中世都市 鎌倉のご案内(井上誠一) 

中世都市 鎌倉のご案内

目次

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井上 誠一 プロフィール

井上誠一(いのうえ せいいち)。神奈川歴史研究会 前会長。
昭和9年横浜生まれ。明治大学商学部卒。平成4年日本冶金工業(株)を定年退職。
平成元年神奈川歴史研究会に入会、平成13年会長に就任。
平成28年逝去されるまで、当会会長を務められました。
昭和58年鎌倉に在住以来、中世都市鎌倉を愛し学び、
永年ボランティアガイドとして活躍されました。


第一部-1 【鎌倉の歴史】


 勝長寿院旧跡

【 勝長寿院旧跡 】

鎌倉が文献にすがたを現すのは『古事記』景行天皇の条が最初で「倭建命御子足鏡別王は鎌倉の別、小津、石代之別、漁田之別の祖」(やまとたけるのみこ、あしかがみのみこは、かまくらのわけ、おず、いわしろのわけ、あきたのわけのそ)とある。

この鎌倉とは後世の鎌倉郡のことであろう。(別=わけ、五世紀以前の王・王子や在地首長に付された称号)
鎌倉郡は国郡里設置の八世紀はじめに置かれたと考えられる。

源頼朝が鎌倉に入る前にはいろいろの文献からでもよく分らなかったが、昭和五十九年〜平成四年にかけて行われた、鎌倉市御成小学校(鎌倉市役所隣)建て替えの時の校庭発掘調査で古代の鎌倉の研究上画期的な大規模な建物跡や掘り込み基礎が掘り出され建物跡の一隅から天平五年(七三三)銘の木簡が出土した。木簡の表には、ほししい(乾燥米)五斗天平五年七月十四日、裏には、郷長丸子□□とあった。ここに供出された、ほししいを収蔵したものと思われる。ここが奈良時代の郡衛(郡役所)の遺跡ではないか鎌倉の中枢部ではなかろうかということがわかった。政庁や高床式の倉庫の跡が出てきた。

奈良時代の「相模国封戸祖交易帳」という相模国司解、(司解=しげ、役所の文書)すなわち相模守の上申書や正倉院古裂、墨書銘また平安時代の「和名類聚抄」(百科辞書)によれば鎌倉郡は沼港(ぬまはま)鎌倉、埼玉、荏草(えがや)尺度(さかど)大島、方瀬(かたせ)などの郷から成っていたようである。
後世の鎌倉は鎌倉、荏草などの郷に当るらしい。

奈良から平安時代の東海道は鎌倉を通り三浦半島を経て走水の瀬戸より房総半島の上総の国に渡る道順であったが、鎌倉はまだ寒村に過ぎなかった。

平安中期清和源氏の源頼信が相模守に任じられ、その子頼義、義家と子孫が続き頼義は前九年の戦勝後、頼信いらいの源氏の氏神で京都山城の石清水八幡宮の分霊を鎌倉由比ヶ浜に勧請したのが現在の元八幡宮で、のち頼朝が由比郷の社殿を小林郷北山に遷し鶴岡八幡宮とした。

第三位寿福寺頼義は坂東の国守に任じられた。義家も平将軍貞盛の孫上総介直方の鎌倉の地を譲り受けた。このようにして鎌倉は源氏相伝の地になった。
義家の曾孫で保元の乱や平治の乱で活躍した義朝は鎌倉寿福寺の地に住んだといわれている。
頼朝が治承四年(一一八〇)一〇月挙兵の折り鎌倉に立ち寄ったことは後々鎌倉に幕府をきずく基になった。

第一部−2 【横須賀線に沿って鎌倉名所案内】①


横須賀線は明治二十二年横須賀軍港への利便のため東海道線大船より枝分かれして線路が敷かれた。大船は当時信号所であつた。鎌倉市は大船駅より鎌倉駅を過ぎ鎌倉と逗子の境の名越のトンネルの所迄である。

大船観音大船駅のすぐ右脇には柏尾川が戸塚の奥より発し下流の藤沢、川名で境川と合流し江の島の入り口で相模湾に注いでいる。
柏尾川の向いの丘に大船観音の慈顔がみえる。この観音像は昭和四年に建造が企画され、昭和九年輪郭だけが出来上がったが、太平洋戦争で中断していた。昭和三十五年に完成した昭和の観音像である。

玉縄首塚柏尾川の川端、榎の下には三十五人塚が建っている。大永六年(一五二六)十一月房州の里見右馬頭義弘が鎌倉に攻め入り、玉縄城主北条氏時と一戦をまじえたのが、この柏尾川の河原であつた。この戦いで北条側の家臣、甘粕一族三十五人が討死をし、その首を葬った所である。

 

右側の奥の山が玉縄城のあつた場所で、玉縄城は中世の名城として徳川家康が廃城する迄、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐え、豊臣秀吉の小田原攻めにも最後まで落城しなかった山城であった。
北条早雲が永正九年(一五一一)関東の覇者となるべく当時の有力者、三浦道寸を三浦半島に追い落とすために造ったものであった。
大船駅の左側は古代より低地で水田が広がり三つの小山が水田の中にあった。中世、その辺りを離れ山と呼んでいた。現在も地名が残っている。

栗舟山常楽寺その一つの山裾に常楽寺がある。粟船山と号し、北条泰時が夫人の母追福のため嘉禎三年(一二三七)建てたお堂で粟船御堂と称した。退耕行勇が開山である、北条泰時は没後ここに葬るられた。その院号から御堂を常楽寺とした。臨済宗建長寺派に属する。

 

横須賀線北鎌倉、小袋谷の踏切の左側に浄土真宗成福寺がある。鎌倉唯一の真宗の寺で貞永元年(一二三二)創建という。開山成仏は北条泰時の末子で、はじめ天台宗の僧だったがのち親鸞に帰依して真宗に改めたという。

第一部−2 【横須賀線に沿って鎌倉名所案内】②


第二位円覚寺

【円覚寺】

北鎌倉駅の左側に鎌倉五山第二位の円覚寺がある。
円覚寺は瑞鹿山と号し臨済宗円覚寺派の大本山である。文永・弘安両役の戦没者の菩提を弔うものであった。円覚興聖禅寺と称する。北条時宗が弘安五年(一二八二)宋の高僧無学祖元を招いて開創した。
時宗は建長寺に居た蘭渓道隆について禅を修め自分も一寺を開きたいと思っているうちに蘭渓道隆が亡くなったため、宋より招いたのが祖元であった。
当初は七堂伽藍や盛時には塔頭が数多く建てられた。たびたびの大火や地震の後も再興されていた。現在の堂宇は元禄十六年(一七〇三)の大地震後のものである。
本尊は木造宝冠釈迦如来座像と脇侍の梵天像・帝釈天像を安置している。塔頭の一つ仏日庵は北条時宗の廟所である。時宗法体像を安置している。

線路の向かい側に東慶寺がある。東慶総持禅寺と称し臨済宗円覚寺派の尼寺であった。
北条時宗夫人の覚山尼が創建した。代々名門出の女性が住職として入り江戸時代は松ケ岡御所などと別称されていた。縁切寺としての寺法を制定し女性保護をめざした。江戸時代、駆け込んだ女性が三年間(のち二年間)修業すると離婚ができ新しく世に出られた。明治に入ってからは尼寺を廃し男性が住持している。

鎌倉寄りに浄智寺がある。鎌倉五山第四位の寺で金亀山と号し臨済宗円覚寺派の末寺である。開山は宋僧 庵普寧(ごったんふねい)で開基は北条時頼の三男宗政と子の師時(十代執権)の両名とされている。仏殿曇華殿には釈迦・阿弥陀・弥勒の三仏が祀ってある。

山の内の踏切を左に入ると明月谷の奥に明月院がある。禅興寺跡で、禅興寺は北条時宗が開き大覚禅師が開山であったが、明治初年に廃寺となって、今は塔頭の明月院が残っている。旧禅興寺地内に北条時頼の墓がある。明月院は上杉憲方の開基とされ建長寺派に属している。近年は参道の両側にたくさんの「あじさい」の花が植えられ花の時季はみごとな眺めになり、大勢の人が見物におとずれる。鎌倉のあじさい寺と称せられている。

JRの線路に戻って左に行くと建長寺がある。巨福山と号す。鎌倉五山第一位の寺で建長興国禅寺と称する。臨済宗で蘭渓道隆を開山とし、北条時頼が建長五年(一二五三)武家の祈願所並びに禅の修業道場として建立した。仏殿には伝応行作の約五米の巨大な地蔵菩薩が安置されている。仏殿の前には樹齢何百年かの柏槇の大樹もみごとである。境内を奥へ奥へと進むと石段の登りになり半僧坊権現に行きつく。ここからの眺望が良く、鎌倉の海や緑の山々が見渡せる。天園へのハイキングコースにもつながつていて大勢の人が歩いている。


第一部-2 【横須賀線に沿って鎌倉名所案内】③


横須賀線はトンネルに入る。亀ケ谷のトンネルである。亀ケ谷の切通は鎌倉七切通の一つで山の内と扇ケ谷を結ぶ鎌倉開府以前からの旧い道である。この切通しは非常に険しく亀も途中からもどって来るというところから亀返し坂といわれた。それが亀ケ谷になったようだ。

