく感じがする。

★最初の講演は、中国の歴史と文化を学ぶ会の会員でもある藤田文康氏で「中国大陸に於ける民族の変遷・興亡」であった。壮大なテーマであった。氏の資料の作成も徹底している。全体の中国史年表を各ページの冒頭に一表として纏めて、その下にご自身で調べ上げられた歴史上のコメントを要領よく簡潔に記載されている。

具体的な例をあげると、『秦の始皇帝』が天下を統一した頃とか、唐が衰退に向かった『安史の乱』等の当時の情勢がこの年表で、時代を辿ることができる。唐の時代は3百年近く続いたが、それに反して、その前の隋の時代は40年弱しか続かなかった。

長い歴史がある中国の変化の様子が、これも主要な出来事が数ページのレジメに要約されている。我々が、日本史を学ぶときに 周辺国、特に隣国である中国の歴史の理解・対比が絶対に必要である。日本の古代史、鎌倉時代の元寇、戦国時代の兵法、江戸時代の儒学思想等々へ大きな影響を与えた。

氏は述べられた。中国の本当の起源は秦の始皇帝の統一時からである。中国にはそれまで異民族が混血して住んでいた。さらには、モンゴルのチンギス・ハーンの帝国がユーラシア大陸の東西を結び付けたことが、世界史の始まりであろうと。氏の説明は年表のみならず、地図、写真等を駆使して雄大な国・中国を時代を越えてオールラウンドに説明をされた。

★次のスピーチは、当会の理事でもある里見絢子さんの「阿弖流為(アテルイ)と桓武天皇と蘇我天皇」についてであった。自分の学生時代、といっても60年以上も前であるが『阿弖流為』という人物の名前については聞いたことがなかった。

この名前が中学校の社会科の教科書に登場したのは、やっと今から20年前だそうである。それまで知る人はほとんどいなかったであろう。手元にある広辞苑にですら第五版までには、『阿弖流為』の項目はなかった。やっと最近改訂された第六版になりはじめて登場した。

『阿弖流為』は、平安時代の初期に岩手県の北上川流域を支配した蝦夷の族長である。これ以前の奈良時代には、東北地方の北半分が、朝廷の支配下に組み込まれていなかった。蝦夷の地であった。豊かな山や川、愛らしい小鳥や花に恵まれて、この地は蝦夷にとって、楽園であったろう。

そこに平穏に暮らしていた。しかしながら、支配地域拡大を目指す国家が、ここに入り込んできた。あるいは、天平年間に、宮城県湧谷町に於いて、我が国ではじめて発掘された金が目当てでもあったかもしれない。そこで朝廷と蝦夷たちとの争いが始まった。

しかしながら強大な朝廷軍の前に蝦夷たちは散っていった。『阿弖流為』は坂上田村麻呂に降伏して河内の国に連れていかれたが、そこで斬殺された。彼の残し た東北人の誇りはその後も消えることはなかった。
(レポート:浅見 実)

第331回平成30年4月月例会

研究発表

演題① 「樋口一葉について」
講師: 浅見実氏
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演題② 「和泉式部とその娘小式部内侍」
講師: 津久井勤氏
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月例会レポート

★第331回例会を4月15日(日)に藤沢市六会公民館で開催した。当日の参加者は23名であった。いつもよりやや少なかったが、行楽日和の天候もあってやむを得ないであろう。

★最初の講演は、浅見実(私)でテーマは「樋口一葉」についてであった。わが国では女性による、豊かな情操や繊細な感受性を生かした主観的、抒情的な文学作品は多く、これまで発表されている。

そして、平安時代の10世紀から12世紀にかけて、遣唐使廃止の頃より日本独自の文化を創造するようになった。藤原氏の摂関政治を中心とする貴族社会の背景のもとで展開された国風文化である。

そこで、紫式部、清少納言、和泉式部等の後記の三才女の作家が輩出した。しかしながら、その後、所謂中学校の歴史教科書で出てくるような、有力な女性の作家は、明治の時代までほとんど見当たらない。明治初年に樋口一葉が出るまでは。

一葉は、幼少の頃から、万葉集、源氏物語、栄花物語、平家物語、日本外史等の古典文学を読み込んでいた。しかも、学校教育は小学校の4年程度しか授業は受けていないのに。現在のように、古典文学の注釈書はほとんどなく、原文からである。

かなりの意欲と才能があったであろう。そこから、明治維新期の混乱の時代に、家父長制度のもとで、遊里のような特殊な世界を書き続けた。短い25年弱の生涯で。

★2番目は、津久井勤氏により「和泉式部とその娘小式部内侍」についてであった。今から約1千年前の過去にさかのぼる。摂関時代の女流文芸、そこでの一条天皇の後宮文壇、互いに競合しあい、特に王朝三才女の活躍は目を見張るようなものがあった。

最も華やかな時代を生き抜いた。清紫が宮仕え意識をしていたのに対して、一方、和泉式部の軸は恋愛であり、和歌であったとされる。その生涯において、ふたりの受領(諸国の長官)との結婚、ふたりの親王との交際の間にも、いろいろな人々との自由奔放な交流を通じて、和歌を詠んでいる。

激しい恋、多くの恋愛経験の持ち主で情熱的な歌で知られている。
式部の作であろうとされる『和泉式部日記』は、冷泉天皇第4皇子・敦道(あつみち)親王との10か月の愛情の進展の経過を歌日記風に記したものである。私家集から日記文学への発展の流れを示す作品であるとされる。

小式部は、彼女が20才前後で最初に結婚をした橘道貞との間の子でであった。しかながら、小式部は30才に満たないで亡くなった。母として、娘の死は大きな悲しみであり、哀傷歌を残している。

先生の講演は、レジメで10ページにわたり、内容は豊富であり、引用された短歌の数も多く、説明も簡潔明瞭である。式部には勅撰和歌集に取り上げられた歌も多く収録されており、この時代を研究されている者には、論文を構築するのに格好のヒント・資料となるであろう。
(レポート:浅見 実)

第330回平成30年3月月例会

研究発表

演題① 「一橋冶済と徳川御三卿」
講師: 小林啓介氏

演題② 「宇和島藩祖秀宗 奮闘の生涯」
講師: 槙良生氏
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月例会レポート

★第330回例会を3月18日(日)に藤沢市民会館・教養室で開催した。当日の参加者は、他会よりの応援聴講者を含めて34名と盛況であった。いつもより多く、そのためか、講師の2名も大いに張り切っていたような感があった。話しごたえがあったのであろう。

★最初の講演は、当会でのスピーチデビューである若手歴史マニアの小林啓介氏で、演題は「一橋治済(はるさだ)と徳川御三卿について」であった。御三卿とは、吉宗が取り立てて2男の宗武を田安家に、4男の宗尹(むねただ)を一橋家に別家としたことから始まる。

さらに、家重が次男の家好を清水家に家を興した。宗家に嫡子がない時にそれを継承する資格を有した。一橋家は御三卿のひとつである。藩は作らず、大きな領地も持たなかったが、その代わりに幕府からそれぞれ10万石をあたえられていた。

しかしながら1843年刊行の『天保大江戸大絵図』写しを見て驚いた。この三家は江戸城の北側に、広大な敷地を有し、お互いにほぼ隣接している。親族間の交流もかなりあったことだろうと勝手に思われた。『一橋』の名前の由来は家康が入府時に、そこの掘割に丸木の一本橋が架けられていたということからきたものであるとされる。

確かに、徳川幕府は長期にわたり約270年も続いた。堅固な政治上・体制上の仕組みがあったからであろうが。しかしながら、18世紀の後半になると、その堅固さに脆さが顕在してきた。
幕府の崩壊の引き金となったのは、内部の人間であり、8代将軍吉宗の孫であり、11代家斉の父でもある一橋治済(1751-1827)、その人であると、氏は種々事例を挙げて説明をされた。
松平定信の田沼意次追い落とし工作に加担し、それが成功したら、定信の失脚を断行したり陰謀家であった。自分の息子・家斉を将軍につけた。これには財政浪費も大なるものがあったろう。

治済がこの世を去り、約50年後に幕府は実際に終焉の時を迎えるのである。薩長による明治維新はおまけであると断言されたが、要因多々あろうが、きっかけになったことには間違いがなかろう。
テーマは多岐にわたり難解なところもあるが分かりやすく解説された。

★2番目は、当会槇良生事務局長により「宇和島藩祖秀宗・奮闘の生涯について」の講演であった。
宇和島と聞くと、昨年歌われた水森かおりのヒットソング『宇和島別れ波』の演歌を思い浮かべる。『天に届くか段々畑・・・・愛媛宇和島波音哀しい』と。その程度の認識しか、かってはなかった。

宇和島市を含む愛媛県の西海岸一帯は、足摺宇和海国立公園に指定されており、リアス式海岸で島々が点在しており、変化に富んだ海岸景色を呈している風光明媚なところだ。市の人口は、現在約77,000人で10数年前に比較をして20パーセント程度減少している。過疎化は止まらない。空き家も増えている。

かって自分が北海道で何回か体験したことがあるが、そこの空き家を利用した短期移住体験も、安価に(月間数万円くらいで)、宇和島市のホームページによると、ここでもできるみたいだ。
確かに地理的に見て首都圏あるいは阪神地区からみてかなり遠いが、自然が豊かで素晴らしいであろう。産業面でも、水産業、柑橘類の生産等が主体みたいだ。そこで、ローカルフードを味わいながら、ゆっくり歴史を勉強しても良い。

宇和島藩は、仙台藩主伊達政宗の長男である秀宗が宇和島地方に10万石を受け、1614年に在封して、250年間統治をした地である。仙台藩からは独立した国持大名格ではなく、支藩とみられたりしてぎくしゃくした関係が長く続いた。
領地は荒廃をしており、藩草創期は苦難の連続であった。また、筆頭家老及びその家族殺害事件に続く一連の不幸な出来事により和霊騒動、別家を起こすことによる宇和島の血筋を守ろうとしての生産性の少ない領土での吉田分知等々を乗り越えて秀宗は藩維持に腐心したであろう。

氏は、資料を丹念に読み込み、簡潔にポイントを掴みよく纏められている。明治維新期に活躍をした伊達宗城(むねなり)は、四賢侯のひとりで公武合体派として広く知られているが、藩祖である宗秀の奮闘もそれに劣らず優れていた。
(レポート:浅見 実)

第329回平成30年2月月例会

研究発表

演題① 「徳富蘇峰終戦後日記 (頑蘇夢物語)」
講師: 横山忠弘氏

演題② 「勝海舟の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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月例会レポート

★第329回月例会は、2月18日に藤沢市民会館で開催した。この会場を利用するのは、当会では始めてのことである。藤沢駅に近く、周辺には繁華街やデパート等の商業施設も多くあるし便利も良い。

知名度も高く、大きなイベントもいろいろとここで行われる。これからはここでも当会の会合の場所として時には選んでいきたい。今回の参加者は25名。まずまずの人数であった。

★今回のスピーチは、まず初めに、横山忠弘当会顧問より、テーマは「徳富蘇峰戦後日記(頑蘇夢物語)」と題して行われた。氏の歴史研究のキャリアは長い。一時は、月刊誌「歴史研究」の常連投稿者であり、独創的な論文を数多く発表されてきた。

当会以外の会の会報でも20年以上も前から、数々の研究成果を積極的に投稿されてきた。それらを纏めて『横山忠弘著作集』全2巻を出版されている。読み応えのある内容である。

徳富蘇峰は熊本生まれのジャーナリスト、歴史家である。同志社で学んだ。氏も、だいぶ後輩にはあたるが、同じ同志社のご出身である。

スピーチは、蘇峰が百年後の日本のために遺したと言われる『蘇峰夢物語』について述べられた。NHKの大河ドラマ『八重のさくら』のことも懐かしく思い出した。
その後、『国民新聞』を発行して、平民主義を提唱した。

帝国主義の鼓舞者でもあったらしい。二宮町に記念館がある。自分は昨年の今頃ここを車で訪ねたことがあるが、資料も整備されており、展示は素晴らしい。氏のライフワークである『近世日本国民史』(100巻)も手に取って自由に読める。

政財界で活躍した著名人の手紙、書などの展示も多い。平和主義者であったのではないだろうかとも感じた。ちょうど、そこの庭園では梅の花が満開であった。華やかな花ではないが、清楚に咲いていた。今頃の季節である。

★次の講演は、渡邊幸太郎理事により「勝海舟の生涯・江戸の町を戦禍から救った男」についてであった。明治維新の時期に大きな役割を成し遂げた人物である。聞く人をしてどんどん引き込む、相変わらずの渡邊節を堪能できた。

氏の発表は、意表をつくことがいくつもあるが、異説ではない。通説に、冗談を交えて新しい事柄を追加されている。かなりの読書量がないと、ここまでは説明できないであろう。

安政年間、日米修好通商条約の批准書交換のために初めて太平洋の横断を果たした『咸臨丸』は、実はアメリカ軍艦のポーハタン号に護衛という名目での随行艦であったとか。

そして勝は艦長ではなく、教授方取り扱いという立場であった。勝が親交があった江戸火消しの棟梁である新門辰五郎は『を組』であった。『め組』ではない。確かに時代も、『め組』は暴れん坊将軍・吉宗の時代の火消しの新門辰五郎のことで、想像上の別人である。混乱して、誤り解釈をしていることが多分にある。

氏のスピーチは、勝の生涯を、そして広い意味での家族関係を含めて、興味深く話していかれた。勝は、西郷隆盛と会談して江戸の町の戦禍から救った。大なる功績である。当時は、江戸には150万人の住民が生活をしていた。大田区の洗足池には、勝海舟夫妻の墓と一緒に西郷隆盛の碑があるのを思い出した。
(レポート:浅見実)