トンネルを出て左側に浄光明寺がある。泉谷山といい古義真言宗泉湧寺派である。建長三年(一二五一)北条長時(六代執権)が中興し浄土宗から真言・律・禅・浄土の四宗兼学に改め浄光明寺と称した。開山は真阿である。元弘三年(一三三三)護良親王の祈願所となっている。
足利尊氏は中先代の乱後、朝廷と対立し、ここ浄光明寺に蟄居していたが、弟直義に説かれて後醍醐天皇に背く決意を固めた場所で、南北朝の戦乱が始まった。本尊は阿弥陀三尊像である。

線路の右側奥には海蔵寺がある。扇谷山と号し臨済宗である。
開山は心昭空外、開基は上杉氏定である。本尊薬師如来像は「啼薬師」の名がある。
海蔵寺案内板

【海蔵寺案内板】

 

岩船地蔵堂(海蔵寺)寺伝によると開山空外といわれる源翁が小児の泣き声の土中を掘って発見した薬師の面部を胎内におさめてあるという。
子供の守り仏として尊崇されている。

 

 

 

 

底脱の井花の寺といわれ境内には時季に応じて各種の草花が咲き気持のなごむ寺である。
近くに鎌倉十井の一つ底脱の井と十六の井がある。

 

 

 

 

途中左側の谷が梅ケ谷で、登ると化粧坂となる。鎌倉時代化粧坂は鎌倉街道の道として利用され、七切通しの一つである。新田義貞鎌倉攻めの激戦の地でもあつた。地名の由来は、平家の大将の首を化粧して首実験したとか、遊女がこの辺りに住んでいたとかいうが、木生坂のことだろうという。

坂の上が源氏山「白旗山」で八幡太郎義家が奥州征伐の際、源氏の白旗を掲げて気勢を
上げた場所といわれている。 少し下ったところに、銭洗弁天がありいつも善男善女でにぎわっている。


第一部-2 【横須賀線に沿って鎌倉名所案内】④


鎌倉駅に向って行くと右側に英勝寺がある。浄土宗で東光山と号す。
太田道灌の屋敷のあった所で、寛永十一年(一六三四)徳川家康の側室お勝の方が落飾して英勝院となり、この地をもらい受けて尼寺を造立した。英勝院は太田道灌の子孫で水戸徳川頼房の養母であつた。その関係で第一位に水戸の息女を迎え水戸様の尼寺と呼ばれ寺格も高かった。
現在まで続く鎌倉唯一の尼寺である。木造阿弥陀三尊像を安置している。
寺宝に阿弥陀如来立像、善導大師像、日光大師像などがある。

隣の寿福寺は鎌倉五山三位の寺で臨済宗建長寺派で亀谷山寿福金剛禅寺といい、正治二年(一二00)北条政子が栄西(開山)のために伽藍を寄進した。
仏殿には本尊の乾漆釈迦如来像、木造達磨大師坐像、伽藍神像、源実朝像が安置されている。他に木造地蔵菩薩立像、木造栄西禅師坐像などがある。
境内の奥の墓地の一画に北条政子と源実朝の墓といわれるヤグラがある。
鎌倉八幡宮大鳥居

【鎌倉八幡宮大鳥居】

線路の左手が有名な鶴岡八幡宮である。
源頼朝が治承四年(一一八〇)鎌倉に入って由比郷の(元八幡)を小林郷北山に遷し鶴岡八幡宮新宮若宮とした。源平池や若宮大路も造った。建久二年(一一九一)大火で八幡宮が類焼したので、大臣山の中腹に社殿を造り
あらためて石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮とした。明治維新まで神仏混交で八幡宮寺
といっていた。(仁王門、薬師堂、鐘楼、大塔などがあった)
明治初年の神仏分離によって仏教色は一掃されたので境内が広々している。
 鎌倉大町の本覚寺

【鎌倉大町の本覚寺】

鎌倉駅を出るとすぐ左に本覚寺がある。
妙巌山といい日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、開山は日出上人、日蓮宗東国の本山で東身延山の称がある。「吾妻鏡」所見夷堂の跡で日蓮上人が佐渡から帰ってここに留まった。のち身延へ移って行った。
本尊は三宝祖師で地元では日朝様と呼んで中興の祖二世日朝をたたえている。
正月十日は恵比寿講でにぎわう。境内に鎌倉時代の有名な刀鍛冶五郎正宗の墓がある。


第一部-2 【横須賀線に沿って鎌倉名所案内】⑤


妙本寺本堂

【妙本寺本堂】

滑川を渡った山側に妙本寺がある。
妙本寺はもと比企能員の屋敷があった所で、能員は頼朝の乳母比企禅尼の甥で頼朝に仕えた。
その娘が二代将軍頼家の夫人となり一幡を生み恩恵を得た。
北条氏に対抗した能員であったが、姦計にかかり滅ぼされてしまった。寺伝に拠れば、能員の末子三郎能本が残り、成長して日蓮の弟子になり、比企一族の霊を弔うため、のち日朗を開山とし法華堂を建て、山号を長興山とした。
祖師堂には、日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる坐像が安置されている。
比企一族の墓

【比企一族の墓】

境内に一幡の袖塚と南に比企一門の墓がある。境内は広々していて桜の時は特に良い。

若宮大路を渡った右側に元八幡社がある。
平安時代の前九年の役戦勝を祈念して、源頼義(義家の父、義朝の五代前)が康平六年(一0六三)京都の石清水八幡を勧請して由比郷に社を建てた。このあたり由比郷鶴岡といった。源頼朝が治承四年(一一八0)小林郷に移して現在の鶴岡八幡宮にした。ここは元八幡と呼ばれている。

大町の踏切の手前左側に安国論寺がある。
日蓮が安国論を書いた所といわれ日蓮上人草庵跡の碑が立っている。妙法山と号し寺伝によれば建長五年(一二五三)五月鎌倉に入った日蓮が松葉ケ谷の岩窟を庵として説法したという。山門を入った右側に「立正安国論」を草したという法窟と小庵があり、正面に日蓮の像を安置する本堂がある。

踏切を渡った側に長勝寺がある。
寺伝によると日蓮に帰依した石井長勝は出家して日除と称し自分の邸を寺に改めたという。本堂前に日蓮の像が立っている。この像は高村光雲作で戦後東京洗足池畔より移されたものである。

逗子との境にトンネルがある。名越のトンネルである。名越の切通しが上に通っている。
「新編鎌倉志」には名越切通は三浦に行く道で、この峠は鎌倉と三浦の境である。
甚だ険峻で道が狭く左右よりおおわれる峯が二ケ所あり里俗によれば、大空洞(ほうとう)
小空洞という。馬一頭がやっと通れるくらいの道幅の所があった。
北条氏が最大の敵三浦氏の防衛のため最も重要とした地点であった。逗子側は崖になっており、山が朝比奈峠へと続いている地点である。崖には北条泰時が三浦氏防衛のため切開いたという切岸(三米~五米ぐらい垂直に崖を切り落とした)が名越の切通しから法性寺の背後迄長く続いている。

トンネルを抜けると逗子市になる。


第一部-3 【江ノ電に沿って鎌倉名所案内】①


江ノ電は明治三十五年~四十三年(一九〇二~一九一〇)に掛けて開通した。当初は藤沢~江の島間で後に鎌倉迄通じた。

六地蔵

【六地蔵】

由比ガ浜通り(武蔵大路)の踏み切りの先に六地蔵が建つている。六体の石の地蔵尊像が並べて安置してある。
元刑場跡といい刑死者の供養のために建てられたものという。
その傍らに芭蕉の句碑がある。「夏草やつはものどもの夢のあと」である。

この句は芭蕉の奥羽での詠であるが、鎌倉の荒れはてた有様を見て同じ感想にうたれ建てたものであろう。それよりここを芭蕉が辻といつている。

和田塚駅の左側に和田塚がある。世俗には和田合戦のときの一族の塚を誤って伝えているが、上古の古墳である。和田合戦は頼朝創業以来の元勲和田義盛が北条義時の謀計にかかり建保元年(一二一三)北条氏を攻め鎌倉中が三日間にわたり戦場となつた戦いの末和田一族が滅んだ事件であつた。

由比ガ浜通りを先に行くと盛久頸座がある。盛久は平家の御家人主馬盛国の子主馬八郎左衛門である。「平家物語」によると盛久は京都に隠れ、等身の千手観音像を造り清水寺の本尊の右脇に安置して平家の冥福を祈り千日詣をしていた。
頼朝がこれを聞き京都守護をしていた北条時政に命じ捕らえて鎌倉に護送をさせ由比ガ浜にて斬罪にせんとした時土屋宗遠が斬りつけたが、太刀が中ほどで折れてしまつた。再度の打太刀も折れたので不思議に思って宗遠は使者を頼朝にたてこの由を頼朝に上申した。
頼朝の夫人政子も夢に老僧が現れ盛久の斬首の罪を許せと述べるのを聞いた。このことを頼朝に話これによって盛久は召還された。

少し先の右側に甘縄神明神社がある。甘縄は海士縄とも書き社は「吾妻鏡」建久五年六月二十六日条には「是れ伊勢別宮也」とみえるが本来は神宮の遥拝所であろう。
長谷の鎮守社とされもと指定村社になつていた。

江ノ電長谷駅より右側に行くと長谷寺入り口になる、由比ガ浜通り真っ直ぐである。
長谷寺は海光山慈照院長谷寺と号し開山は徳道上人で開基は藤原房前と伝えられている。
浄土宗で坂東三十三観音札所第四番である。天平八年(七三六)草創とするが定かでない。
石段を上がると本堂に達する。本堂は宝徳二年(一四五〇)足利八代将軍義政の再建で正保二年(一六四五)酒井忠勝が奉行となりさらに修復された。
本尊は十一面観世音菩薩である。ここは由比ガ浜の波打ち際から葉山海岸、三浦半島の丘陵も見え風光が明媚な場所である。

すぐ隣りに日蓮宗光則寺がある。行時山と号し元妙本寺末で開山は日朗である。
北条時頼の臣宿屋左衛門尉光則の屋敷跡である。光則は日蓮の竜口の法難を免れたのを期に自分の屋敷を喜捨して信仰を起こし自ら開基となり日朗を開山とし草庵を結んだ。
光則の父行時の名を山号、わが名を寺名とした。寺内に光則の墓と日朗の土牢がある。
本堂前のカイドウが昭和三十八年に鎌倉市の天然記念物に指定された。花の時季は見事である。

由比ガ浜通りから北へ四〇〇米ぐらい行くと高徳院で露座の大仏がある。
これが鎌倉の大仏である。昔はここが深沢の一部だつたので深沢大仏といつた。
大仏像は、大異山高徳院清浄泉寺の本尊である。寺はもと真言宗であつたが、
正徳二年増上寺の祐天上人が再興したさい獅子孔山と号し従来の真言宗を改めて浄土宗となり光明寺末となつた。大仏像は高さ十一、三六米(三丈五尺余)「新編相模国風土記稿」
には髪際から趺座に至るまで四丈二尺とする。「東関紀行」によると「阿弥陀如来」とみえる。北条泰時の嘉禎四年(一二三八)~寛元元年(一二四三)にできたようだ。
最初は木像であつたが、建長四年(一二五二)に鋳造を始めた。
大仏は始めは建物の中にあつたが、たびたびの大風にて仏殿が倒壊し明応四年(一四九五)八月十五日の地震で津波が襲い殿舎は流され礎石だけとなりついで廃寺となつた。仏像だけは露座になり今に至っている。

第一部-3 【江ノ電に沿って鎌倉名所案内】②


御霊神社宝蔵庫

【御霊神社宝蔵庫】

江ノ電の線路のすぐ脇に御霊神社がある。御霊神社は古記には五霊社とも書いてあるが、御霊と五霊と音が類するものであらう。長谷の鎮守で鎌倉権五郎景正を祭って有る。景正は相模平氏の出で、源義家の後三年の役に従軍して活躍をした。
毎年九月十八日には有名な面掛行列が行われる。

左側より極楽寺坂切通を行くと坂の下に星月夜の井がある。鎌倉十井の一つである。
星月夜とは星が月の代わりをしている夜で暗い夜を意味している。この井は里人の伝では昔この井の中に昼もなお星の影が見えたというのでこういつたという。この井の上に虚空蔵堂がある。星月山星井寺と号し成就院の持である。

切通しの上に成就院がある。普明山法立寺成就院と号し古義真言宗でもと京都青蓮院末、いまは大覚寺末である。承久元年(一二一九)北条泰時の創建で空海が護摩供を修した跡に建立したものという。本尊は不動明王である。新田義貞鎌倉攻めで荒らされ西谷に移ったが元禄のころ旧地に戻ったという。

極楽寺山門

【極楽寺山門】

極楽寺坂切通は由比ガ浜の坂の下から極楽寺門前に至り稲村ガ崎をへ七里ガ浜から腰越、藤沢に出てはるか京都に通じる道に当っていた。切通しを越えた所に極楽寺がある。
極楽寺は霊鷲山感応院極楽寺と号し、真言律宗で奈良西大寺末である。開山は忍性、開基は北条義時の三男、重時である。正元元年(一二五九)に建立された。本尊は釈迦如来である。全盛期は大寺で多数の伽藍と塔頭を備えていたが、合戦や火災、地震等により今は吉祥院の本堂だけが残っている。線路の脇に阿佛屋敷跡の碑がある。阿佛尼が鎌倉に着くとまずこの地に住んだという。坂を下ると針磨橋がある。鎌倉十橋の一つである。

稲村ガ崎駅の左側に大館宗氏主従十一人の墓がある。大館宗氏は新田義貞、鎌倉攻めの浜手の大将として来り前浜の民屋を焼いたが、北条軍に攻められていつたん腰越に退き再び
とつて返したものの稲瀬川で戦死した。
里人はここが戦没した新田軍勢の軍士十一人の屍を埋めて塚を築き上に十一面観音の堂を建てた跡であるという。

海岸に出た所が稲村ガ崎の古戦場である。海岸に岬が突き出して稲を積んだような形をしていると感じ稲の文字を用いたのであらう。
今は道はないがもとはその岬の下の砂上に小径があつて、鎌倉に出入したのであらう。
江ノ電で景色の良い稲村ガ崎から七里ガ浜、腰越に着くと右手に満福寺がある。源義経の腰越状で有名な寺で、腰越状の下書きや弁慶の腰掛石、錫状、義経絵巻襖絵等がある。竜護山医王院満福寺と号し古義真言宗である。本尊は薬師如来である。
開山は行基と伝え中興開山は高範という。

海側には小動神社がある。源平合戦に活躍した佐々木盛綱が小動山に上り、風光と松に感激して、日頃信仰する近江国八王子宮を勧請したのが始まりといはれ、新田義貞が鎌倉攻めをした時神社に戦勝祈願をし成就後に太刀と黄金を寄進したといはれている。

江ノ島駅近くに竜口の竜口寺がある。日蓮の刑場の跡である。日蓮が処刑されようとした時(竜の口の法難)に偶然の出来事で処刑を免れた。その場所に弟子日法が日蓮の像を刻んで延元二年(一三三七)に小堂を建て安置したのが始まりと言われている。慶長六年(一六〇一)信者が土地を寄進し、大本堂が建立された。
海に掛けられた大橋を渡って江ノ島に行く。
絵島、壊島、荏島などとも書かれるが絵の島の意であらう。周囲約二キロ二百メートルの小島で海岸は岩礁である。名勝として有名になつたのは江戸時代からである。

江ノ島の神社は辺津、中津、奥津、の三社からなり、俗に下社、上社、奥社と称した。弁財天を勧請した。それぞれ寺を分司している。金亀山興願寺といい真言宗で仁和寺末である。江ノ島神社の祭神は明治初年以後宗像三神を祭神としている。
江ノ電は境川の鉄橋を渡ると藤沢に入る。


第一部—4 【金沢道に沿って名所案内】


金沢道は八幡宮の横小路と小町大路の交差したところ筋替橋よりはじまっている。鎌倉宮への岐れ路を過ぎ左に関取場跡がある。天文十三年(1544)後北条が荏柄天神の社殿造営の費用を得るためにここに関所を設け関銭を徴収したという。向い側より滑川の大御堂橋を渡ると目の前に文覚上人の邸跡の碑がある。文覚上人は源頼朝の挙兵に力を貸した。京都高尾の神護寺再興勧進のため鎌倉に住んだ。

文覚上人屋敷跡(金沢道)

文覚上人屋敷跡(金沢道)(撮影 武士俣 光也氏)

荏柄天神の紅梅

荏柄天神の紅梅(撮影 武士俣 光也氏)

大御堂谷に入ると谷戸奥に勝長寿院の旧跡碑が立っている。元暦元年(1184)頼朝が父義朝と鎌田正清の菩提を弔うために建てた寺で南御堂または大御堂といった。頼朝は後白河法皇にお願いして義朝の首を捜し出させて鎌倉へ送ってここに葬った。のち源氏の菩提寺となったがいつ消失したかわからない。滑川に沿って上り右手の谷戸が釈迦堂ケ谷で「吾妻鏡」に執権北条泰時が元治元年(1224)十一月十八日亡父義時の一周忌追善のために立柱建立した釈迦堂があったという。この谷戸の東から名越へ通じる抜け道が釈迦堂切通しである。側壁にヤグラがあり五輪塔が見える。切通しを越えた左側に北条時政の名越邸があったと伝えられている。尾根の中腹に日月やぐらと唐糸ヤグラがある。

杉本観音(金沢道)

杉本観音(金沢道)(撮影 武士俣 光也氏)