新年特別講演会

研究発表

演題① 「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」
講師: 竹村紘一会長
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月21日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。昨年に引き続いて新しい会場であり、気分も新鮮で当会設立後35年の節目の年がスタートした。参加者は、昨年より多かった。

他会からの聴講者を含めて総計36名。うち、当会への新規で入会された会員も数名おられて、嬉しい限りである。熱心な歴史好きの高校生の方の参加もあった。将来の見通しも明るい。インターネット効果も徐々に浸透してきている。さらには、歴史研究会本部より吉成勇主幹もご出席をされて、励ましのお言葉を述べられた。そのうえ、有り難く、お祝い金まで頂いた。

★総会では、あらかじめ事務局作成の議事次第はたんたんと進められていった。役員層も昨年度から大幅に若返っており、竹村会長、槇事務局長のスピーチでも、今年の35年周年での記念行事を盛り上げていこうという意欲が大きく感じられた。いつもと違う。いろいろな企画も立案中であるとか。楽しみが多い。

★恒例の新年特別講演では、竹村会長により「参戦武将の明暗を分けた長久手合戦」のテーマでお話をされた。結論として、秀吉軍は一部の地域の合戦では敗れたが、敵地での戦いであり、少しの領土も失っておらず、むしろ拡大をしている。家康側は敗北者である、政治的な意味合いで後に過大に評価したのであろうと述べられた。
子供の頃に、自分も、吉川英治著の「新書太閤記」の本を、わくわくしながら読んだ記憶がある。とにかく最初は面白かった。10巻以上はあったと思う。しかしながら、最後の小牧・長久手の合戦のあたりの部分になってくると、登場人物は多いし、場面も頻繁に変わるので、ストーリーの展開が分からなくなり、途中で読むのを止めてしまった。根気がなかった。でも今回、会長がお話をされ、まとめられた合戦のあらすじは実に分かりやすかった。

まったく関係はないが、「小牧」という地名は、東名高速道路等を走るとよく見かける。自動車のナンバープレートで、「尾張小牧」ナンバーがあるからだ。でも、「長久手」というナンバーはない。長久手市の車は「名古屋」ナンバーに含まれているとか。両方の町は僅か、10キロあまりしか離れていないので「小牧長久手」ナンバーがあっても良かったのに。

★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークの一階レストランを借り切って賑やかに行われた。総勢31名の出席者であった。例年に比較して料理もアルコールもふんだんにあり、大いに盛り上がった。

しばらく歓談のあとに、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、昨年と同じように、意欲的にそして得意気に述べていかれた。一人2分の持ち時間を大幅に超過しても、意に介することなく、とめどなく歴史上の新発見の自説を延々と話される人もいた。しかしながら、カラオケがなかったのがさびしいと感じた人もいたようだったが。

なお。今年の歴史散歩は春には、会長のご案内で「世田谷・豪徳寺、松陰神社」を、そして秋には、旅と歴史探訪のベテランである持田信廣氏の「鎌倉駅から材木座海岸方面へ」のハイキングを計画している。いずれも、楽しみに期待をしている。今年の会員、全員の健康を祈っている。
(浅見実)

第328回平成29年12月月例会

研究発表

演題① 「中世の津軽安藤氏と蝦夷島における和人地の形成」
講師: 大岩泰氏
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演題② 「歴史研究の履歴」
講師: 瀬戸淳氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第328回月例会は、12月17日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。当日は寒かった。この冬一番の寒さだったかもしれない。参加者は、他のグループからの応援聴講者もあり35名。これだけ集まると広い会場も、さすがに狭く感じる。活気に満ちていた。

★最初は、ベテランの歴史研究者であるが、当会デビュー講演の大岩泰氏で「中世の津軽安藤氏と蝦夷島における和人地の形成」であった。氏は、九州・大分県のご出身で、サラリーマン時代は札幌に4年間ほど、ご勤務をされていたそうである。道産子ではないが北海道には詳しい。アイヌの歴史、和人の進出について、平易に概略を説明していかれた。

北海道は、もともとアイヌの居住地であったが、鎌倉時代以降和人の移住者が漸増していった。

自分も、北海道のアイヌについては、大いに関心を持っていた。鹿部に暫く滞在をしていた時に、車で江差地方を旅行したことがある。帰りに上ノ国の夷王山からの日本海を眺めたくなり、そこに立ち寄ってみた。風光明媚な、大きく展望が開けた素晴らしいところであった。

上ノ国には、北海道に和人が最初に定住したところで、勝山舘跡が、綺麗に整備されて保存されてある。郷土館のあったそこには、この地方ではアイヌと和人が、争うだけでなく、一緒に住んでいたようであると説明を受けた。

最初のアイヌ対和人の生活は、温厚な関係であったと自分には感じられた。そこで、それならばと、アイヌの歴史を調べ始めた。文字を持たなかったので、アイヌ側の資料は少ないようだ 。ほとんどが松前藩とか和人の記録による。しかしながら、コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いのいずれを見ても、アイヌは制圧されていったようだ。その原因は和人側にあるようだ。どうして、もっと、平和的に融合できなかったのであろうか。

★次の講演は、毎年、当会や、その他の学会で研究発表をしている瀬戸淳氏で今回は「歴史研究の履歴」について述べられた。あるいはこれは氏のこれまで発表された研究論文の総まとめであろうか。

とにかく、氏は数多くの論文をまとめ上げられている。大半は佐賀県関連のものが多い。熱烈なる佐賀県・肥後サポーターであり、プライド・矜持を持っておられる。幕末には薩長土肥の雄藩が、主に明治日本を動かしたが、優れた大砲製造の技術を持っており、戊辰戦争で大きな働きをした佐賀藩の行動があまりに評価されないことに対して義憤を感じられていたことも、佐賀についての研究を、意欲的にされたこともあるかもしれない。

佐賀は、江戸時代に長崎出島に近くて、ヨーロッパの先進的な文化が 、地政学的に他藩に比べて一番取りやすいところに存在した。幕末の藩主である名君・鍋島直正が維新の直後の明治4年に惜しくも死去してしまったことも、影響力のある人物を早く失ったこともあるかもしれないと、自分には思えた。

氏は、歴史学の研究についてもユニークな鋭い感性をお持ちである。10年近く前に当会で世界史を見てみるに民族の力は西へ、宗教の力は東へと向かうと説明をされた。精神性の高い宗教は、太陽に向かって東へと進み、民族の力は太陽のエネルギーを背に受けて西に進むと、それは地球の自転と関係があろうとか示唆された。

さらには、歴史は繰り返すと、氏なりの学説を披露された。ダイナリズムを解明するために、歴史的知見から仮説を立て、思考、観察により検証して、法則性を見つけ出し、新しい理論へと導くという。参考にできること、そして得るところ大であった。
(浅見実)

第327回平成29年11月月例会

研究発表

演題① 「江戸時代の道を求めて (四国遍路)」
講師: 加藤岩男氏
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演題② 「関東の争乱と小弓公方足利義明」
講師: 橋本欣之介氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第327回月例会は、11月19日(日)藤沢市六会公民館で開催をした。ここの会場は新設間もなく設備も整っているし、小田急線六会日大前駅からも近い。坂を上がらなくてもよい。なにしろきれいである。参加者は24名。いつもよりも多少参加メンバーは少ないかもしれない。でも、みんな歴史大好きなものばかりである。和気藹々とした雰囲気で始まった。

★最初の講演は、加藤岩男氏で「江戸時代の道を求めて(四国遍路)」編であった。氏は、主に、江戸期の九州地方路、中国地方路等我が国の今は廃れた古い街道筋をあちこちと何日もかけて、まわられておられる。それも昔に忠実に古いルートを辿り、クマザサの茂るなか、虫にさされながら歩まれている。本当のマニアであろう。その熱意には敬服いたしたい。

今回訪れたのは、白衣を着用して八十八か所をまわる、弘法大師ゆかりの四国遍路である。全行程を走破するには通して四十日ほどかかる。弘法大師というのは諡号で、我が国の真言宗の開祖である空海のことである。

とにかく、この人物は、とてつもなく大人物であった。空海の創立した和歌山県にある高野山金剛峯寺を自分は30年も前に行ったことがあるが、その荘厳さとか規模の大きさ、広さには圧倒された。とても一日では歩いてまわりきれなかった。

四国八十八か所の霊場の殆どは真言宗の寺院である。さらには西国三十三か所の寺院も殆どが真言宗系である。空海は、教育面でも熱心で綜芸種智院を設立したり、また能書家であり、三筆の一人であった。平安時代の初期には優れた、影響力のある人物がいたと思う。

加藤氏は、今回は阿波の国から土佐までの霊場についての体験談をDⅤDに纏められてプロジェクターを使用して発表された。確かに、旅行記は動画を使用すると迫力がある。臨場感がある。舗装された道路を避けて旧道である山道を行く路程に苦労が多かったらしい。その分、それぞれの行き先で新しい発見があり、知識を深めていったことであろう。それにも増して、先々での人のやさしさ親切さに感謝をしておられた。

最後に、有り難く、そのDVDを全員に配布されそれぞれ頂いた。もし、自分が行けたら参考にしたい。

★次の講演は、橋本欣之介理事により「関東の争乱と小弓公方足利義明」についてであった。

室町時代に起こったこの争乱の時代は長かった。15世紀半ばの享徳の乱から、実に136年間にわたるという。関東地方では激しい戦いが数多く勃発した。絶えず、戦いが頻発したからといって、継続して、いつも戦場になっていたわけではないが、ここに住む人々にとって心が休まることはなかったであろう。もし、自分が、この時代にそこで生活をしていたらどんなに恐ろしかったか。

理事は、このテーマで、時代を追って通史的に発表されていかれた。登場人物もとにかく多い。武家の名前は似たような名前が多く理解をするのに、率直に言って、難しい。それを20ページ以上のレジメにボリュウームは多 いが項目を区切り、分かりやすくまとめあげられらた。太田道灌とか河越夜戦とかなじみのある用語もいくつか出てきたのでほっとした。

室町幕府(北朝)は60年程かけて南北朝を統一したものの、荘園の侵略を始めたり、権限の拡大が進行した強力な大名に成長した守護に悩ませられたという。中央政府としても、鎌倉府がある関東地方の内乱に関与するなど到底できないことであった。鎌倉幕府、江戸幕府に比較しても基盤は弱かったと言えるかもしれない。

さらには、応仁・文明の乱以降、在地武士層の領国が増大して、幕府の権威は失墜して、群雄が割拠する戦国時代に、世は移り進んでいった。
掲題にある小弓方足利義明は国府台で戦死をしたが、その一族・子孫は、秀吉の庇護もあり、その後、代々名家として幕末まで存続したという。
(浅見実)

第326回平成29年10月月例会

研究発表

演題① 「平城太上天皇の変 (薬子の変) と唐に渡った高岳親王」
講師: 小林道子氏
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演題② 「寛政の三奇人」
講師: 竹村紘一氏
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月例会レポート

★10月15日(日)藤沢市善行公民館で、第326回月例会を開催した。参加者40名。いつもより多い、盛会であった。活気に満ちていた。というのは、横浜歴史研究会の加藤会長等をはじめてとして、江戸の会、古代史懇話会等の他会の聴講者が12名も参加された。友好団体の応援は有り難いことである。それ故に、講師も大いに張り切っていた。

★最初の講演は、小林道子理事による「平城太上天皇の変(薬子の変)と唐に渡った高岳親王」であった。

とにかくよく調べられている。この「変」については、自分の手元の中学生の時の歴史の教科書を読み直してみたが、多分まったく記載がない。高校時代の教科書でも、記載はあるがそれ程詳しくない。マイナーな事件であったとするには、自分だけの誤りであろう。

そこを講師はよく調べられておられる。各種の資料を充分に読み込み、推考されて、丁寧に自説を構築しており、歴史の勉強のなかに没頭して、堪能しているのではないだろうか。貴重なレジメであろう。歴史を勉強するのに得るところ大であった。

この事件が起こったのは、平安時代の初めの9世紀初頭であった。平安京に都を定めて間もない頃で、まだインフラの整備も充分でなく、建設途中で、まわりを取り囲む一般市民層、商人等も多くはなかった。壮大な計画のもとに造営された直前の長岡京は、たたりの事件等が次々起こりあえなく中止された。

そのようなときに平安京を都と定めたのである。新都普請や蝦夷討伐により国家財政も逼迫していた。政権も安定していなかった。ここに都を完成させようとしていた桓武天皇の息子である嵯峨天皇と、平城京へのあこがれを持つ同じ息子の平城天皇との兄弟争いが、桓武天皇の死後、藤原氏等をも含めての対立となったものであろうか。

同じ血を分けた兄弟争いは、自分には納得できないが。相和すべきであろう。

★次の講演は、竹村紘一会長による「寛政の三奇人」についてであった。久しぶりに奥行きが深いが、軽妙洒脱の竹村節の講談を傾聴できた。

自分が最初に思い出すのは、三奇人のひとり高山彦九郎のことである。平成18年に東海道53次を13年間にわたって全行程を歩き通したときに、京都の三条大橋で、その像が出迎えてくれた。はっきり言ってどんな人物か、その時には、よく知らなかった。後に、長期間、滞在したことがある近くの群馬県新田郡の出身であることを知り親近感を覚えた。

残りの二人、林子平と蒲生君平については、高校生時代に受験参考書でその名前を暗記をしたにすぎない。

ところで、寛政と言うのは激動の時代であった。その数年前の天明の大飢饉、一揆、打ちこわし等で各地は混乱をしていた。松平定信が行った各種の改革もあまり効果がなかったらしい。