滑川に戻り犬懸橋を渡った向い側に杉本観音がある。大蔵山杉本寺観音院と号し天平六年(734)行基の創建と伝える。頼朝幕府創設以前にあった寺の一つである。本堂には伝円仁作本尊十一面観音菩薩立像(重文)がある。他に源信作という木造十一面観音立像と平安時代一木造り十一面観音像がある。坂東三十三観音霊場の一番札所でもある。寺の上に和田義盛の父杉本太郎義宗の居城があった。杉本城といった。
 金沢道を進むと右側の華の橋の先に報国寺がある。臨済宗で功臣山報国建忠禅寺という。康永二年(1343)の創建である。足利尊氏の祖父家時の開基で開山佛乗禅師である。家時の法号を取って報国寺とした。本尊釈迦如来像脇侍文殊、普賢の両菩薩で迦葉尊者
像と阿難尊者像を配している。本堂裏手に広がる竹林が有名な竹の庭で石仏や五輪塔が配されている。竹の寺といはれている。
 金沢道を横切った向い側に浄妙寺がある。臨済宗で稲荷山という。鎌倉五山第五位の寺である。文治四年(1188)尊氏の六代前の足利義兼が開創した。開山退耕行勇ではじめ真言宗で極楽寺といつた。義兼の子義氏のとき禅宗に改めたらしい。のち尊氏の父貞氏が中興し元弘元年(1331)貞氏が没するとここに葬られその法号を取って浄妙寺と改称した。寺宝に鎌倉時代の頂相(禅僧の肖像)木造退耕行勇坐像がある。本堂裏の墓地に足利貞氏墓と伝える宝篋印塔がある。金沢道を先に行くと青砥橋や泉水橋を過ぎ左に入った所に明王院がある。明王院は古義真言宗で飯盛山寛喜寺明王院五大堂という。嘉禎元年(1235)四代将軍藤原頼経が創建した。本尊は不動明王像を中尊とする五大明王像である。当初は五大堂、春日社、北斗堂があったが江戸初期に焼失した。現在の本堂はその後のものである。大江広元の屋敷跡が明石橋付近にあった。大江広元は、久安四年(1148)~嘉禄元年(1225)大江匡房の曾孫維光の子で中原広秀の養子である。はじめ朝廷の少外記となり後頼朝の招きで鎌倉来て公文所別当、政所別当を兼ね幕政に深く参与した。頼朝の死後は北条義時、泰時を助け執権独裁体制の確立に寄与した。右側に入ると光触寺がある。岩蔵山といい藤沢遊行寺の末寺である。もとは真言宗の寺であつたが一遍上人に帰依して時宗に改め作阿上人を開山とした。本尊は阿弥陀三尊である。寺宝に伝運慶作の阿弥陀、安阿彌作の観音、堪慶作の勢至などの仏像がある。現在の本堂は元禄十六年(1703)の再建である。
 本堂の右に塩嘗地蔵がある。かつては金沢道の辻堂にあつた。六浦の塩売りが鎌倉へ来るたびに初穂として塩を供えると帰りにはなくなつていたという。
 石造地蔵菩薩である。朝比奈峠に向かって先に行くと左手に十二所神社がある。
熊野十二所権現を勧請したもので村社になつている。下段の滑川に沿って進むと梶原太刀洗水にでる。梶原景時が上総介広常を討つたあとで太刀を洗ったところと伝えられている。
   
朝比奈切通し

朝比奈切通し(撮影 武士俣 光也氏)

塩嘗地蔵

塩嘗地蔵(撮影 武士俣 光也氏)

           

いよいよ朝比奈切通しへと進む。途中小滝があり、朝夷奈切通碑が立つている。この滝の上の谷戸が上総介広常邸跡という。沢道を登ること五百米ぐらいで朝比奈切通しに着く。仁治元年(1240)十一月幕府は新道建設をきめ翌春には執権北条泰時がみずから監督に出向いたという。「吾妻鏡」仁治元年十一月三十日の条に「鎌倉と六浦の津との中間に始めて道路を当らるべきよし議定あり、今日縄を曳き丈尺を打ち、御家人等配分せらる、明春三月以後に造らるべき仰せ付らる。」とある。朝比奈切通しは鎌倉と六浦(房総)とを結ぶ陸路の重要拠点となつた。この工事は速やかに完成したが世人は神業とはやし大力無双の朝比奈三郎義季(和田義盛の子)が一夜で切り開いたという伝説がうまれた。切通しを越えると横浜市である。


第一部—5
【鶴岡八幡宮から大蔵幕府跡、源頼朝の墓を見て鎌倉宮と瑞泉寺へ】

鶴岡八幡宮を左に出ると小町大路の角に天台宗宝戒寺がある。
後醍醐天皇の命により足利尊氏が建てた寺で、北条氏の屋敷跡である。北条氏の菩提を弔うものであった。元弘三年(一三三三)五月二十二日新田義貞の鎌倉攻めで、北条一族は氏寺の東勝寺に集まっていた。戦況は不利で夕刻鎌倉市街から黒煙が上がるのを見て、これまでと一族三百六十四人が自害して果てたところである。山際に北条高時の腹切りヤグラがある。

宝戒寺入口

宝戒寺入口 (撮影 武士俣 光也氏)

大蔵幕府旧跡

大蔵幕府旧跡 (撮影 武士俣 光也氏)

少し先に大蔵幕府跡がある。源頼朝が住んだ所で治承四年(一一八0)~嘉禄元年(一二二五)まで四十七年間武家政治の中心の場所であった。北側の大倉山の中腹に頼朝の石塔の墓がある。頼朝は正治元年(一一九九)正月十三日に他界した。この石造層塔は安永八年(一七七九)頼朝との深い縁故がある薩摩島津家の重豪が墓所を整えた。
ために線香台に島津家の紋が付けられている。多層塔は源氏の氏寺のあった大御堂から移したものらしい。

先に行くと荏柄天神社がある。長治元年(一一0四)の勧請という。鎌倉幕府以前から鎮座していた。幕府が大蔵に置かれるに当り鬼門の鎮守として社殿を修復したという。

祭神は菅原道真と熊野三柱神で、社宝に木造天神立像がある。
大塔宮

大塔宮護良親王を祀る (撮影 武士俣 光也氏)

お宮通りの正面が鎌倉宮である。明治二年(一八六九)明治天皇の勅命により、大塔宮護良親王を祀る社として創建された。

覚園寺愛染堂

覚園寺愛染堂 (撮影 武士俣 光也氏)

左の谷戸が薬師堂ケ谷で突き当たると覚園寺がある。鷲峰山真言院覚園寺という。
古義真言宗、京都泉湧寺派である。もとは四宗(真言・律・禅・浄土)兼学だったが、
明治初年の一寺一宗制により本山に合わせて古義真言宗となった。開山は智海心慧、開基は北条貞時である。愛染堂には木造愛染明王坐像が,地蔵堂には像高一米七十センチの木造地蔵菩薩立像があり、「黒地蔵」の名で親しまれている。本堂は薬師堂で文和三年(一三五四)足利尊氏の援助で本堂が再建された。本尊は鎌倉時代の木造薬師如来坐像、脇侍は室町時代の木造日光・月光両菩薩である。さらに左右に木造十二神将立像が立ち並んでいる。

右に行くと紅葉ケ谷の奥に瑞泉寺がある。途中テニスコートの裏が永福寺の跡である。源頼朝が奥州征伐より帰って建久三年(一一九二)に建てた寺であった。源義経と藤原一族の菩提を弔うものであった。平等院形式の薬師堂と阿弥陀堂が左右にあり、本堂が真ん中で二階建てになっていた。立派な寺であったが、惜しい事に応永十二年(一四○五)頃の大火で消失して以後再建されなかったようだ。

二階堂川を渡り奥には瑞泉寺がある。臨済宗円覚寺派で山号を錦屏山という。
嘉暦二年(一三二七)二階堂道温(貞籐)が開基で夢窓疎石が開山で瑞泉院として創建された。後瑞泉寺と改めた。本堂裏に開山夢窓国師の作った枯山水の庭が三十年前に発掘された。本尊は釈迦如来像、徳川光圀寄進の木造千手観音坐像、木造夢窓国師坐像がある。

第一部—6 【鎌倉時代の賑わいの大町大路をたどり材木座海岸へ】

若宮大路、下馬四つ角より横須賀線の踏み切りを渡った先が大町で鎌倉時代より町人の町屋として賑わっていた。米町、魚町、辻町等生活に密着した町の名がついていた。
大町四つ角を海に向って行くと逆川橋が架かっている。十橋の一つである。この辺り川が海に向かい逆に流れているので逆川といつたようだ。

辻薬師堂

辻薬師堂 (撮影 武士俣 光也氏)

横須賀線の際に辻薬師がある。この当りが古名の辻町で堂名はこれによった。堂内には薬師三尊を中心に十二神将が並んでいる。踏み切りを渡ると右側に元鶴岡八幡宮の標石が立っている。

鎌倉鶴岡八幡宮

鎌倉鶴岡八幡宮 (撮影 武士俣 光也氏)

源頼義が石清水八幡宮から勧請して鎌倉に八幡宮を建てた。後頼朝が小林郷にうつして、鶴岡八幡宮とした。

さらに先へ行くと右側に乱橋の石碑がある。「辻町と材木座との境する細流に架かる橋で鎌倉十橋の一つなり」とある。元弘の変の時新田義貞の鎌倉攻めで、この当りは北条勢と激突した所であった。北条勢が崩れはじめた所から乱橋の名が付いたと言う。

向い側に日蓮宗の妙長寺がある。海潮山と号しもと妙本寺末である。日蓮が精力的に活動し政治を誹謗したり、大衆を惑わしたりする者として伊豆伊東に流されることになり、この地から船出した。のち日実が旧跡に堂守を建てた。

妙長寺の裏道に来迎寺がある。時宗で随我山という。音阿の開山で、本尊は阿弥陀三尊である。この阿弥陀像は三浦大介義明の守本尊であつたと伝えられている。
本堂の右側に廟堂があり、背後に五輪塔二基が立つている。一基は義明で一基は子の多多良重春の墓という。

さらに、海に向うと、実相寺がある。日蓮宗弘延山実相寺という。弘安五年(一二八二)風間信濃守信昭の創建で日昭が開山である。
表通りに移ると、角に九品寺がある。浄土宗で内裏山霊嶽院九品寺という。もと光明寺末で開基は新田義貞である。建武三年(一三三六)戦死者を供養するために造立した。開山は凡航順西で、本尊は阿弥陀三尊である。
寺宝に石造薬師如来坐像と石造閻魔大王像、石造奪衣婆像などがある。

海の近くに補陀落寺がある。古義真言宗で養和元年(一一八一)頼朝が祈願所として文覚に創建させたと伝える。

光明寺山門

鎌倉で最大と言われる光明寺山門 (撮影 武士俣 光也氏)

左手奥に浄土宗関東総本山の光明寺がある。天照山蓮華院光明寺という。念阿良忠が仁治元年(一二四○)鎌倉に入り北条経時(四代執権)の帰依をうけて佐助ケ谷に蓮華寺を創建した。寛元元年〈一二四三〉五月蓮華寺を材木座に移し光明寺と改めた。明応四年(一四九五)後土御門天皇の勅願所となり、十夜法要をゆるされた。本堂は十七間四面の雄大な建物で、本尊は阿弥陀三尊像が、安置されている本堂右側は浄土式枯山水庭園の「三尊五祖来迎の庭」がある。眼の前が材木座海岸である。

和賀江島石碑

和賀江島石碑 (撮影 武士俣 光也氏)

海岸の逗子よりの入江に和賀江島の碑が立っている。鎌倉時代の港の跡という。 


第一部—7 【鎌倉駅西口から梶原を経て大船へ歩く】


鎌倉駅西口から真っ直ぐ行くと市役所の前を通りトンネルを越えた所が佐助で信号を右折してしばらく行き左の谷戸の奥に佐助稲荷がある。源頼朝が伊豆の流人の時病気になり夢の中で白髭の老人の助言で病気平癒し、完治したら兵を挙げよ自分は隠れ里の稲荷であるとつげられた。頼朝が幕府を開いたとき、これもひとえに隠れ里の稲荷のおかげであると、この地に祠をみつけお宮を建てたすけ稲荷と名ずけた。頼朝幼少の頃佐(すけ)殿と呼ばれていて、佐(すけ)が助けられたから、たすけ稲荷といったのが何時の頃からか佐助稲荷といわれるようになった。

もとの路に戻り、更にトンネルを2つ過ぎた右側に北条政村の常盤邸の趾がある。北条義時の第4子で7代執権にもなっている。時宗を良く補佐した。

常盤に入ると右側に日蓮宗の円久寺がある。室町時代の創建といわれている。
並に八雲神社がある。常盤の鎮守である。
藤沢への街道を別れて山際の旧道を行くと梶原に出る。右奥1.5キロ先が葛原岡に至り化粧坂に通じている。新田義貞が鎌倉攻めの一口になったところで鎌倉方の守りが堅く攻めきれず退いたところである。
旧道を進むと御霊社の前に出る。鎌倉権五郎景政の霊を祀るとした。

御霊神社

鎌倉権五郎景政の霊を祀る「御霊神社」 (撮影 武士俣 光也氏)

隣にある深沢小学校の校庭に梶原兄弟の墓と伝えるものがある。高さ2m・幅2.5m・奥行2mばかりのヤグラ内に五輪塔4基が並んでいる。
旧道に沿って更に行くと東光寺がある。真言宗で天照山薬王院と称す。本尊は不動明王である。創建は永享3年(1431)と伝える。
少し先に臨済宗円覚寺派の大慶寺がある。霊照山と号し弘安年間(1278〜87)に大休正念(仏源禅師)によって開山したという。本尊は釈迦如来である。

大慶寺山門

大慶寺山門 (撮影 武士俣 光也氏)

等覚寺

等覚寺萱葺きの山門 (撮影 武士俣 光也氏)

当時は塔頭も5院あり関東十刹のひとつに数えられた大きな寺であったが戦国時代に灰燼に帰し荒廃した。のち塔頭の一つが円覚寺の末寺大慶寺として復興した。
進んで行くと美しい山門萱葺きの薬医門のある等覚寺に出る。真言宗で休場山弥勒院等覚寺と号し応永年間(1394〜1428)秀恵僧都の開山である。本尊は不動明王である。

京急の自動車専用道路を大船方面に行くと左手に州崎古戦場の石碑が建っている。元弘3年5月18日新田義貞鎌倉攻めの時に北条側が迎え討ったのが赤橋相模守守時であった。切り合いが65度に及んだという激戦であったが、北条側が負け守時は自害した。其の戦死者の供養塔といわれているのが旧国鉄工場敷地内にあり泣き塔と呼ばれる宝篋印塔が立つている。この塔何時の頃か手広の青蓮寺(鎖大師)に移したところ夢枕に立ってもとの地に帰りたいと泣いたので、再び旧地に帰したと伝えるものである。時々買い手ができて売られそうになると、その関係者が不慮の災難を受けると恐れられている。
大船に向って更に行くと左手の小高い山の上に山崎天神社がある。

高い石段をのぼると北野天神社の社前に出る。応永12年銘の室町初期の石造宝篋印塔が一基境内にある。この天神社の丘は新田義貞鎌倉攻めの時北条方が砦としたところで、幾段かの平場が作られていて鎌倉末期の山城のような有様が残っている。

大船へはモノレール下の自動車専用道路を行き横須賀線の上を越えると程なく駅に着く。

 


第二部—1 【城塞都市鎌倉の成立】


城塞都市鎌倉の成立

鎌倉の地は古代は海が内陸へ入り込んでおり、鶴岡八幡宮の辺りも海だったと云われている、海面が現在より十米程度高かったようだ。それにより生じた谷々が五十五の多きに達している。山々が三方を囲み南が海の地形になっている。その形が竈(カマド)のような格好をしているので鎌倉という名は、カマドから来ているという説がある。山際に多くの谷(鎌倉では谷を谷戸とよんでいる)があるので、谷を倉といったらしい。周りの山々は百米~百五十米の低山であるが、当時は現在より蔦や蔓、草木が生い茂り険しいものであった。

鎌倉に入るには草深い峠を通らなければ入ることができなかった(七切通し)。この様な地形に目を付けたのが、源頼朝である。守りやすく攻めにくい天然の要害になっていて城塞の形をなした。のちに鎌倉城と云われた。

頼朝の父義朝は寿福寺の地に住んだと云われている。頼朝が治承四年(一一八〇)十月鎌倉に立ち寄ったのも父が住んでいた所ということと、千葉常胤の議に従っての事で、このことがのちに鎌倉に本拠を置くことになる。

頼朝は京都の町と同じような形にしたいと考え町を形づくって行ったが、鎌倉の土地は狭いため、大きい路は若宮大路(海より八幡宮へ向かう路)を中心に左右一本ずつしか出来なかった。それは、武蔵大路と小町大路である。

城塞都市鎌倉の成立

(写真はいずれも筆者:井上 誠一氏撮影)


第二部−2 【鎌倉街道の発祥】

鎌倉街道は関東および周辺諸国の武士団が鎌倉へと馳せ参じたみちであった。これは江戸時代における五街道のような立派なものでなく道幅も狭く、新設されたものでなく旧来の道をつなぎ合せ手直しした程度のものであった。
「新編相模風土記稿」によれば鎌倉街道に五道をあげているが、いずれも鶴岡八幡宮へ詣でる巡路で、逆に言えば鶴岡八幡宮を出発点として諸国に向かっている。

「新編相模風土記稿」は次のように記している。

■鎌倉街道の諸道
① 東海道より鎌倉に向かう道
東海道藤沢大鋸町より東へ分かれ、柄沢村に達し、それより渡内等の村々をへて山之内村に至る道程一里半余、幅五尺より二間におよぶ。これを藤沢宿よりの鎌倉道という。(巨福呂坂切通しを通り鶴岡八幡宮に至る)
② ①の江道
江ノ島道と云い、これも大鋸町より東に折れ弥勒寺村に達し、川名、片瀬,二村をすぎ江ノ島にいたる。道程一里半ばかり、幅およそ二間の道である。(極楽寺坂を越え鶴岡八幡宮に至る)
③ 保土ヶ谷から山之内村に合する道
武州久良岐郡別所村より永谷上村に入り飯島、笠間、小袋の三村をへて、山之内村に合す。道程二里余り、幅二間ばかり(巨福呂坂切通しを通り八幡宮に至る)
④ 武蔵野をとおる鎌倉街道の幹道
東海道戸塚宿より東にわかれ、上倉田村より下倉田、長沼、飯島、笠間村にいたり③に合す。戸塚より先は名瀬、二俣川、今宿、白根、中山にいたり、中山で一つは二子玉川、世田谷、渋谷、川口、鳩ヶ谷、古河より宇都宮へ向う奥州道(中道)である。一は長津田から町田、小野路をへて府中、国分寺、所沢へたどる上州信濃道(上道)である。
⑤ 武州金沢より鎌倉への道
朝比奈切通しから金沢、弘明寺、平間、池上、高輪浅草、国府台、上総や下総へ更に常陸国府へ通じている。武州久良岐郡大戸村より峠村に入り朝比奈切通しより鎌倉に達す。道程20町ばかり、はば6尺の道である。