巷では風俗も乱れ山東京伝の黄表紙(大人向けの読み物)が受け入れられていた。町人文化も大坂から江戸へのシフトしてきた。町民の不平不満も著しかった。表面的な言論の自由はあったらしいが、おおっぴらに活字にして表現はできなかった。

寛政異学の禁による学問の統制により、蘭学は、風俗を害するものとして、禁止された。朱子学のみが正学として認められた。今は忘れられた学問であるが、朱子学を簡単な言葉で説明をしてみると、人々を妥協を許さぬ方向へ駆り立てる思想で、幕藩体制擁護のための思想であるとか。

★会場を移しての2次会の参加者は21名。お互いにわいわい自説を強調して大いに盛り上がった。アルコールもどんどん進んだことは言うまでもない。      (浅見実)

第325回平成29年9月月例会

研究発表

演題① 「家族システムの変遷(1) 縄文時代のモラルと家族システム」
講師: 大森健児氏
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演題② 「古代出雲の謎とその正体 (国引き神話)」
講師: 田中真生雄氏
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月例会レポート

月例会レポート
★9月17日(日)藤沢市湘南台公民館で、第325回月例会を開催した。参加者19名。当日は、ちょうど記録的に大きな台風が、日本列島を縦断しており、参加者がどのくらい参集されるのか心配していたが、降雨の中予想以上に集まったメンバーが多かった。

講師お二人のスピーチ内容は、これまでになく高レベルな展開であったと言えるかもない。あたかも大学で、日本文明誕生の頃についての特殊講義を受けているようであった。縄文時代、および神話の時代の物語である。

★最初の講演は、大森健児先生の「家族システムの変遷(1)縄文時代のモラルと家族システム」についてであった。

先生は法政大学名誉教授であり、工学博士でコンピューターについてはご専門であり、数多くの関連論文も発表されている。歴史については、研究をはじめて、それほど時期が経っていないとのことであるが、理論構成、推考・引用文献の多さ等からみるとかなりのキャリアがあると思われる。

自分も10数年前に当会で、藤沢市域の人口の変遷について、各時代ごとに纏めてみたことがある。遺跡の数と規模の推移のみによって、縄文時代は、当地の人口が約400人、平安時代は約4,000人くらい居住していたと勝手に発表したことがあるが、根拠の乏しい、不正確の極みであった。

そこにいくと先生は、掲題について縄文時代の事象について、文献が存在しない時代を、周辺学問である『考古学』『進化人類学』『社会学』『経済学』等からの理論展開を行っており、学問の幅の広さ、スケールの大きさには、自分は足元にも及ばないと痛感した。視野を広くしないといけないと、反省をしている。

そして、縄文時代の家族システムは、母方居住の、統合あるいは一時同居の、核家族であったと結論付けられた。

★次の講演は、田中真生雄先生の「古代出雲の謎とその正体・国引き神話」についてであった。

先生は、月刊誌『歴史研究』等の雑誌に、古代史について投稿をされている常連の研究者である。今回の発表は、文献(今回は、8世紀の前半に成した出雲風土記について)をじっくり、一字一句細部にわたり考証していく方法をとっておられるように感じられた。

自分は懐かしかった、昭和10年代の後半から20年代にかけての小学校唱歌であった『国引き』の歌を思い出した。『くにこい、くにこい、えんやらや、神様綱引き・・・・・』のメロディーを、つい口ずさんでしまうほどであった。本のなかに出てくる綱引きをしている挿絵も、かなり鮮明にあたまのなかに蘇ってきた。

神話によると、出雲の神が、対岸の新羅の地などに綱を打ちかけて、『国来、国来』といって引き寄せて、これを出雲国に結びつけたという国土拡張の伝説である。先生は、謎の多い疑問点の解法が、他の謎の解決の参考になり、貢献できるだろうと結論付けられた。

そして出雲について知ることは、日本の歴史と文化とを知ることだと。確かに、荒神谷遺跡から弥生時代の銅剣358本が出土したし、北九州、ヤマト以外にもここには大きな文化があったと言われる。
(レポート:浅見実)

第324回平成29年8月月例会

研究発表

演題① 「大塩平八郎の乱」
講師: 島口建次氏

演題② 「東海道を歩く-江尻宿(清水市)~金谷宿」
講師: 持田信廣氏
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月例会レポート

★8月20日(日)藤沢市湘南台公民館で、神奈川歴史研究会第324回月例会を開催した。参加者31名。連日の猛暑のなか、部屋の定員を超えるほどの熱心な歴史好きなメンバーが例月以上に集まった。これには講師も気合が入ったようである。

★最初の講演は、厚木歴史研究会代表でもある島口健次氏により「大塩平八郎の乱」について話された。

平八郎は江戸後期の大坂町奉行所の与力であり、陽明学者であった。天保の大飢饉のときには大坂でも餓死者が続出したため、奉行に救済策を講じるように再三にわたり嘆願したが、聞き入られなかった。それ故、自分の蔵書を売り払い、大金を入手して、これを窮民1万軒に1朱 (現在の約1万円弱か)ずつ分配したという。

さらには、ひそかに門弟の与力や近隣の富豪、近隣の農民に檄を飛ばして参加を呼びかけ挙兵を実行した。今から180年前の天保8年にである。天満に放火をして、船場に近い豪商を襲い金穀を奪ったという。というのは、この地区で備蓄していた米をここで消費することなく、多く儲けるために江戸に回送して暴利を、豪商たちは、博していたことに平八郎は我慢ができなかった。

大坂城の占拠も図ったらしい。平八郎の起こした挙兵・乱により大坂市内の家屋は1万戸が焼失したという。この町には大変なことが起こったのである。結局、計画は失敗に終わり、平八郎は自害をした。その後、越後柏崎では生田万の乱等、各地で暴動が起こるきっかけとなった。このころは、徳川家斉の時代であり、綱紀は弛み風俗は頽廃していた。大飢饉の影響もあり、奉行ににも救済できる余裕などなかったであろう。幕府崩壊への序曲のメロディーが流れ出していたと言っても良いのではないだろうか。

でも、島口講師のスピーチは、定説についてはあまり触れずに、意表を突いた異説の披露に力を入れていた。

大塩平八郎は、挙兵が失敗すると、自害などしていない。息子格之助を連れて大陸に渡った。そして、清朝打倒を目指した太平天国をうち立てた洪秀全は実は格之助のことであると。とにかく驚きであった。

最初講師のテーマを聞いたときに、毎年それぞれの異説を述べられているが、今年はいよいよ定説をお話をされるかと思っていたが、そんなことはなかった。過去と同様に、異説が主体であった。時代背景その他周辺の歴史事実を加えて、面白くアレンジされて、今回も異説を発表された。それも、今年は特に極めて正確に、話題関連の周辺知識を調べ上げられているのには感心した。声も大き く、話法も卓越、皆聞き惚れた。

★次の講演は、持田信廣氏で「東海道を歩く(4)・江尻宿から金谷宿まで」であった。

氏はかって大手銀行を退職後、やはり大手旅行会社の名物・歴史担当ツアー・コンダクターであった。歴史に対する知識は極めて豊富であり、歴史は足で書き、語るものであるとの信念を持っているようである。

旧東海道の全行程走破は数回にわたるし、五街道はすべて走破されたとか。凄いことである。一方、自分も東海道は江戸から京都まで14年かけて、夫婦で歩き通したが、その他の街道についてはほとんど歩いていない。

今回は、過去に当会で、3年にわたり江戸から興津宿までお話をされているので、そこから続く江尻宿(清水)から説明をされた。聞いているうちに、ここで自分の歩いたときの思い出が蘇り懐かしい。

江尻では追分羊羹、府中(静岡)では安倍川もちと鰻、丸子ではとろろ汁とどうも、食べ物を真っ先に思い浮かべる。見どころでは、丸子で拝観をした吐月峰・紫屋寺の境内から見た周りの借景、岡部の大旅籠であった柏屋(かしばや)の内部での見学、いずれも素晴らしかった。時間一杯氏は体験談を述べられた。
(レポート:浅見実)

第323回平成29年7月月例会

研究発表

演題① 「紫式部と源氏物語の和歌から-百人一首の歌と紫の上との関係で」
講師: 津久井勤氏
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演題② 「馬の話あれこれ(その4)」
講師: 村本博氏
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月例会レポート

★7月16日(日)藤沢市湘南台公民館で、第323回月例会を開催した。参加者25名。盛会であった。

インターネットを閲覧して、当会の活動を知り、横浜市在住の櫛田久美さんが新たに当会へ入会され、参加され、嬉しかった。徐々にネットによる媒体も大きな効果が出つつあると言えよう。

それにしても、当日は蒸し暑かった。外気は摂氏32度以上。おまけに、会場である公民館のエアコンは故障して全く効き目なし。最悪の状況であった。でも、この暑さにクレームをつけるメンバーはいなかった。内容の濃い、講師の高度なスピーチを熱心に聞き入った。それほど皆、歴史が好きである。

★最初の講演は、津久井勤先生による「紫式部と源氏物語の和歌から・百人一首の歌と紫の上との関係で」であった。先生は東海大学教授を経て全日本かるた協会七段、そのいくつものかるた団体の役員を兼ねておられる。

源氏物語は、平安時代中期である今から約一千年前に書かれた物語である。作者はおそらく紫式部であろう。華やかな舞台は藤原氏全盛時代の貴族社会である。雄大な構想を持って、精緻な心理状態を描き出している物語であると言われている。紫の上を失ったあとの光源氏の栄華は崩壊していったとされる。

先生の講演は、あたかも中世文学の特殊講義を聴講しているようだった。聞いているうちに、本居宣長が指摘をしたという物の哀れ感が、自分にはひしひしと感じられた。友人で、一生のうちに一度は大作を読んでおこうとトルストイの「戦争と平和」を読みだしたものがいるが、自分は、そうだ瀬戸内寂聴氏訳の大河小説の「源氏物語」を読んでみようかと思っている。でも、長そうだ。

★次の講演は、村本博氏で「馬の話・あれこれ(その4)」についてであった。とにかく、馬については詳しい人である。これまで当会でも昨年まで3回にわたり、馬についてのあれこれと興味がある歴史上の出来事を披露され好評であったが、今回は、それらの集大成ともいえる『馬と人を結ぶもの』『競馬』等についてお話しされた。

やはり氏の馬術におけるキャリアーが長く、それが確かな礎となっている。馬と人類の付き合いは古代に遡る。時代の変遷に伴っていろいろと馬具も徐々に変化していった。快適にそして合理的に乗馬を行うために改良に改良を重ねていった。ガソリンエンジン、電気モーターが発明されるまで、運搬、連絡、移動、戦術等で大きな力となった。

そして、講演の終了後の『鳥貴族』での二次会で嬉しそうに、うまそうにじっくりアルコールを嗜む氏のおだやかな表情は平和そのものであった。自分の家の近くに、乗馬ができる施設があるが、折角だから一回くらい試してみようかと思った。無理かもしれない。
(浅見実)

第322回平成29年6月月例会

研究発表

演題① 「埋れた歴史の宝庫-清盛も来るはずだった相模の松田亭」
講師: 山内玄人氏
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演題② 「暗殺疑惑の日本史」
講師: 川瀬和男氏
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月例会レポート

▼ 6月18日(日)332回の例会を、藤沢市六会公民館会議室で開催した。参加者は、町田の歴史を楽しみ歩く会の会長以下の応援団四名を含めて29 名。

▼ 最初の発表者は当会ベテランの山内玄人理事で、「埋もれた歴史の宝庫―清盛も来るはずだった相模の松田亭」と題して発表された。平素から「自己チュー史学」と称して先祖の山内氏を中心にそこから派生する数多くの鎌倉武士をテーマに深く掘り下げて研究をされている同氏の綿密且つ行動力溢れる探求姿勢には敬服せざるを得ない。

松田亭は義朝と源氏股肱の家臣の波多野義通の妹との間に誕生した朝長が生まれ育った地であった。義平と頼朝の間に生まれた二男であったが、平治合戦で敗れて東国へ落ち延びる途次に敵に襲われて重傷を負い、これ以上の逃避行は無理と判断し美濃青墓で自決したとも父・義朝により斬殺されたとも伝えられる悲劇の若武者であった。

松田亭の存在は『吾妻鏡』にも記載があるが、講師は松田亭を特定する過程で清盛が鹿島詣や富士参りの名目で東国入りする計画があり、当時は平家与党の大庭景親やその縁に繋がる波多野義常(義通の嫡子で妻は景親の姉妹)が協力し松田亭を増改築して清盛の宿舎として提供せんとしたことを公家の日記である『山塊記』等で確認された。

松田亭の侍所は四百人以上の武士が詰めるだけの大きさであった。侍所とされるが、後年の御家人を統制し軍事・警察を所管する鎌倉幕府機関ではなく、武士が詰める場所の意であった。

しかしながら、京での政治情勢は複雑で反平家の陰謀もあり多くの問題を抱えていた清盛は多忙のために東国入りを断念した。清盛は要衝の地である松田に相模や武蔵を始めとする坂東武士団との主従関係を固める意図があったと推測され、それが実現しておれば、後の頼朝の挙兵も不可能になったかも知れないのである。

後にこの松田亭には源行家(源為義の十男とされる新宮十郎義盛)も滞在したことがあり、頼朝自身も富士川合戦の前後に松田亭を訪れている。訪れる前に中村宗平に命じて松田亭の修復をさせており、帰りには修復なった松田亭に入っている。頼朝はその後もしばしば松田亭に宿泊しているのである。

講師の山内氏は清盛の東国入りの計画を最初に発見したのは、歴史学者の多賀宗隼氏で『平清盛と東国』と題する論文で発表された。歴史学者で東国武士団に造詣が深い野口実氏がその論文を踏まえて松田亭の侍所を例に挙げて清盛の政治手法に迫ったものである。

自分はその二人の研究を皆様に知らせようとしたに過ぎないと謙虚に結ばれたが、先祖に関わることとはいえ、山内氏の鋭く粘り強い不断の探究心が無ければここまでの発表には至らなかったと思う。実に興味深い話が聞けたことを感謝したいと思う次第である。

▼ 二番目の発表者は川瀬和男理事で「暗殺疑惑の日本史」と題されて暗殺か否かは判然としないが、古くから疑惑を持たれている暗殺事件を幾つか取り上げて話をされた。取り上げられた人物は源頼朝・足利直義・足利義満・毛利隆元・武田信玄・蒲生氏郷・加藤清正・徳川綱吉・徳川家定・孝明天皇で、「歴史の謎を探る会」編の資料を元にされた興味深い話で、是非、続編をお願いしたいと思う興味深い内容であった。

その後は、湘南台の鳥貴族にて懇親会が開催され13 名が参加し大いに盛り上がった。
(竹村紘一)

第321回平成29年5月月例会

研究発表

演題① 「茅ヶ崎と“音貞”」
講師: 原田信作氏
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演題② 「欽明天皇とその時代」
講師: 橋本和子氏
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月例会レポート

5月21日(日)藤沢市善行公民館において、第321回の例会を開催した。参加者24 名。

今回の発表は、歌舞伎に造詣が深い原田信作氏と、古代史の研究を通して夢を追い続ける橋本和子理事の2名であった。

★最初の講演は原田氏で「茅ヶ崎と音貞」についてであった。淡々としているが氏の語り口は素晴らしい。演劇の舞台にどんどん引きずりこまれてしまう。

今回は、茅ケ崎ゆかりの川上音二郎と貞奴夫妻の物語である。この二人が近代日本演劇史に残した功績は大きかった。今から、32年前にNHKの大河ドラマ『春の波濤』を思い出した。明治・大正期の有名人が大勢画面に現れた。主たる配役は音二郎役の背の高くてかっこいい中村雅俊と貞奴役のバニーガールの衣装で登場し、大ヒットソングの『愛の水中花』を歌ったあの松坂慶子である。

それにしても茅ケ崎ゆかりの人物は素晴らしい。市川團十郎、加山雄三、桑田佳祐、平尾昌晃等々文化面での大物が多い。音二郎は、明治の始めに板垣退助等が起こした自由民権運動のさなかに自由党に入党して過激に政界を批判していったり、、「オッペケペー節」歌い政治と世情を風刺して大好評を博した。一方、藤沢地区での自由民権運動は、かなり盛んではあったが、近隣の地区に比べて動きは、はがゆかったといわれる。

★次の講演は橋本理事で、「欽明天皇とその時代」について力強くスピーチをされた。6世紀の出来事である。その前後の時代に朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の各国が互いに抗争しあっていた。我が国「倭」もその争いのなかに巻き込まれていった。大和朝廷の命により朝鮮出兵が行われる際には、九州の人々への負担が多く、地方支配面でも不満が重なり大和への抵抗として豪族である磐井の乱が勃発をして内戦となった。

この頃、我が国に、紀元前5世紀にインドのガンジス川地方に起こった教えである仏教が、約1千年かけて、朝鮮半島経由で伝来した。欽明天皇の時代である。当時、天皇系は欽明系と安閑、宣化系との二朝が並立をしていたという。欽明天皇を支えていた渡来人との関係が深く、進歩的な考えをもっている蘇我氏は、神事と深いつながりがある物部氏の反対を押し切って仏教を取り入れた。そして仏教は豪族の連合政権から中央政権的律令国家へと変革を促す役割を果たした。さらに紆余曲折を経た後に、日本に定着して、その後の政治や文化に大きな影響を与えた。
(浅見実)

第320回平成29年4月月例会

研究発表

演題① 「偽書について①『信長公記』首巻と『史疑徳川家康事蹟』」
講師: 二階堂玲太氏
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演題② 「エドワード・シルヴェスター・モース(Morse)」
講師: 浅見実氏・里見絢子氏 (補足・修正)
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月例会レポート

★4月16日(日)湘南台市民センターにて第320 回例会が開催され参加者は21 名であった。

★最初の発表者は当会のベテランの二階堂玲太顧問で演題は「偽書について」で『信長公記』首巻と『史疑徳川家康事蹟』に関して興味深い話をされた。氏は時代小説の作家仲間と共同で『決戦!桶狭間』を執筆され、多くの疑問に遭遇され研究された。また、異色の作家として有名な八切止夫についても言及された。反骨精神旺盛で通説に果敢に挑戦したため敵も多く、遂には筆禍事件を起こしたとされ出版界から追放された人物である。私自身は同氏の本を数冊所持しておりそれなりの評価をしている。

昨今、本能寺の変の真実に迫る著作が多い明智憲三郎は八切止夫からの引用が多いし、また、司馬遼太郎は徳富蘇峰の『近世日本国民氏』を参考にしているにも拘わらず参考文献に入れていないのは何か憚られることがあるのであろうか疑問なしとしない。『信長公記』は信長の側近であった太田牛一によって書かれたもので、信長一代記を語る上で重要な史料とされているが、その首巻は牛一が晩年に追加したもので年次等の誤りが多く史料としての評価は低いとされている。それによると桶狭間の合戦は通説では永禄三年(1560)であるが、首巻では天文二十一年(1552)と記してあり八年も繰り上げられているし、信長の生涯でも重要な戦で活躍した侍で後年に出世した者が殆どいないのは如何なものか等疑問も生じるのである。八切止夫は奇襲戦とされる桶狭間の戦いは無かったと主張している。歴史を学んだ人からは驚くべき主張であるが、首肯出来る面もあるように思われる。

史実と言われていても実際は時の権力者の意向で歪められた物が多いのも事実である。二階堂氏は、女城主直虎は実は男であったとの説を紹介され、井伊家には直虎の時代に山の民(賤民)の血統が紛れ込んだとの説を展開され、それが本編の『史疑徳川家康事蹟』にある貴賤交替(顛倒)論とも重なる面があると指摘された。井伊氏の祖とされる井伊共保にまつわる奇瑞譚や事蹟についても興味深い話が多い。仮説ではあるが、井伊共保から直虎までを山の民とその末裔とし、松平元康と入れ替わった世良田次郎三郎元信も同じく駿河の賤民と考えられる。元康の室であった瀬名姫も井伊直平の末裔で山の民(賤民)であるから、両者には接点があったとする。元康が家臣によって暗殺された後に、元信が入り込む余地はあったとする説である。通説では、元信は元康と改名しさらに桶狭間で今川義元が戦死すると三河で独立し家康と改名し永禄九年(1566)には徳川に改姓し徳川家康を名乗ることになる。

明治三十五年(1902)に徳富蘇峰が主催する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。その中身についてはレジメに書かれているので詳細は割愛するが、大坂夏の陣の茶臼山の戦いで真田信繁に敗れ駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛に槍で突かれて負傷した家康が堺まで落ち延びたが、既に事切れていたので同地の南宗寺に葬ったとの話がある。徳川氏はその事実を隠し影武者を立てて徳川政権の安定化を図り、事なるや用済みとして暗殺したという。鯛の天ぷらを食し過ぎて死に至ったとの話が伝えられているが大いに疑問である。

尚、大坂の陣ではなく関ヶ原の時であるとする説も唱えられていて、家康影武者説は小説にも数多く取り上げられている。村岡素一郎の本は初版500 部が出版されたが、重版されず絶版となった。絶版となった理由は、その著書の内容に憤激した徳川氏一族や旧徳川氏の幕臣が、民友社に圧力をかけたためという説や、徳富蘇峰が貴族院議員就任を目指しており、貴族院に多数存在する徳川家関係者に遠慮したためとも言われる。また、礫こいしかわぜんじ川全次はこの本は歴史書の体裁をとった明治の元勲山県有朋や伊藤博文への批判書だとしており、両者からの圧力があった可能性を指摘している。いずれにせよ、村岡説は学会や世間に反響を起こすこともなく、戦前は完全に忘れられた存在であった。

しかし、昭和三十年代、南條範夫が村岡の著書を基にして『願人坊主家康』(後に加筆改題して『三百年のベール—異伝 徳川家康』)という小説を著した。八切止夫も小説『徳川家康は二人だった』を著している。昭和三十八年(1963)には村岡の外孫に当たる榛葉英治が『史疑 徳川家康』を出版した。平成六年(1994)には礫こいしかわぜんじ川全次が『史疑 幻の家康論』を著し、同書の背景を検証した。隆慶一郎は、村岡説に触発されたものの、「家康が入れ替わった時期が村岡説では早過ぎる。家康の人格が変わった1600 年頃としたほうが無理がない」と考え、家康が慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際に暗殺され、その後は影武者・世良田二郎三郎が代役として家康に成り代わったという設定で小説『影武者徳川家康』を著している。歴史愛好家にとっては絶好のテーマであり興味深いものがある。講師は複雑多岐に亘る話を巧く纏めて発表された。
二番目の講師は当会理事の里見絢子氏で演題は「大森貝塚を発見したモースと藤沢との関連について」と題されて発表された。本来は当会副会長の浅見実氏が発表される予定であったが、前日の夜に胆石で救急車にて病院へ搬送されるハプニングが生じ、急遽、大森貝塚の出土土器を研究しておられた里見氏に代役をお願いした次第であった。里見氏は以前から浅見氏よりも発表の際に10分でも20分でも土器関係の話についてはサポートして貰えぬかとの話があったので、多少の準備が出来ていたので及ばずながらお手伝いすることが出来たとの前置きで浅見氏が用意されたレジメを使用しながら、自らが用意されたレジメにも触れながら丁寧に分かり易く話を進められた。大森貝塚とモースの名前は有名であるので知らぬ人も少ないが、発見の経緯とかモースなる人物の生涯となると知らない人も多い。

モースは性格的には問題児であり小学校も退学させられたり、その後通った学校や学園からも度々放校処分を受けたりしてハイスクールも卒業出来ず、大学も出ていないし家庭にあっては厳格なプロテスタントである父親とも衝突していた。母親は科学・博物学・天文学にも興味を示す女性でモースにも理解があったようである。その後、製図工として働くことになる。上司と衝突し職場にはなじめなかったが元来、絵が得意であったモースは製図に従事したことから貝を始めとする動物の正確なスケッチが特技となり後に研究報告の記録に非常に役立つことになる。

貝のコレクターとして多少名前が出始めたモースはポートランドの博物学会に入会し、そこで運命の人ハーバード大学教授のハガシー博士と出会い、彼の引きで博物館の学生助手として採用され、博士の紹介により多くの有為な人材に出会い大いに成長したのであった。しかし、師のアガシー博士は当時、『種の起源』で一世を風靡していたダーウィンの進化論に反論していたため大勢の弟子が去った。モースはアガシー博士を支持していたというが別な理由から彼も師と決別した。その後、紆余曲折はあったが、幸運にもセーラムのビーボディ科学アカデミーの創設に参加する機会に恵まれ、研究成果の発表で名前が知られるようになり博物学関係の学会で要職に就くことになる。海岸に面した臨海実験所が開設され、一時疎遠になっていたアガシー博士ともよりを戻し多くの弟子も復帰した。腕足類の研究に注力した結果、進化論の有力な推進者となったモースは研究を深化させるために腕足類が多く生息する日本を目指すことになる。

来日したモースは東京大学の教授として招聘され破格の給与を与えられ、江の島にて腕足類の収集・研究に取り掛かった。モースが大森貝塚を発見したのは来日してから僅か2日のことであった。思わぬ発見に感激したモースは他の人に先を越されぬことを非常に懸念し、慎重且つ秘密裡に準備を進めて報告書を作成し翌年に出版した。これが本邦における近代考古学の幕明けとなったのであった。大森貝塚の出土品の重複品はアメリカやヨーロッパにも送られ、その見返りに多くの得難い標本や図書が日本に齎された。
また、モースの著書『日本その日その日・JAPAN Day bay Day』明治初期の日本の事情が分る貴重な日記風の読み物で、3500 ページにも亘る大作であり、他にもスケッチ画が777 枚もある。モースは当時の日本人を高く評価し、人間としての品位が高く礼儀が厚い。具体的事例を挙げて日本人ほど文明的な人種はいないとまで日本人を褒め称えている。真の知日家といえるのではなかろうか。現在を生きる我々としては気恥ずかしい限りであるが。里見氏のお蔭で浅見氏のレジメも生き我々もモースの知られざる生涯を知ることが出来、有意義な時間を過ごせたことに感謝したいと思う。

その後は例によって、懇親会が湘南台の居酒屋で和やかに開催された。
(竹村紘一)

第319回平成29年3月月例会

研究発表

演題① 「シーボルトの生涯とその実像」
講師: 槙良生氏
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演題② 「イワクラと縄文文明を継ぐ日本人のルーツ」
講師: 前田豊氏
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月例会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の第319回例会は、3月19日(日)に、藤沢市湘南台公民館で開催をした。清々しい陽春の暖かい行楽日和であった。

春の彼岸のピークの日曜日でもあり、参加者があるいは少ないのではないだろうと心配をしたが、そんなことはなかった。いつもより多い32名の聴講者であった。その中には、横浜歴史研究会や江戸の会のメンバーの参加もあり嬉しかった。講師も大いにやる気になったみたいである。

もう一つ、関心を感心をしたこともある。本日は、花粉飛来が非常に多い日であるとの気象情報であったが、32名の誰もが花粉症に悩まされていないみたいであった。咳をしたり、クシャミをしたりしているものは皆無であった。年齢を重ねると『花粉症』を患うことはなくなると言われているみたいだが、その通りであろう。実感をした。