しかしながら江戸時代(文化文政の頃)「武蔵国風土記稿」が編纂された頃は、大方廃れて古道と称されるようになった。

■鎌倉街道の特色
① 道は直線的であり、最短距離を通り鎌倉に向っていた。道は低地をさけ丘陵部を通っている。しかも坂道や谷間はできるだけ少なく山腹の平坦地をえらんでいた。これは行軍が容易であり、かつ敵の襲撃を充分配慮したものであった。
② 人馬の休憩や宿営地となる場所は丘陵をこえた低地の広い所であった。そこには必ず川が流れている。それは飲料水が得やすいからであった。宿駅はこのような川の近くに作られていた。
③ 道筋には寺社が多い、神社では八幡宮を筆頭に熊野宮、諏訪社、杉山神社、氷川神社が多くみられ、寺院では、禅宗、時宗、日蓮宗等の鎌倉仏教が目立っていた。これは寺社の進行が鎌倉街道を媒介にして伝播していったらしい。
④ 豪族の館城跡や古戦場の多いことも鎌倉街道の特色である。

■新田義貞が攻め上った道
① 元弘3年(1333)5月8日新田の生品明神で兵を集めて後醍醐天皇の綸旨(天皇の勅命を書いた文書)を開き3度拝してこれを読み上げ笠懸野に進出した。初めはわずか150騎、夕刻には越後の兵2000騎、甲信の兵5000騎が加わり、5月9日に武蔵野国に入り、足利高氏の子千寿丸が200騎で馳せつけた夕刻には総兵力20万騎になったと「太平記」では記している。北条方も金沢武蔵守貞将と奥州路より5万騎、桜田治部大輔貞国を大将として信濃路より6万騎で入間川に向かわせた。
② 5月11日小手指原で合戦。日没に新田軍は入間川に、北条方は久米川に陣取った。
③ 5月12日新田軍早朝より久米川の陣を攻め、その結果新田軍が勝って北条方は分倍河原へと退いた。
④ 5月13,14日は戦いなかった。北条方は12日の敗戦を聞いて、新たに10万騎をおくって14日夜半府中に到着した。
⑤ 新田側は5月15日未明府中合戦を試みたが、失敗し狭山市堀兼まで退却した。
15日夕刻、三浦大多加、平義勝が兵6千騎で加勢してきたので、16日未明、北条方の油断をついて攻め、再び新田方が勝利した。
⑥ 5月16日関戸で休養、ここで軍を三手に分け極楽寺切通し、巨福呂坂、化粧坂の三方より鎌倉に攻め入ることにした。
⑦ 5月18日相州村岡で戦い鎌倉攻めに入るが、北条勢の抵抗強く鎌倉に入ることが出来ず義貞は迂回して稲村ケ崎へと向かった。
⑧ 5月22日義貞は稲村ケ崎で海神に剣を捧げここを突破し鎌倉に攻め入った。激戦が続いたが、夕刻に戦況は北条方が不利になり北条高時以下主従364人が北条氏の菩提寺、東勝寺で自害し北条氏は滅亡した。


第二部−3 【鎌倉七切通し】(京都よりから)

古代から中世にかけて、鎌倉に入るのには峠(鎌倉では切通し)を越えないと入ることができませんでした。その入口は七つありました。七つ口とも言われていました。京都よりから七つの切通しです。

① 極楽寺切通し
極楽寺切通しは、極楽寺開山、忍性が切り開いたと伝えられ、腰越、片瀬を経て東海道へ通じ、京都との往復に欠かせない出入口でした。現在では、拡幅され、車が往来する道路になっていますが、鎌倉時代には、現在の切通しの山の上に建つている成就院の門前を通る急傾斜の細い崖路だったようです。

鎌倉幕府滅亡の1333年、新田義貞の鎌倉攻めの際、ここで激しい戦いがありましたが、城門のような強固な木戸で切通しを固く閉ざし、幕府方による数万の兵力の結集と海上の船の上から矢を射る攻撃で、新田軍の攻めをものともせず、新田軍の鎌倉への侵入を防ぎました。そして、ここからの侵入をあきらめた新田軍は稲村ケ崎にまわり、鎌倉へ攻め込んだと伝えられています。このことからも極楽寺切通しが敵の侵入に対して、いかに強固につくられていたかを知ることができます。                   

また、切通し沿いには鎌倉十井のひとつである星の井、福徳や知恵を人々に授ける虚空蔵菩薩をまつる虚空蔵堂、室町時代の鎌倉執事であった上杉憲方の墓と伝えられる石塔もあります。

② 大仏切通し
大仏切通しの開かれた確かな時期は不明ですが、朝比奈切通しや巨福呂坂切通しと同じ1240年(仁治元年)から1250年(建長二年)頃といわれ、梶原・山崎を経て藤沢・武蔵方面へ通じる生活、軍事の要路となっていたようです。

1333年(元弘三年)の鎌倉攻めの際に新田義貞は軍勢を巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂の三手にわけ義貞自身は洲崎(現在の深沢・山崎・寺分の一帯)を経る中央軍の指揮を取りましたが、大仏切通しを目前とした洲崎口で赤橋守時率いる幕府の一軍と激戦となりました。この激戦に幕府軍はやぶれ義貞軍は一挙に山ノ内・極楽寺に進出し鎌倉幕府滅亡は時間の問題となりました。このことからも、いかに大仏切通しが軍事的に重要だったことが伺えます。

③ 化粧坂切通し
化粧坂切通しは、1333年(元弘三年)新田義貞の鎌倉攻めの際に幕府軍との激しい戦いの場となりました。新田義貞は三手にわけた部隊のうち主力な部隊をこの切通しへ向け鎌倉へ攻め込んだと云われています。このことから、鎌倉の中心部に近いこの切通しは、軍事的に重要な場所だったと云えるでしょう。また、切通しは藤沢から武蔵の国へ通じ、この付近は鎌倉中で売買所を構えてもよい場所の一っだったため、鎌倉時代の後期には賑わいを見せていたと云われています。

化粧坂という興味深い名の由来には、様々な説が伝えられています。その一つには討ち取った平家の大将の首を化粧し、ここで実検したことから名付けられたというものがあります。また、木がよく生い茂っていたので木生(きは)えや気勢(きはえ)と言われていたのが化粧に変わったということも伝えられています。

つずら折で急勾配の化粧坂切通しは現在でも樹々が生い茂り、鎌倉の七切通しのなかでも比較的、当時の様子をとどめ、国の史跡にも指定せれています。また、扇ガ谷から切通しを登るとその山頂には源氏山公園が広がり、芝生の広場には源頼朝像もみられます。

④ 亀ケ谷坂切通し
亀ケ谷坂切通しは扇ガ谷から山ノ内を経て、武蔵の国へ通じる玄関として重要な出入り口でした。切通しが開かれた時期は不明ですが、吾妻鏡のなかで北条泰時が1240年に山ノ内道を修造したと伝えられているので、この頃に整備されたのかもしれません。

当時の切通しは現在よりはるかに急勾配の坂道だったと云われています。このことを伝える逸話の一つに、建長寺の大覚池にいた亀がこの坂を登って行き、急勾配のため途中で引き返してしまったというものがあります。この話から亀返坂とよばれていたとも言われています。それが、いつのころから亀ケ谷坂とよばれるようになりました。また、切通しの付近は、鉱泉が湧き、湿地が多いことから蛇や亀がたくさん生息していた所だったようです。

扇ガ谷には、源頼朝の娘、大姫の守り本尊と伝わる岩船地蔵や薬師如来を本尊とする薬王寺などがあり、現在も切通しは、扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道として地元の人々や観光客に利用されています。

⑤ 巨福呂坂切通し
巨福呂坂切通しは、執権北条泰時が安東藤内佐衛門尉光成を奉行として1240年(仁治元年)に造られました。鎌倉の北口として開かれたこの切通しは、山ノ内方面からの往来を容易にしたとともに、幕府の防御を兼ね、軍事的にも重要な役割を果たしていたようです。

1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際には、極楽寺坂切通しや化粧坂切通しと同様、激しい戦いの場となりました。結果的には義貞に稲村ケ崎から攻め込まれ、この場所も堀口貞光が率いる一軍に破られてしまいましたが、最後まで正面から敵と戦った城郭であったと言われています。

昭和44年に国の史跡に指定されたこの切通しは、現在の小袋坂と呼ばれている県道よりはるかに高い西側の山中を登る急坂でした。今では山頂付近に民家が建ち並び通り抜けはできなくなっていますが、切通しの上の口には、幾つもの庚申塔と道祖神が見られ、そのなかには、刻銘によって江戸末期に行われた巨福呂坂の道路修造のことが分かるものもあります。
      
⑥ 朝比奈切通し
朝比奈切通し
朝比奈切通しは、鎌倉時代の執権、北条泰時が自ら監督し、1241年(仁治二年)に工事が
着手されたといわれています。完成の時期は不明ですが、源頼朝につかえ、初代、侍所の別当であった和田義盛の三男、朝比奈三郎義秀という豪傑が一夜にして切り開いたという伝説が有名です。工事に多くの御家人が携わり、あまりに早く切通しが完成したためこのような伝説ができたのでしょう。

この切通しは鎌倉と六浦を結ぶ道として開かれました。当時、六浦は対岸に千葉一族がひかえ、また、早くから塩田があり製塩の地だったことや、各地からの物資が荷上げされる六浦港があることから、幕府にとって軍事的、経済的に重要な地だったようです。このため、幕府は六浦に通じる朝比奈切通しが、必要だったのでしょう。

朝比奈切通しは鎌倉七切通しの中でも最もよく旧状をとどめ、昭和44年には国の史跡にも指定されています。また、初夏には新緑が生い茂り、切り開かれた山肌からは当時の様子が偲ばれます。
      
⑦ 名越切通し
名越切通し名越切通しは、逗子市との市境にある名越トンネルの上に位置し、かつては、ここを境に西に鎌倉、東に三浦と地名が分かれ、鎌倉から三浦へ通じる道として開かれました。また、北条氏が三浦一族の攻めに備える砦として、鎌倉七切通しの中でも最も重要な軍事的拠点として重視されていました。しかし、ここでは大きな戦いはなかったようですが、今でも切通しには山道の両脇に樹々が生い茂り、当時、大きい岩を切り開いて敵の攻めに備えた様子を感じることができます。

この切通しは、鎌倉七切通しの中でも比較的、当時の姿を良くとどめており、昭和41年には国の史跡にも指定され、付近には多くのヤグラ群と四季折々の花が見事な曼陀羅堂跡もあります。


第二部−4 【鎌倉の古刹
鷲峰山(*1) 真言院覚園寺(*2) と 錦屏山(*3) 瑞泉寺(*4)】

*1:しゅうぶさん *2:かくおんじ *3:きんびょうさん *4:ずいせんじ

覚園寺愛染堂鎌倉時代創建の最も鎌倉らしい寺覚園寺、カヤブキ屋根の古刹、いつも清々しい想いをさせてくれる寺として推奨したい。

さらに四季折々花いっぱいの寺瑞泉寺花の寺として何回も訪れたい。

【覚園寺愛染堂】

腹切りヤグラ
また、周囲は四季折々みどころも沢山あり谷戸の美しさも残っている。

わきみちの山影にはたくさんのヤグラ(中世の墓)があり五輪塔が中にあるものもあり往時を忍ぶことができる。

【腹切りヤグラ】

鎌倉には谷戸がたくさんありそれぞれに名前がついている。谷戸の奥深くには堂宇があるが、最も鎌倉らしい寺といわれるのが薬師堂ケ谷の奥にある真言宗の覚園寺である。建保六年(一二一八)北条義時がこの地に建立した大倉薬師堂が前身といわれる。それを永仁四年(一二九六)北条貞時が、再度の元寇襲来が発生しないことを祈り覚園寺と改めた。茅葺の薬師堂には文和三年(一三五四)に修理した時に足利尊氏が書いたという文字が記された木片が掲げてある。

建保六年(一二一八)将軍源実朝が鶴岡八幡宮参詣の折、一行の北条義時の夢枕に戌神将(薬師如来に従う十二神将のひとつ)が現れ、「来年の参拝に加わってはならぬ」と告げた。義時はこれは日ごろ信仰する薬師如来のお告げと受け止め私財を投じて寺を建てた。翌年の参拝時にお告げを思い心進まぬまま御剣の役として行列に加わった義時は門のところで白い犬を見てにわかに気分がわるくなり剣を源仲章にゆずって退出した。拝賀の式のあと仲章は実朝とともに公暁に殺された。このとき戌神は薬師堂に見えなかったと、義時は後日語っている。こんな由緒ある寺である。

この薬師堂の他愛染堂、地蔵堂がある。特に地蔵堂にある地蔵菩薩は黒地蔵の名で呼ばれ親しまれている木造の地蔵菩薩立像である。黒地蔵の名の由来は地獄の亡者を救うために鬼に代わって火を焚いたため、からだが黒くすすけていると言い伝えている。地蔵の慈悲深さをものがたる伝説は多くの信仰を集めている。薬師堂の裏山には鎌倉時代から室町時代にかけてのヤグラ(横穴式の墓)が多数あり百八ヤグラの名がある。現在、寺の拝観は時間制で住職が丁寧に堂宇の数々を説明して下さっている。本尊は木造薬師如来坐像(国重文)両脇侍の日光、月光両菩薩のほか十二神将立像、阿弥陀如来坐像、愛染明王坐像、鉄造不動明王坐像、と黒地蔵(国重文)がある。

毎年八月十日の黒地蔵の縁日にはたくさんの参拝者が訪れ九日の深夜から翌十日正午まで鎌倉の風物詩となっている。

正月も過ぎ二月が近くなると境内の奥の庭に福寿草の可愛い花が地面から顔をのぞかせるおくゆかしさもある寺である。いつの時でも心を落ち着かせてくれる。

瑞泉寺山門瑞泉寺へは覚園寺から二十分ぐらい歩く、道半ばで源頼朝が建立した永福寺の跡を見ながら二階堂川を渡ると紅葉ケ谷に入る。山が次第に近づき懐に臨済宗の瑞泉寺が建つている。
夢窓疎石が禅院を相応の地として選んで嘉歴二年(一三二七)に建立した。三方の山が秋になると満山が紅葉し寺の背後に錦の屏風のように広がることから錦屏山と名づけられた。
【瑞泉寺山門】

初代鎌倉公方の足利基氏が夢窓疎石に師依し基氏以後、鎌倉公方代々の菩提寺となった。寺も大きくなり関東十刹第一位の格式を誇った。夢窓疎石は作庭にも力を注いで、岩盤を削りだした岩庭とも称すべき庭は本堂裏に近年発掘復元され国の名勝に指定されている。本堂には木造千手観音像のほか釈迦牟尼像、、夢窓疎石像(国重文)がまつられている。地蔵堂には「どこも苦地蔵」と呼ばれる地蔵像、が安置されている。境内は花の庭として有名で早春の梅から黄梅、枝垂れ桜、芙蓉、桔梗、紅葉、冬の水仙等四季の花が咲き何時でも花一杯の寺である。

訪れれば心がなごむ静寂の寺で、花に魅せられる寺として何回でも訪れたくなる。


第二部−5 【鎌倉仏教と鎌倉五山】

はじめに

仏教は百済の聖明王より公伝された。
西暦五百三十八年説の(上宮聖徳法王帝説)や(元興寺縁起)と五百五十二年説の(日本書紀)とされ、欽明天皇十三年としている。

欽明天皇は尊い教えだとして大臣たちに受け入れを図った。受容派の蘇我氏、反対派の物部、中臣氏でその後両者の対立があった。最終的に蘇我氏が勝利し仏教の受け入れが決まった。

その後多くの寺でらが建てられた。奈良時代は国の仏教として国中に国分寺と国分尼寺が建てられた。平安時代前期には天台宗の最澄、真言宗の空海が朝廷や貴族の支持を得て盛んになった。しかしながら平安時代中ごろに中国から末法思想が流入した。佛典上の知識に過ぎなかった末法思想が次第に朝廷を始め貴族や一般の人々にも広く行き渡り不安感を与え人々は末法の世の到来におびえていった。

さて末法とはどういうことか、中国では釈尊の入滅を「周書異記」より紀元前九百四十九年とした。それから二千一年目が末法元年に当たり我が国では一〇五二年と計算されるのである。釈迦の入滅後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅するとする思想である。

正法、像法の時代を経て教(仏説)のみ残り、行(実践),証(その結果)が失われて末法に入るとされる。この三時を過ぎると仏滅の時に入るという。
中国では天台の慧思(えし)、浄土門の道綽(どうしゃく)によって鼓吹された。日本では正法、像法各千年とする説に基づき、一〇五二年(永承七年)を末法第一年とする考えが広く行われた。仏典上の知識に過ぎなかった末法思想が、あたかも古代貴族政治の崩壊期に当たり,末法の危機感は世上を風靡した。

現実に末法元年には長谷寺の焼失六年後には当代無双の大浄土寺、法成寺の焼失等が起こつた。末法思想は災異、凶事などが起こるたびに人々の不安をあおり真実味をおびていった。

このような状況の中で源信の「往生要集」を基に浄土宗を起こした法然を始めとし親鸞、日蓮らの多くの祖師達は末法の克服をめざし新仏教を創始した。
{往生要集=平安時代の仏教書、源信の撰述、九八五年成立、三巻。阿弥陀佛の浄土に往生するために必要な経文の類を抜粋したもの。十章より成り、地獄の様相と極楽の荘厳を説き念仏を勧める。思想、文学、美術の上に多大の影響を及ぼし、地獄変、極楽変は本書の模写に基づく。往生とは現世を去って極楽浄土に生まれる。}