★最初の講演は、槇良生事務局長により「シーボルトの生涯とその実像」についてであった。幕末の外交史はとにかく面白い。良く調べており、聞きごたえがあった。

たまたま、自分は、何年か前に草津温泉のリゾートマンションの一部屋を、春から秋まで半年間借りて、時々訪れて、温泉三昧の日々を送っていたことがあるが、ここに行く途中の中之条町の六合(くに)地区で、そこかしこで『高野長英』滞在の地の看板を目にした。不似合いな地かもしれない。伝統的建造物群保存地区である赤岩地区でである。のどかな田舎チックな静かなところである。どうしてこんなところに長英はいたのであろうといつも疑問に思っていた。

彼は、もともと、シーボルトから長崎で蘭学を学んだ江戸の町医者であったが、モリソン号事件に際して夢物語を書いて鎖国の不可を主張して、番社の獄に連座をして終生入牢を申し渡された。その後、獄舎に放火をさせ脱牢をして、逃亡して諸藩等の庇護を受け、あちこちに滞在をした。そのときに、親交のあった当地の医師等の好意により、ここ中之条に滞在をしたらしい。こんなところにもシーボルトの影響があった。

確かに、ここなら江戸から離れており、山の中で見つかることもなかったであろう、その上日本でもトップクラスの温泉群が、ここには点在する。冬はあまりにも寒すぎるが、その他のシーズンは極楽である。シーボルトとから育っていった医学者、科学者は数十人にのぼるという。我が国の医学、科学分野に貢献した功績は多大なものがあるだろう。氏は平易に分かりやすくその生涯について、詳しい知識を述べていかれた。

★次の講演は、前田豊氏により「イワクラと縄文文明を継ぐ日本人のルーツ」について説明をされた。

イワクラとは巨石建造築物のことである。聖地・祭祀遺跡の側面もある。このテーマについて、他の研究者や愛好家が中心となり専門的に研究をする学会を2004年に立ち上げて、現在国際用語として世界に流通させるべく鋭意活躍中である。意表をついて自分の意見を構築するのに、とても参考になった。

氏の活動は独創的であり時代の先端を走っている。もともと本業である炭素繊維についての研究の他、不思議現象の発現メカニズムについての意識科学を突き詰められておられる。

さらには、秦の始皇帝の命で仙薬を求めて来日して、熊野または富士山に定住したという徐福や、我が国のどこにあったか定説の決まらない耶馬台国の東三河への位置確定の考察に、確固たる、理論的にユニークな学説を構築されている。守備範囲は広い。いずれについても著作があり、ネットでも購入できる。当会にもそのファンがいるかもしれない。

自分で行ったわけではないが、オーストラリアのアボリジニの聖地であるウルル(エアーズロック)に観光旅行で行った友人がいるが、そこの山の頂上には、水たまりにおたまじゃくしが泳いでいたと得意気に話していた。そんなことを聞くとなんだか行って確認をしてみたい気がする。

実際に自分で行ってみた巨石では、琉球王国の最高の聖地である斎場御嶽(せいふぁうたき)の大きな岩の迫力がある見事さに驚かされた。さらには、10年以上前の1月末頃に行った時、同じ沖縄の今帰仁(なきじん)グスクで見かけた濃い紅色の緋寒桜が咲いているのを見たときに、本土とは違うものを見つけたような気がした。

★2次会の参加者は22名。2時間近く、大いに盛り上がり、これまでの最大級のアルコール類をオーダーした。かってにめいめいが歴史について、勝手に自説を披露していった。皆がうるさくて聞き取れないところもあったが。
(浅見 実)

第318回平成29年2月月例会

研究発表

演題① 「新撰組生残り永倉新八・斉藤一の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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演題② 「横山忠弘著作集(1)(2)について」
講師: 横山忠弘氏
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月例会レポート

★藤沢市湘南台公民館において、第318回の例会を開催した。当日の参加者は22名で、やや少ないかもしれない。でも、会長、事務局長等、役員の一部は、若返り、今後の当会は、いろいろと新しい企画を出し実行していき、大いに発展をしていくであろう。

★最初の講演は、渡邊幸太郎理事により「新選組の生き残り永倉新八・齋藤一(はじめ)の生涯」であった。新選組は幕末に、京都の治安維持にあたった浪士隊であり、尊攘・討幕派弾圧に活躍をした。イメージとしては、商家より資金を強引に提供させたり、内部粛清があったり、怖い集団ではあったが、なにか興味をひかれるものもある、不思議な集団であった。

かってNHKの大河ドラマ『新選組!』により、好意的な演出もあり、親しみの印象を与えられたかもしれない。山口智充氏が演ずる永倉新八、オダギリジョー氏の齋藤一、ふたりの演技が懐かしく思い出された。

★次の講演は、横山弘忠新顧問により、同氏が発刊した二冊の論文集である「横山忠弘著作集及びそのⅡ」に関連したスピーチであった。とにかく、当会や他の会の役員・会員としての激務にかかわりながら、これほどのいくつもの論文を発表されたことは驚きであり、大いに敬意を表したい。

これまでも、氏は当会では同じテーマで、その内容の一部はお話をされているが、今回は、その集大成である。さらには、個人的な側面をも含めており、ほのぼのとした家族愛が感じられた。今後は、第一に、健康には充分ご留意をされて、さらに歴史研究を極めて、その後の発表を期待している。
(浅見 実)

新年特別講演会

研究発表

演題 「ミッドウェー海戦の真相と敗因を探る」
講師: 神奈川歴史研究会 新会長 竹村紘一氏
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①定期総会 ②新年特別講演会 ③新年宴会レポート

★当会、神奈川歴史研究会の新年総会は、1月15日(日)藤沢市六会公民館で開催した。この会場の利用は当会では始めてであるが新設間もなく、設備も整っているし、小田急線六会日大前駅からも近い。なにしろきれいである。参加者は29名。吉成勇本部主幹もご出席をされて、当会のブリーフヒストリーを説明され、励ましのお言葉を述べられた。さらには、有り難く祝い金まで頂戴した。

★あらかじめ事務局作成の議事はたんたんと進められ、最後に当会の役員改選では、新会長に竹村紘一氏、新事務局長に槇良生氏、さらに新理事には小林道子さんが就任されて、大幅に役員の年齢層が若返ったことは頼もしかった。これからやるだろうという大きな期待感が生まれた。新会長の就任ご挨拶は力強かった。一方、長年にわたり当会の維持、発展に大きく貢献された横山旧事務局長の退任には一抹の寂しさが感じられた。引き続き顧問として残ってはいただいたが。

★恒例の新年特別講演は、新会長による「ミッドウェー海戦の真相と敗因を探る」のテーマによるお話であった。日米両軍間の戦力の分かれ目になった重要な處である。ミッドウェーは、ハワイの北西にある珊瑚礁の海域である。独特な自然資源も豊富であり、また鳥類特にアホウドリの大規模な繁殖地である。そこにかつてアメリカ海軍の基地があった。

というのは、ミッドウェー(Midway)とは、その名の通りに、カリフォルニア(アメリカ大陸)と東アジアとの中間点に位置しており、重要なアメリカ軍の基地がそこに所在していたからだ。そこでの日米両軍の壮絶な戦闘で多くの貴重な自然遺産がかなりの被害をこうむったに違いない。現在は、この地の自然は厳重に保護されている。

新会長は、日本軍の敗因について、自説もまじえて明快に説明していかれた、あっという間の1時間半であった。

★新年祝賀会は、会場を昨年と同じ藤沢商工会議所ミナパークで賑やかに行われた。総勢27名の出席者数であった。料理もアルコールもふんだんにあり、大いに盛り上がった。しばらく歓談のあと、当会会員のひとりひとりが今年の例会での発表事項または研究テーマ・抱負等について、意欲的にそして得意気に述べていかれた。

一人2分の持ち時間を大幅に超過しても、意に介することなく、とめどなく歴史上の新発見の自説を延々と話される人もいた。話題も多岐にわたり、時代も太古から現代まで幅が広い。

なお。歴史散歩は春には大山阿夫利神社を、そして秋には横浜の三渓園を計画している。いずれも、楽しみに期待している。今年の全会員の健康と幸福を祈るや切である。
(浅見 実)

第317回平成28年12月月例会

研究発表

演題① 「地球生物の発生と進化」
講師: 杵鞭充千男氏
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演題② 「歴史雑感(5)」
講師: 瀬戸淳氏
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月例会レポート

12月11日(日)第317 回の例会を、藤沢市善行公民館で開催した。参加者は24 名。予定された出席者数より、やや少ない。多分、年末の忙しい季節でもあり、どうしても都合がつかないメンバーもあったであろう。しかしながら、新たに会員として黒澤雅博氏(平塚市在住)をお迎えして嬉しかった。

★最初の講演は、天文学、古生物学等に詳しい杵鞭充千男氏でタイトルは「地球生物の発生と進化」についてであった。当会の大多数の会員の研究対象は人類の歴史であるが、杵鞭氏は違う。主に自然界の現象を調べられている。そして、その時代の範囲も極めて広い。

地球上に単細胞としての生命体が発生してから、諸説多々あろうが数十億年は経っていると言う。氏の研究対象としての期間は、その地球誕生時からである。我々の調査対象の時代は、今から精々数百年から数千年までであるので、実にその数十万倍以上である。驚愕するほどに時代の範囲は広い。調べがいもあろう。毎年鋭意研究・発表されているご努力に感心する。

今回の発表で、氏の対象となる歴史学は有機化学、生物学、地学等の自然科学分野での関連で、広く調査しなければならない場合もあるのだと実感した。とにかく人類が出現するまでの期間は長かった。そこで、氏は付け加えられた。せっかく地球上に、気の遠くなるような年月をかけて人類が生まれてきたのである。お互いにいがみ合うことなく仲良く、共存の方策を模索すべきであろうと。決して滅亡への道をたどってはならないと。

★次の講演は、瀬戸淳氏で「歴史雑感・その5」であった。今年は、氏が満州(現在の中国の東北地方)より引揚げて70周年になるとか。そこで、ノモンハン事件と引揚げとについてお話をされた。

ここはかって五族協和による王道楽土を理想として建国された地域である。でも、理想と現実は大きく乖離した。日本にとって悲劇の地である。氏はここで起こったことが現在は忘れられているし、知られていないことについて言及された。そこでの今回の講演である。例えば、1939年にモンゴルと満州との国境地区でノモンハンでの日本軍とソ連軍との間で大規模な衝突事件が発生した。我々には日本軍の惨敗であると、習ってきたが、実際には、そうではないらしい。ソ連軍もそれ以上に損害を受けたことは知らなかった。

また、太平洋戦争終結後に、多くの在留邦人が現地で悲惨をきわめたが、やっとのことで帰国しても、その後、働けるものは炭鉱産業の労働者として送り出されたり、山奥の荒れ地の開墾のために駆り出されたりしたが、良い結果はついてこなかった。完全に失敗をした。さらに、学生児童は、一年遅れで学業に復帰したが、そこではいじめと疎外に悩まされたという。(浅見 実)

第316回平成28年11月月例会

研究発表

演題① 「三善康信とその時代」
講師: 橋本欣之介氏
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演題② 「江戸時代の道を求めて(山陰道編)」
講師: 加藤岩男氏
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月例会レポート

★11月13日(日)第316回の例会を、藤沢市善行公民館で開催した。参加者は29名。うち9名は、本日の講師である加藤岩男氏のご友人であった。当会常連のメンバーの参加は何時もよりも少ないかもしれない。

★最初の講師は、橋本欣之介理事で演題は「三好康信とその時代」についてであった。これは聞きごたえがあった。また、本格的に歴史学を学ばれた講師の理論展開は、レジメを含めて、論旨は整然としていた。

鎌倉幕府には、源頼朝を支えた人材が大勢いた。なかでも大江広元は特に有名で、頼朝の片腕として幕府の基礎を固めて大いに活躍をした。しかしながら、この時代、戦いに勝ち抜く『力』だけでは、人民を統治できない。そのような活動ができるバックアップとしての地道な、永続的な『事務的な基礎』を作り上げることも重要である。それを作りあげたひとりは、三好康信である。彼は『問注所』(現在の裁判所)の初代執事(長官)となり、法律と京都に関する豊富な知識をもとに、マイナーながら幕府の重要な役割を果たした。

鎌倉時代の始まりについては諸説がある。1185年説とか、自分が高校生の時に習った1192年説等である。でも、行政をあまねく行きわたらせる組織である幕府の主要な政治機関の公文所、問注所がスタートした1184年も捨てがたい。これまでの京都が中心であり4百年の長きにわたり続いた華やかな平安時代という、かつては藤原氏の、あるいは院政の世を終わらせるには、一年では達成できない。交代への揺籃期、熟成期そして完成期には、かなりの年月がかかり、年度を特定するのは難しいかもしれない。

★次の講演は、加藤岩男氏で「江戸時代の道を求めて・山陰道編」であった。
加藤氏は、我々の出来ないことをやり遂げる。江戸時代の東海道に沿って、江戸から京都まで何日もかかって走破したものは、当会でも数人かはおられる。でも、氏は完璧に整備された旧街道筋を歩いていくのには興味がない。これまで、氏は九州路、四国路の人跡を辿るのが難しい、他にたどる人がいない、江戸期の廃道を、予め調べあげて、地元の住民の協力も得て、単独でいくつか歩かれている。道として残っていないところをもである。危険な経験も何度かあったであろう。その苦労の成果を以前に当会で発表されている。

今回の出発は、昨年の8月、山陽新幹線の新山口駅(小郡)からであった。駅前では、当地出身の漂泊の旅人であり俳人の種田山頭火像が笠をとって出迎えてくれた。これから36宿650キロを京に向かい、ひとりで極力旧道に沿って歩き通すのだ。しかしながら、途中にはわくわくするような名所がいくつもある。山口市では、素晴らしくて圧倒される瑠璃光寺の五重の塔を眺め、ロマンチックな、小京都の城下町でもある史跡に富む津和野も通過して行く。一転して、山道にさしかかると、まったく旧道は残っていない。痕跡として幅3尺(約1メートル)のクマザサが生い茂る荒れ果てた道があるだけだ。そこを5か月近くかけて走破した。

血と汗とにまみれた旅の記録をDVDに収録して、全員に配られた。帰宅後、それを楽しく鑑賞させてもらった。(浅見 実)

第315回平成28年10月月例会

研究発表

演題① 「東海道を歩く(3) 箱根峠~興津宿」
講師: 持田信廣氏
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演題② 「先史洞窟内の赤色手形の謎」
講師: 齊藤守弘氏
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月例会レポート

★10月16日(日)藤沢市善行公民館に於いて第315回の例会を開催した。参加者26名。ここの公民館は小田急線の善行駅から5分程度の徒歩の距離だが、急な坂道を登らなければならず、丘陵の頂上地点にあり、行くのに結構きつい。他にいくつか候補の会場があるのだが今回は確保できなかった。

★最初の講演は、今月1日に開催した秋の散歩の案内人でもあった持田信博氏で「東海道駿河の国から・箱根峠から興津宿まで」についてお話をされた。氏は歴史散歩のベテランである。長いキャリアと豊富な知識を駆使してのスピーチであった。

これまでの当会の講演は、東海道の旧街道筋を日本橋からスタートをして、毎回現在の各県をひとつの区切りとして説明されていかれた。

今回は、3回目となり、いよいよ伊豆・駿河路入ってきた。自分も20年ほど以前に、ここを歩いてきたが、箱根路のなだらかな舗装していない旧街道の坂道を、2日かけて登り、そして下ったが、当時はここを歩き通す人も少なかったのであろう。県境を越えて、住む人のいない山道を過ぎて、伊豆の三島の松並木の手前の閑散とした集落に入ったときに犬に吠えられたことを鮮明に覚えている。こんなところで。それが三島宿についての最初のイメージであった。

駿河路での思い出も多い。沼津にある長い千本松原が、歩いても歩いても、いつまで経っても終わらなかったこと。今は蕎麦屋になっている吉原宿の旧『鯛屋旅館』では、店主からいろいろとこの宿についての懇切丁寧な説明を受け、資料を頂いたことなど、懐かしい。

★次の講演は、超古代史の研究者でもあり、当会顧問の齋藤守弘先生により「先史洞窟内の赤色手形の謎」についてのお話であった。

先生は、かってはSF作家である、星新一、筒井康隆氏等とも親交があり、とにかく、神秘の、ミステリーの、四次元の、そしてオカルト・奇跡等の世界にご興味を持たれて長年にわたり研究をされている。

主としてジュニアー向けではあるが、これらに関する著作も多い。メジャーな出版社からの出版もある。一時はマスコミにもたびたび登稿されたらしい。所謂、過去の遺産等の想像の世界を、ご自身の科学的な根拠をもって説明されている。

しかしながら、他の科学者は誰も取り扱わないような分野にも、意欲的に足を踏み入れている。

今回のテーマは、日本の縄文時代の土偶である・縄文のビーナス像に描かれている文様を独自に解読されて、そこから、世界遺産であるスペイン北部のサンタデル地方にあるアルタミラ洞窟のなかに描かれた牛、シカ、イノシシ等の動物の彩色画、あるいはトルコのギョベクリ・テペの遺跡の謎等を解明されたという。人間の脳に内在するデザイン感覚は、場所が遠く離れていても一致すると。スケールが大きい。この、説が学会で支持されること期待したい。(浅見 実)

第314回平成28年9月月例会

研究発表

演題① 「行方不明の将軍実朝の首 -源実朝暗殺-」
講師: 島口健次氏
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演題② 「『更級日記』の中の東海道 -国司が通った古代官道を辿る-」
講師: 小林道子氏
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月例会レポート

★9月14日(日)藤沢市湘南台公民館において、第314回の例会を開催した。昨年の9月の例会では参加者は、わずかに21名であったが、今回は横浜歴史研究会より11名、江戸の歴史研究会より5名の参加を得て、実に昨年の2倍で、合計40名の参加者であった。盛況であった。やはり、このくらいの大勢の参加があると有り難いし、大いに盛り上がる。講師もやる気が出る。協力していただいた両方の会の皆様に感謝をしたい。

★最初の講演は、厚木地区の郷土史研究のリーダーでもある島口健次氏で「源実朝暗殺・行方不明の将軍実朝の首」と言うテーマでお話された。相変わらずのユニークにして説得力のある島口節をたっぷり聞かせてもらった。ユーモアを加え、聞く人をしてどんどん納得させていく話法は敬服に値する。

お話は、鎌倉時代の初めごろ、鶴岡八幡宮の石段を登って行くと、左側に高い銀杏の大樹があり、ここに隠れていた別当公暁が三代将軍実朝を父の仇として討ったと言う、所謂『隠れ銀杏』の物語である。
懐かしい、『七里ガ浜の磯づたい』の歌詞の鎌倉の唱歌でも、『問わばや遠き世々の跡』と歌われているが、この事件のことを指しているのであろう。鎌倉の歴史を長く見守ってきた樹齢千年とも言われたこの銀杏の木は、今から6年前の平成22年に倒されてしまったが、現在は新芽が切られた幹からすくすくと育っている。

実朝の首塚は、全国でいくつかあるが、当地相模の秦野にもある。どうも、三浦一族と秦野地区とは繋がりがあるらしい。秦野は厚木と並んで史跡の宝庫である。紅葉を求めて秋には車で散策に行ってみたい。秦野には美味い蕎麦屋が何軒かあるみたいだ。

★次の講演は、当会でのスピーチデビューである小林道子さんが「『更級日記』の中の東海道」について述べられた。

更級日記は、平安時代中期(11世紀半ば)頃の日記文学であり、作者の菅原孝標女が夫の橘俊道に死別したのちに惜寥のなかで記した回想記である。自分も高校1年生の時に、古文の授業で習った懐かしい『あづま路の道のはてよりも』で始まる文章を思い出した。

13歳の彼女は、国司の任果てて、とにかく寂しい田舎である上総から帰京するまでの父に伴われての旅について、40年間のことを回想しながらまとめ上げたものである。
今回の講演は、幼い時の上総から京までの旅日記についてであった。よく調べ上げておられる。平安時代の東海道をたどり、その時代の地名を現在のどのあたりに該当するか、丹念に考察されていかれた。

我々が活動している神奈川県も勿論通過した。多分当時の街道筋は海岸線に沿って西に上り、急峻な箱根山を越えることなく、なだらかな駿河の国との境にある足柄峠を越えたであろう。そこからの大展望が望め、そのころ噴火していた富士山の雄姿も眺められたであろう。『西富』という地名も記述されているので、あるいは藤沢市も通ったかもしれない。

★2次会への参加者33名。うち女性が9名。居酒屋の1コーナを借りきり、賑やかにワイワイ勝手に歴史について喋りあった。1人当たり飲んだアルコールの量もいつもの倍くらいか。人数が多いと愉快である。(浅見 実)

第313回平成28年8月月例会

研究発表

演題① 「秋の歴史散歩のご案内」
講師: 持田信廣氏
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演題② 「井伊直虎と直政」
講師: 川瀬和男氏
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演題③ 「馬の話あれこれ」
講師: 村本博氏
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月例会レポート

8月14日(日)藤沢市善行公民館において第313回月例会を開催した。参加者23名。うち見学者3名。お盆最中の開催なので、帰省者も多く不参加メンバーも多いのではないかと思っていたがそれほどでもなかった。皆、歴史が大好きである。

★まず例会の始めは、当会恒例の秋の歴史散歩で当日案内人を務める持田信廣氏より、訪問する予定の『玉縄地区』の古社寺や史跡について概略の説明があった。

鎌倉市中心部は首都圏からの人々にとって手軽に行ける人気の観光スポットである。神社仏閣あり、歴史も学べるし、きれいな庭園もある、お洒落な店も多い。また、グルメもいろいろあり、休日ともなれば、若者で、この地は大混雑となる。

しかしながら同じ鎌倉でも『玉縄地区』は、ポピュラーではない。ほとんど訪れる人もなく、若者にはなじみがない。知らない人が圧倒的に多い。でも、歴史を愛する、ごく少数のマニアにとっては、ここに何があるのか探し出すわくわく感、期待感がある。宝探しのように。自分で見つけたいと。グルメはないかもしれないが、マイナーを求めて歩く、10月1日実施の探検日を楽しみに待ちたい。

★次の講演は、川瀬和男理事による「井伊直虎と直正」についてのお話であった。来年のNHK 大河ドラマで主役を演じる直虎の生涯について述べられた。

直虎を演じるのは女優であり歌手でもある柴咲コウである。彼女いずれも今から10年くらい前の映画(テレビで再放送)の『県庁の星』でのスーパーの女店員役と、フジテレビで放映された『Dr. コトー診療所』の看護師役として出演されたがとにかく演技が印象的であった。それが来年のテレビの主役になるのである。さらに好演技を見せてくれるであろう。でも、歌手としての彼女の歌はなにも知らないが。

自分は、約20年くらい前に、現在の浜松市北区にある龍潭寺をドライブで立ち寄ったことがある。そこに直虎の墓があるなどまったく知らなかった。ただ、入場して、庭園がめちゃくちゃにきれいだったことを覚えている。京都の名園に比較しても遜色がない。しばらく寺のなかで感慨にふけっていた。

そんなことはめったにない。そのころ、徳川家の家臣については興味を持っていなかった。それよりも、旅人目線で見る、当時歩き続けていた東海道の脇往還である姫街道をたどるほうがよっぽど関心があった。気賀の関所の遺跡を見ておこうと、ついでに立ち寄った寺である。

最後に、理事は、直虎の養子であり、『井伊の赤鬼』と呼ばれた徳川家康四天王のひとりである井伊直正についても、面白く話された。

★最後の講演は、村本博さんによる「馬の話・あれこれ(その3)」であった。氏は馬に詳しい。

このところ、毎年馬をテーマに、関連した知識をあれこれ披露されている。馬といえば分類学上奇蹄目ウマ科の動物である。もともとは、野生であったが青銅器時代(多分1万年以上前に)に中央アジアで家畜化されたとされる。用途は運搬用、乗用、競争用、愛玩用等があげられる。人類の歴史上で、強い武力を造り上げるために、戦力の一助として非常に重要な役割を果たしてきた。馬なくして、強力な国家はなかった。それが、科学技術の発展に伴い、機械がとって代わりだんだん脇役の地位に追いやられていった。

今回、氏は神事としての日本の古来からの馬に関わる儀式を中心として説明をされた。例えば、上賀茂神社のくらべうま(古式競馬)、宮内庁等に伝わるポロ競技の日本バージョンである打毬、中央アジアに起源があり紀元前にもすでに行われていた騎射であるが、我が国独特に発達をした流鏑馬等々。いずれも激しい競技ではあるが、令に始まり礼に終わり規律を重んじる武芸である。

たまたま、この記事を書いているときは、リオデジャネイロでのオリンピック期間中である。今から84年前の昭和7年、ロスアンゼルス大会での馬術競技の日本人唯一のゴールドメダリスト・西竹一中尉が、第2次大戦中に硫黄島で戦死した哀感をそそるストリーをなぜだか思い出した。(浅見 実)

第312回平成28年7月月例会

研究発表

演題① 「戊辰戦争-越後長岡の惨状
稲垣平助、河井継之助 二人家老の足跡を見る」
講師: 武士俣光也氏
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演題② 「伊勢斎宮と名張の関わり-主に万葉集を題材にして」
講師: 津久井勤氏
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月例会レポート

★7月17日(日)藤沢市善行公民館において、第312回月例会を開催した。参加者は、本日の講師・武士俣光也理事の友人等5名の見学者を含めて27名であった。前回に次いで今回も盛会であった。

★先ず最初は武士俣理事が「戊辰戦争・越後長岡の惨状・稲垣平助、河井継之助、二人家老の足跡を見る」についてお話しをされた。

さすがプロのグラフィックデザイナーである。オールカラーのレジメの出来栄えは素晴らしかったが、それ以上にプロジェクターを駆使しての理事の発表に引き込まれた。

戊辰戦争の舞台となって大きな被害を受けた町は少なくはないであろう。特に函館(箱館)、会津若松と並んで、石高10万石前後の小藩長岡藩の惨状は同情に値する。ただでさえ1年のうち3分の1は雪のなかで過ごさざるを得ない屈指の豪雪地帯に位置している。雪に閉ざされて食料がなくなり餓死者が出た悲惨な集落もこの近くにあった。

当然この頃は銘柄米である『コシヒカリ』はまだない。自分はこの近くの越後湯沢に1年間マンションを借りて時々過ごしたことがあるのでよく分かる。

悲劇の家老の河井継之助の評価は高い。洋式の武器を購入する等の時代の先を読むセンスは抜群であった。ただ武装中立策をとったが、政府軍が認めなかったために長岡の町は戦乱に巻き込まれて、落城後死亡した。もう一人の家老の稲垣平助は、終始恭順を模索した。落城した広大な城跡を耕して、食糧確保に励んだり、新政府上層部に直訴したりして藩の復活に尽力した。その結果であろう、明治になり、石高2万4千石で主家再興が実現した。平助の6女『杉本鉞子』の著作『武士の娘』を読んでみたい。

★次の講演は、日本カルタ協会企画部長でもあられる津久井勤氏で「大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子(おおつのおうじ)と名張との関わり・主に万葉集を題材」について、ロマンチックなストーリーをご披露された。

自分は十数年前に東海道を日本橋から京都まで、夫婦で53次を歩き通したときに、滋賀県の土山宿の先で、『垂水頓宮御殿跡』の標識を眼にしたことがある。その時にはあまり関心がなかったが、後になって、伊勢神宮に奉仕する皇女である斎王の遺跡であることが分かり、東海道紀行をまとめた際、大いに興味をもって幾つか調べたことがある。

大伯皇女は斎王制度が確立したときの初代斎王であった。万葉集にもいくつか皇女の歌が掲載されている。この歌集の特徴は、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を素直に表す調子の高い歌が多い。彼女が弟の大津皇子を思う切ない気持ちには身につまされる。それよりも、弟の大津皇子と石川郎女(いしかわのいらつめ)とのお互いに交換をした相聞歌の愛情の表現は、いつの世も人の感情は変わらないものと思った。

奈良時代の末期ごろ完成した万葉集のなかの石川郎女の作歌には5、6人の女流歌人が見られる。すべて別人かどうかは不明らしい。多くの交際相手があったことと多情多感な人物であっことも知られている。すでに調べている人はかなりいるだろうが、石川郎女の生涯についてレポートをまとめると面白いかもしれない。それよりも復元された斎宮のある場所にはぜひ行ってみよう。(浅見 実)

第311回平成28年6月月例会

研究発表

演題① 「わが歴史体験-奥州山内首藤氏の滅亡をめぐって」
講師: 山内玄人氏
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演題② 「コロンブスのアメリカ大陸発見」
講師: 浅見実氏
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月例会レポート

★6月19日(日)藤沢市善行公民館において、第311回月例会を開催した。参加者は、本日の講師・山内玄人理事が所属されている別の歴史同好会のメンバー5名を含めて、27名であった。久々の盛会であった。

★まず最初は山内理事が「わが歴史体験・奥州・山内首藤氏の滅亡をめぐって」についてお話しをされた。氏がハマっている『自己チュー史学』の研究成果である。楽しく、面白く歴史を抵抗なく学んでいける。

しかも、参考とされる資料は、いい加減な自分の推測、憶測ではなく、資料の裏付も正確で、学問的にも理にかなっている。聞いていて引き込まれる。かなりの時間をかけて調べ上げたのであろう。根気もいる。テーマもマイナーかもしれないが、このような研究態度は、我々にも郷土史、自分史を調査するときにはかかせない。

今回は、氏は父方の祖先についてお話をされた。きっかけとなったのは、宮城県の郷土史研究家の著作を読まれたことであった。そこに登場する山内首藤家が、理事のルーツであると確信をされて、関連をも含めて調べていき、範囲をどんどん拡大していった。

それには、学問的な多くの資料に恵まれること、それと同好の士が他にあることが必要であろう。とにかく自分中心で前人未到の世界を突き進んでいくわくわく感はたまらないだろう。

★次のテーマは「コロンブスのアメリカ大陸への航海について」、浅見が話してみた。我々の歴史の題材を取り上げるときに、そのほとんどは日本史が主体となる。でも、自分は高校生の時に世界史の授業を一年間受講した。そのときに、違う世界の、特にヨーロッパの中世、近世の時代に大いに憧れた。

華やかなパリとか、ロンドン、ミラノ等に、会社を退職後に何度か訪れたこともある。ハプスブルグ家関連のオーストリーのウイーンとかインスブルグとかにも足を運んだ。夢の世界を歩いているようであった。食事もうまかったし、スイーツも疲れを癒してくれた。

テーマであるコロンブスは孤独な地理的発見や探検での航海をしたわけではではない。大航海時代、宗教改革などのいろいろと、動きのある交錯した時期に生きて、その結果その後のラテンアメリカの歴史を大きく変えた人物となったのである。

つくづく感じた。自分の持ち時間の90分は長いと。(浅見 実)

第310回平成28年5月月例会

研究発表

演題① 「太平記を歩く(護良親王編)」
講師  原田信作氏
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演題② 「邪馬台国の新視点」
講師  前田豊氏
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月例会レポート

★5月15日(日) 湘南台公民館で第310回月例会を開催した。参加者25 名(内見学者1名)。会場は30 人しか入れない部屋だったので、少し狭かったかもしれない。でも競争が激しく、なかなか思うように部屋を確保することが難しい。

★当日の月例会開催に先立って、4月に発生した熊本、阿蘇地方の大地震の犠牲者に対して黙祷の後、被害者への義捐金を募ったところ、総額22,028円が寄せられたので、翌日『日本赤十字社』宛てに送金しました。ご協力感謝いたします。

★さて今回の発表者は、歌舞伎にも詳しい原田信作氏と古代史に独特な見解を発表されている前田豊氏であった。まず、原田氏は「太平記を歩く(護良親王編)」について講演された。太平記は、鎌倉幕府崩壊・建武の新政の時代から南北朝時代までのおよそ50余年間の動乱期の状況について全部で40 巻の軍記物語である。華麗な和漢混淆文で描き出されおり、とにかく長い歴史小説であると言えよう。今回の講演をまとめられるのに、かなりの時間を要されたろうと推察し敬服したい。

氏は悲劇の親王の約27年間の生涯の足跡を、時間をかけて実際に訪ねて歩かれた。最後は追っ手に追われて十津川、吉野、熊野等奥深い辺鄙な山の中までもだ。タクシーをチャーターして、『民家もまばらとなり山裾は今にも崩れそうな道』を進んでいった。そこで撮られた関連したいくつもの建造物、遺跡等を綺麗なカラー写真に収められ、資
料に添えられた。土地の人から歴史に関わる貴重な幾つもの事柄を見聞きされ、その収穫は大きかったという。

さらに、氏は親王についてのエピソードを話された。親王は鎌倉で殺されたのではないという幾つかの説があるが、たとえば、足利直義の家臣である淵辺直義氏により首を掻き落としたとされるが、そうではなく、事実は直義の助けにより、鎌倉の海から奥州石巻に落ち延びていったとか。その地にはゆかりの神社もあるという。或いは、相模原市の淵野辺の寺にしばらく潜んでいた等々である。探せばまだまだ幾つもあるのだろう。

★次の講演は、前田古代史のお話である。テーマは「耶馬台国の新視点-東三河・東海関東の役割について-耶馬台国(原ヤマト)は東三河~駿河以東は狗奴国だったか-」のスピーチである。氏はすでに20年以上も前に、耶馬台国は東三河にあったとされる書籍を刊行されている。当会でも、何回かその講演を拝聴している。さらに、その後の研究により、いくつもの追加の証拠を発見して、それらをまとめて考証し、自説をゆるぎないものとしている。そもそも邪馬台国は、もともと中国の『三国志』の魏志倭人伝に記された国名であり、3世紀中ごろの倭・日本の状態を記したものとされるが、中国からの距離について、実際には正確に記載されていないので、その所在について、江戸時代から論議をされているが、今もって何処にあったのか定かではない。そのために九州説、畿内説を始めとしてそれらの候補地は全国では146以上あるらしい。日本全国に広がっている。論外かもしれないが、海をわたって外国説まであるというし、或いは存在しなかったという説まである。そこで、氏の今回の検証で、位置、方向、距離、文化、伝承、土器、文献等あらゆる要素を加味し、九州説、畿内説をも比較をして、東三河こそ本命である。そして、狗奴国はその東、すなわち、富士山の南・駿河地方にあったとされた。流石理科系の人である。理論は緻密、多岐にわたっておりゆるぎない。

★原田氏、前田氏の講演終了後武士俣理事から、( 氏等が主宰しているNPO 法人『湘南遺産プロジェクト』では、未来へつなぐ湘南地方での遺産をインターネット等で募集している) としてその概要の説明があり、投票用紙を配布して《湘南遺産》選定投票を例会出席者に呼掛けられた。(浅見 実)

第309回平成28年4月月例会

研究発表

演題①:「大航海時代と戦国日本(3)(家康〜家光)」
講師: 二階堂玲太氏
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演題②:「応神王朝から継体王朝へ」
講師: 橋本和子氏
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月例会レポート

★4月17 日(日)藤沢市湘南台公民館に於いて第309回の例会を開催した。この日はたまたまちょうど昼頃に、強い春の嵐が吹き荒れる悪天候の日となった。それでも、会場には歴史が大好きな21名のメンバーが集まった。何人かは雨でずぶ濡れになってやってきた。ここに来る交通機関の小田急線が遅れたために、バスを乗り継いで参加したものもいた。さらに今回、当地在住の井上さんの初めてのご参加があり嬉しかった。

★最初の講演は、ペンネーム・二階堂玲汰氏で、テーマは「大航海時代と戦国日本3(家康から家光)」であった。このテーマで氏は一昨年から3年間にわたり当会で講演されており、シリーズもので今回が最終回となる。日本の戦国時代はヨーロッパでは宗教改革とか大航海時代にあたり、その影響が大きかった。もしも、西欧人がその頃日本に来ていなかったならば、歴史は大きく変わっていっただろう。今回の氏の講演でも、偶然なのか関ヶ原合戦の年の1600年に来日したオランダ船・リーフデ号に乗船していたイギリス人の航海長ウイリアム・アダムスや砲手たちが西欧の近代兵器である大砲等をもって戦いに従軍していなかったら、戦況はどう変わっていたか分からない。我々は西軍の小早川秀秋が裏切ったから東軍が勝利したのだと長い間考えていた。江戸期の初めに起こった島原の乱でも、オランダ船が一揆勢に対して、原城を海から攻撃した。相当の効果があったに違いない。
自分は数年前、原城をレンタカーでまわり、あたりの地形をじっくり観察したことがあったが、ここの城には防御のために土塁を築き、7千人程度の大勢の兵士たちが戦闘のために入れるような余地はないように思えた。そんなに広くはない。その際島原城にも立ち寄ってみたが、ここには堂々とした威圧的な天守閣は聳えたっていたが、城内には気分的に入れなかった。藩主松倉重政のキリシタン弾圧について聞いていたから。このレポートを書くために、今回の氏のレジメを読み直してみたが、さすがは作家の文章である。よどみがなく一気に読み込めた。やはり違うなにかがある。

★次の講演は、橋本和子理事で、「応神王朝から継体王朝へ」と題して、お話をされた。まず、3世紀半ばから6世紀までの12代にわたる天皇についての概略を淡々と述べられた。率直に言って自分は日本の古代史については弱い分野であるかもしれない。初めて知ることが多かった。出典である記紀は、まだ仮名文字がなかった時代なので、頻繁に出てくる漢字の読み方も難しい。当然注釈書等の現代訳本等を必要とする。さらには、手元にある高校生のときの教科書を読んでも、聖徳太子以前の日本の歴史に登場する人物は、具体的には卑弥呼以外には、仏教が伝来した当時の蘇我氏と物部氏とのことがら以外にはないようだ。それでも今ではすべては覚えていないが、高校生時代に神武、綏靖、安寧、懿徳…. 以下昭和までの全員の天皇の名前を暗記して得意になっていたものである。すらすらと言えた。クラスでは皆で暗記競争をしたものである。

今回の理事のスピーチにもあった磐井の墓かもしれないという福岡県八女市にある岩戸山古墳に平成28 年4月月例会レポートは、ぜひ一度行ってみたい。八女茶の生産地でもあり、有明海に行けば魚もうまいだろう。氏の講演は、大きな声でポイントをよく押えて、はっきりと分かり易く、難解なテーマである1500年前の時代に、聞くものをして引きずり込んでいった。きっと時間をかけた十分な学習の効果があったからだろう。(浅見実)

第308回平成28年3月月例会

研究発表

演題①:「朝鮮を駆けた近江商人三中井」
講師: 槙良生氏
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演題②:「『横山忠弘著作集』(Ⅱ)について」
講師: 横山忠弘氏
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月例会レポート

★3月20日(日)藤沢市湘南台公民館に於いて第308回の例会を開催した。この日は春分の日とも重なったので、どの程度の参加者があるのか危惧されたが、そんな心配もなく、総勢23名の出席があった。うち、当会のインターネットホームページを見て来られた2名の方の新規ご加入・参加もあり嬉しかった。当会も今後はさらなる発展の時期に入ることを期待したい。共通の趣味である歴史を通して、いろいろ楽しめる賑やかな会となるだろう。

★最初の講演は、「朝鮮を駆けた近江商人・三中井」についての槇良生理事のお話であった。江戸期以前より近江出身の商人は商才にたけていた。高島屋や伊藤忠商事・丸紅等の企業もそのルーツは近江に遡る。この地は京阪と北陸、東海地方とを結びつける街道の起点に位置しているという地理的条件に恵まれており、有力な商人が育ったのだとも言われているが、そればかりではない、刻苦精励の精神があったことにもよるであろう。明治時代の終わりに国策により朝鮮半島に進出して三中井百貨店を創業した三中井一族は、現在の琵琶湖の東方15 キロのところにある滋賀県東近江市五個荘の出である。家業は代々の老舗呉服商であったが、その後、百貨店業務が主体となり、支店網を整備して大陸へも出店していった。一時はかなりに繁栄したという。しかしながら、昭和20 年の終戦と同時に同店の業務は終了した。今では、殆どの人が知らない幻の百貨店王となってしまったが、その名残が彦根市にあり、ご子孫が三中井洋菓子店を営んでいるという。自分もこれから彦根市の観光旅行に行ったときには、彦根城、佐和山城址等の見学を終えたあとに、この店に立ち寄り、そこでの銘菓『オリンピア』を購入し土産にしたいと思っている。理事のお話は、テーマは一見一百貨店の興亡史ではあるが、バックには朝鮮史の確たる深い裏付けがあり、聞きごたえがあった。

★次の講演は、ご自身の作品集である「横山忠弘著作集(2)」についての事務局長のスピーチであった。とにかく学究肌の意欲的な人である。昨年は月刊誌『歴史研究』に掲載された氏の論文50 数編ををまとめて著作集出版されたが、さらに今年は別件で地域・テーマ歴研に投稿して掲載された氏の論文19 編をまとめて、その続編の作品集(Ⅱ)を、編集は武士俣光也理事の協力を得て刊行するのだという。掲載項目を見てみると、古代の倭人の起源から始まり、近現代までと時代は広範囲にわたる。特に、史観が多岐に分かれる明治、昭和さらには現代中国史等々、歴史が大きく変わった時期に重点をおかれている。よくここまで調べ上げておられると感服の至りである。そられのなかでの今回の当会での発表内容は、多分に氏の一番の関心事である『明治の脱亜・滅亜・興亜各論とその行方』についての解説であった。その中で、徳富蘇峰の思想についての説明があった。自分は今年の2月に、二宮町にある徳富蘇峰記念館に行ってみた。閑静な住宅地の温暖な湘南の地にあり、庭園には梅の花が丁度満開であった。展示物も穏やかな、平易なものが多い。見ごたえがある。熊本洋学校さらには同志社に学び、平民主義を唱えた蘇峰は本当は温厚な人物だったのではなかろうかと思わせた。『近世平成28年3月月例会レポート日本国民史』100巻の著作は自由に手に取って読むことができた。

★二次会は、湘南台駅西口の和民で開催。参加16 名。とにかく賑やかであった。自分の得意な分野になると、話し出したら止まらないもの続出、これだから歴史は面白い。(浅見実)

第307回平成28年2月月例会

研究発表

演題①:「明王朝復活にかけた鄭成功」
講師: 竹村紘一氏
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演題②:「木戸 孝允(桂小五郎)の生涯」
講師: 渡邊幸太郎氏
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月例会レポート

★ 2 月21 日( 日)藤沢市善行公民館において第307回の月例会を開催した。参加者は23名。見学者1 名。幸先の良い平成28年のスタートである。

★本年最初の講師は2月例会恒例になっている竹村紘一理事で、「明王朝復活に生涯を捧げた鄭成功」についての講演をされた。日本とも極めて関連が深い中国史のお話である。あの巨大・強力なモンゴル帝国を追い払い、14世紀に明王朝が成立した。

そこを豊臣秀吉の時代になると、秀吉は明の東アジア支配に対抗して、文禄・慶長の役で、朝鮮に侵攻して戦いを挑んだ。しかしながら、明の援助により日本軍は撃退された。けれども約300年続いた明王朝も17 世紀半ばに農民反乱が続発して滅亡することとなった。そして清の出現となったのである。それ以外でも、明には北虜南倭の懸念が多く、国家財政が逼迫して国力も次第に疲弊していったこともある。

そこで、その明王朝復活のスローガンを掲げてその生涯を捧げた鄭成功が出てきた。鄭氏の父親は明の人で鄭芝龍であるが、母親は長崎県平戸の人で日本人である。竹村理事は、鄭成功の一生についてまとめあげられたストーリーを、興味深く話していかれた。また外に4月2日(土)案内される予定の「小田原歴史散歩」の概要も話された。楽しみである。

★次の講師は、渡邊幸太郎理事で「木戸孝允(桂小五郎)の生涯」についてのスピーチであった。豊富な資料を漁り、カラー写真も多く添えた12ページのレジメを作成された。孝允は『維新の三傑』とか『幕末の三傑』とか言われており、長州藩を代表する人物である。生まれは山口県の萩である。孝允にはいくつもの名前があった。生命の危険があった幕末には10種以上の変名を使用したし、通称、雅号等を含めると数えきれないくらいの名前があったとされる。

そして、彼は、学問・剣術に優れ判断力も適切で、ずば抜けていた人物であった。惜しいことに明治10年に持病が悪化してこの世を去った。45歳の生涯はあまりにも短かった、とされた。生きていればその後の日本の歴史はあるいは大きく変わっていったに相違いない。

又、渡邊先生の今回の講義のサブタイトルは、幕末から明治初年を駆け抜けた美人のお話でもあり、それにもかなりjの時間を割かれて、聞いている皆が大いに盛り上がった。毎年の先生の授業は楽しい。

★二次会は、参加者14名、場所を湘南台の居酒屋に移して、各人のユニークな歴史観を、延々と語りあった。さらに有志は三次会でカラオケに行き、レトロな懐かしい昭和の時代の歌の世界にとっぷりと浸った。裕次郎も健在、渡哲也も若くて、ここでは時代は昭和のままで、平成には変わってはいなかった。歌っている皆も30歳以上若かった。(浅見実)

平成28年度定期総会

新年特別講演会

演題①:「神奈川県の三重塔と五重塔」
講師: 江戸の歴史研究会副会長 川崎 克美先生
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①定期総会 ②新年特別講演会 ③新年宴会レポート

★平成28 年度の当会の活動は、1月17 日に藤沢市湘南台公民館からスタートした。今年も歴研本部より吉成主幹をお迎えし、参加者は総勢31 名であった。主幹よりは、お祝い金まで有難く頂いた。大切に使いたい。

まずは恒例の総会から始まった。例年と同じように昨年度の活動状況及び今年度の事業計画を、横山事務局長から淡々と説明して承認されていった。しかしながら予算面で、このところの月例会参加者の人数が、前年に比較して1割程度減少していることが、収入金額の減額に繋がり、2年後の35 周年記念行事の開催にどう影響を及ぼすか懸念材料でもあるとされる。会員の老齢化によることもその原因であろう。あるいは月例会で興味あるテーマの選択も必要かもしれない。

最後に会員よりの質問で、当会総勢50 名位、通常の月例会参加者が20 名あまりなのに対して当会の役員が顧問も含めて16 名いるのは、多すぎるのではないかとの質問があった。確かに、その通り、同感できるし、まさに的を得ている。しかしながら、役員のうち事務局長を含めて7名が企画広報会報担当であり、インターネット等を今後さらに活用して、あるいは皆が楽しめる歴史散策の場所を探し出して訪ね歩くのも、減少している会員の増加に努めるのに大きな力になるのではないかと思えた。

★続いて「江戸の歴史研究会」副会長川崎克美先生より、プロジェクターを駆使して「神奈川県の三重塔と五重塔」についての新春特別講演があった。

我々が主として関西の有名な寺院に行くと、壮大な仏塔があり圧倒されることが多い。法隆寺、薬師寺等の五重塔はその最たるものであろう。でも、残念ながら神奈川県には江戸期以前に造られた塔は、山城国から横浜三溪園の園内に移築されて重要文化財に指定されている旧燈明寺の三重塔以外にはない。

藤沢にある龍口寺の五重塔は明治期の建築である。しかしながら、それでも、長い時代を生き抜いてきた逞しさがあり、気品と風格が感じさせられる。先生の懇切で分かり易い説明を聞いていて、神奈川歴史研究会会員は皆、塔に詳しくなった。自分は郷土史資料で読んだことがある。明治初年の廃仏毀釈の際、鎌倉の鶴岡八幡はそれ以前と比較をして境内の様相が全く変わったという。そこにあった由緒ある護摩堂、経蔵、鐘楼、仏像、仏具、多宝塔等はすべて破壊され、古材となったものが多い。特に、壮大な多宝の大塔は、昔の鎌倉人の自慢の種だったという記録がある。他にも全国で、神仏分離で犠牲になった貴重な塔があるかもしれない。貴重な遺産が失われた。

★夕刻より、新年祝賀会を藤沢市商工会議所レストラン内に移して、貸し切りで賑やかに開催した。出席者総勢29 名であった。いつもこのくらいの人数が月例会に参加してもらえれば嬉しいのだがと感じた。今年は、料理も昨年よりたくさん増やした。飲み物も種類も多くフリードリンクであった。昼間の固い雰囲気はなくなり、和気藹々とそれぞれが歴史の四方山話で盛り上がり、山内、竹村両理事による名司会で祝宴は進んでいき大いに盛り上がっていった。

後半は今年の例会で発表予定のテーマについて、各会員がその講演内容の概略を発表していった。驚いたことには皆真剣にレベルの高い研究をしている。『国姓爺合戦』で知られる鄭成功の物語、かつて朝鮮等の大陸に進出して大きく販路を広げた近江商人の三中井百貨店の話、大航海時代の徳川に対する影響など、世界史との関連。耶馬台国の東海・関東への関与、草木の生い茂る山陰道の廃道を突き進むもの、頼朝のブレーンであったであろう三好康信、更級日記の作者の辿った道、などなど意表をつくテーマも多い。

アルコールのピッチも廻り、これでもかと話し出すと止まらなくなるものもいた程だ。他にも今年の講師の発表は面白すぎる。絶対に聞き逃してはならない。(浅見実)

第306回平成27年12月月例会

研究発表

演題①:「山内首藤氏と宍戸氏の軌跡」
講師: 横山忠弘氏

演題②:「歴史雑感」
講師: 瀬戸淳氏

第305回平成27年11月月例会

研究発表

演題①:「フェリペ二世の生涯」
講師: 浅見実氏

演題②:「(続)東海道を歩く」
講師: 持田信廣氏

第304回平成27年10月月例会

研究発表

演題①:「天石窟戸神話 -記紀原文の語る仰天真相-」
講師: 斉藤守弘氏

演題②:「縄文の謎が解けました -「縄紋」から「縄文」への転換の実相-」
講師: 里見絢子氏

第303回平成27年9月月例会

研究発表

演題①:「宗祇と百人一首」
講師: 津久井勤氏

演題②:「極地交代運動」
講師: 杵鞭充千男氏

第302回平成27年8月月例会

研究発表

演題①-1:「秋の歴史散歩・鎌倉案内」
講師: 橋本欣之介氏

演題①-2:「大久保一翁」
講師: 橋本欣之介氏

演題②:「日本語 のルーツを訪ねる-縄文語の発見について-」
講師: 前田豊氏

第301回平成27年7月月例会

研究発表

演題① 「蒙古襲来考」
講師: 池田勝宣氏

演題② 「歴史研究「特集」横山忠弘著作集について」
講師: 横山忠弘氏

第300回平成27年6月月例会

研究発表

演題① 「鎌倉時代の守護制度について」
講師: 井上誠一氏

演題② 「江戸時代の道を求めて-日向国から豊後国を結ぶ梓街道」
講師: 加藤岩男氏

第299回平成27年5月月例会

研究発表

演題① 「チャールス・H・ダラスと米沢牛の歴史」
講師: 槙良生氏

演題② 「藤原道長の時代」
講師: 橋本和子氏

第298回平成27年4月月例会

研究発表

演題① 「大航海時代と戦国日本2(秀吉編)」
講師:  二階堂玲太氏

演題② 「化石燃料の起源」
講師:  仲西肇氏

第297回平成27年3月月例会

研究発表

演題① 「日本古代史におけるユダヤ民族渡来説」
講師:  島口健次氏

演題② 「空手道の歴史と現状」
講師:  渡邊幸太郎氏

第296回平成27年2月月例会

研究発表

演題① 「薩英戦争勃発の発端・経緯・結末について」
講師:  竹村紘一氏

演題② 「例会発表14年を振り返って」
講師:  原田信作氏

平成27年度定期総会

新年特別講演会

演題 「藤末鎌初に活躍した仏師運慶、快慶」
講師:  横浜歴史研究会会員 「斎木敏夫」

第295回平成26年12月月例会

研究発表

演題① 「歴史雑感3」
講師:  瀬戸淳氏

演題② 「東海道雑感」
講師:  浅見実氏

第294回平成26年11月月例会

研究発表

演題①:「県下の東海道を尋ねて」
講師:  持田信廣氏

演題②: 「安政期における開国と幕府外交」
講師:  橋本欣之介氏

第293回平成26年10月月例会

研究発表

演題①:「茅ヶ崎と市川團十郎」
講師:  原田信作氏

演題②: 「大正時代の政治状況」
講師:  植村泰彦氏

第292回平成26年9月月例会

研究発表

演題①:「戦国を生き抜いた藤堂高虎の実像」
講師:  竹村紘一氏

演題②: 「常在戦場 自筆の軸物を座右の銘としていた 海軍提督 山本五十六」
講師:  武士俣光也氏

第291回平成26年8月月例会

研究発表

演題①:「秋の戸塚~藤沢間歴史散歩」
「家康が開発した保土ヶ谷~藤沢間の新東海道、天下を制す」
講師:  横山忠弘氏

演題②: 「馬の話あれこれ (その二)」
講師:  村本博氏

第290回平成26年7月月例会

研究発表

演題①: 「弥生人が求めた神仙思想と不老不死の世界
~日本精神文化の基層に関する考察~」
講師:  前田豊氏

演題②: 「イザベラ・バードの生涯と今日的意義」
講師:  槙良生氏

第289回平成26年6月月例会

研究発表

演題①: 「鎌倉仏教と鎌倉五山」
講師:  井上誠一氏

演題②: 「壬申の乱と私の歴史観」
講師:  横山忠弘氏

第288回平成26年5月月例会

研究発表

演題①: 「地球大気と生物の歴史・CO2あと0.03%・全滅寸前の植物達」
講師:  杵鞭充千男氏

演題②: 「三種の神器は縄文時代に由来する」
講師:  齋藤守弘氏