鎌倉五山

南宋より移入した官寺制度で朝廷や幕府が住持を任命する最高の禅宗寺院五寺のことで鎌倉五山は鎌倉にある禅宗の五大寺のこと。
鎌倉後期北条氏にょって五山の制度がつくられたとされる。年々勢力を増す禅宗寺院を幕府の管理下に置くため定められてとされ、後の足利氏も継承した。
至徳三年(一三八六年)建長、円覚、寿福、淨智、淨妙寺の順位が定まった。

 

円覚寺釣鐘

円覚寺釣鐘

 

建長寺仏殿全景

建長寺仏殿全景

 

寿福寺本堂

寿福寺本堂

 

浄智寺釣鐘

浄智寺釣鐘

 

 第一位  臨済宗建長寺派
建長寺
(建長五年、一二五三年創建)
北条時頼の創建
開山、宋の僧、蘭渓道隆
他、塔頭 円応寺(閻魔堂、十王堂)
はじめ十二寺院
 第二位  臨済宗円覚寺派
円覚寺
(弘安五年、一二八二年創建)
北条時宗の創建
開山、宋の僧、無学祖元 
他、塔頭 雲頂庵、はじめ十九寺院
 第三位  臨済宗建長寺派
寿福寺
(正治二年、一二〇〇年創建)
北条政子の創建
開山、栄西
 第四位  臨済宗円覚寺派
淨智寺
(弘安四年、一二八一年創建)
北条師時と夫人の創建
開山、大休正念と兀庵普寧
 第五位  臨済宗建長寺派
淨妙寺
(文治四年、
一一八八年臨済宗に改宗)
足利貞氏の中興開基
中興開山は月峯了然

(塔頭=禅宗で門弟が祖師の墓所を守り、小庵を営み塔頭と称した事に始まる。のち広く諸宗の本寺の境内・寺辺にある子院をさし、院、庵、坊、斎軒などと称した。)


第二部−6 【「仏教宗派」「末法思想」】

仏教宗派

第二次世界戦争以前公認されている仏教宗派は十三宗五十六派の伝統的な宗派にかぎられていた。その十三宗とは奈良仏教系の三宗(華厳宗・法相宗・律宗)平安時代初期に成立した天台宗・真言宗、平安後期から鎌倉時代にかけて成立した浄土教系四宗(浄土宗・浄土真宗・時宗・融通念仏宗)禅宗系二宗(臨済宗・曹洞宗)および日蓮宗に、近世初期に成立した禅宗系の黄檗宗を加えたものを指す。

末法思想

中国では釈尊の入滅を「周書異記」に基ずいて紀元前九四九年としていた。それから二〇〇一年目が末法元年に当たり、西暦で云えば永承七年一〇五二年と計算されるのである。

公卿で蔵人頭であった藤原資房の日記「春記」に「永承七年八月、長谷寺焼失、霊験第一年なる所なり。末法の最年に此の事有り之れ恐る可し」と記されている。観音信仰で参詣するものが絶えなかった長谷寺の焼亡に衝撃を受け、これが末法元年に起こったことに恐怖感さえ懐いていたことが伝わってくる。
(末法元年長谷寺焼失、その六年後一〇五八年藤原道長が摂関家の威信を掛けて建立した当代無双の大浄土寺院であった法成寺が焼失した)さらに一〇五一年~一〇六二年は前九年の役が起こっている。

末法思想は災異、凶事などが起こるたびに人々の不安を煽り真実味を帯びていった。

仏教宗派図表


第二部−7 【鎌倉の歴史】

鎌倉が文献に姿を現すのは「古事記」景行天皇条が最初で「倭建命御子足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田別之祖也、(やまとたけるのみこあしかがみのわけのみこは、かまくらのわけ、をず、いわしろのわけ、あきたわけのそなり)」とみえる。この鎌倉とは後世の鎌倉郡のことであろう。

鎌倉郡は国郡里設置の八世紀はじめに置かれたと考えられる。
源頼朝が鎌倉に入る前には色々の文献からでも良く判らなかつたが、鎌倉市御成小学校(鎌倉市役所隣)内発掘調査で古代の研究上画期的な大発見があつた。昭和59年~平成4年にかけて行われた調査で八世紀~十世紀の大規模な建物跡や掘込基礎が掘り出され建物跡の一隅から天平5年(733)銘の木簡が出土した。これが奈良時代の郡衛(郡役所)の遺跡ではないか、鎌倉の中枢部であらうということが解かった。政庁や高床式の倉庫の跡が出てきた。

奈良時代の「相模国封戸祖交易帳」という相模国司解、すなわち相模守の上申書や正倉院古裂(こぎれ)、墨書銘また平安時代の「和名抄」によれば鎌倉郡は沼港(沼浜)、鎌倉、埼立(さきたて)、荏草(えがや)、尺度(さかど)、大島、方瀬(かたせ)などの郷から成っていたようである。後世の鎌倉は鎌倉、荏草などの郷に当るらしい。奈良から平安時代の東海道は鎌倉を通り三浦半島をへて走水の瀬戸より房総半島の上総の国に渡る道順であったが、鎌倉はまだ寒村に過ぎなかった。

平安中期清和源氏の源頼信が相模守に任じられ、その子頼義、義家と子孫が続き、頼義は頼信いらいの源氏の氏神で京都山城の石清水八幡宮の分霊を鎌倉由比ヶ浜に勧請したのが、現在の元八幡で、のち頼朝が大臣山の下に移し鶴ヶ岡八幡宮とした。

由比ヶ浜の元八幡鳥居

(由比ヶ浜の元八幡鳥居 撮影 井上誠一氏)

頼義は坂東の国守を歴任し坂東との縁故をふかくした。その子義家も平将軍貞盛の孫上総介直方の鎌倉の地を譲り受けた。このようにして鎌倉は源氏相伝の地になった。

義家の曾孫で保元の乱や平治の乱で活躍した義朝は鎌倉寿福寺の地に住んだといわれている。頼朝が治承4年(1180)10月挙兵の折り鎌倉に立ち寄ったことは後々鎌倉に幕府を築く基になった。
寿福寺山門

(寿福寺山門 撮影 井上誠一氏)


第二部−8 【鎌倉北条九代について】


(1)北条氏の出自
北条氏の出自は明らかではないが、現存する系図を信ず限りにおいては、平将門の乱の鎮定に功のあった平貞盛の子維時に系譜をひき、坂東平氏に入らぬが平氏の一流となっている。維時の子直方があり、その曾孫の時家が伊豆介となったことから、その子孫が伊豆北条に土着し、伊豆の在庁官人となり北条を名乗ったという。そして時家の子時方、その子時政と続くのである。しかしこの系譜をどこまで信ずべきか疑わしいと云われている。しかし源氏の流人頼朝を平家から預けられたことからも察せられるように時政の時代はこの地方の有力者でしかも平家に近い関係にあったのだろうと推測される。

(2)北条氏系図
北条氏系図

(3)北条九代の人物
【時政】
頼朝は時政に対し草創の業の良き相談相手と信た。時政も政子の父の関係から頼朝の覇業に一身の運命をかけて協力した。頼朝の命令を忠実に代行した。進取的な打算的性格で時勢を見る洞察力があった。頼朝亡き後御家人の上に立ち幕府を取り仕切った。後の北条政権の切っ掛けを作った。
【義時】
政子の弟でありその上頭脳明晰であった。頼朝に非常に可愛がられ常に側近にあった。頼朝の政治手法を目の当たりに学んで後に執権になった時に応用して行った。理性的な性格で又勇猛な武将であった。承久の乱の始末では非情な性格も見せた。駆け引きも上手で北条政権の基盤を作った。
【泰時】
子供の時から頭脳聡明で頼朝に可愛がられた。泰時も頼朝を深く尊敬していた。学問的才能もあり実朝とも良い関係にあった。承久の乱の活躍も武将としてすぐれていた。又仁の人で一二三〇年代の飢饉に際しては徳政令を出して人民の税を軽くしたと伝えられている。執権として御家人の規律の「貞永式目」を制定し守らせた。北条政権を得宗家を中心にする様決め以後の安泰を図った。
【時氏】
泰時の子で京都六波羅探題に勤務するが、病になり鎌倉に帰り二十八歳で死去する。
【経時】
泰時の孫、泰時の死後執権になるが四年後に死去。
【時頼】
泰時の孫、経時に替わり執権になる。頭脳良く、当初の名越一族の謀判を乗り越え続いて、最大のライバル三浦一族を宝治の合戦で滅ぼし北条政権を安定のものにした。母が松下禅尼で幼少より倹約を旨と教えられ、成人後も実行した。鎌倉の治安も確立多数の倹約令を発している。禅に帰依し建長寺を建てた。
【時宗】
元寇に対し日本中を立ち向かわせる努力をした。権力を一身に集中させ、朝廷も随わせた。これにより何とか元寇を逃れる事が出来た。迷う心を禅により克服しようと、蘭渓道隆と無学祖元の教えを受けた。円覚寺を建立し元寇の死者を弔った。心身共に消耗し三十四歳で死去した。
【貞時】
時宗が早く死んだので年若くして執権になった。当初霜月騒動は内管領の言いなりで安達一族を滅ぼしたが成人してからは内管領の平頼綱の謀判を防ぎ得宗家の権威を取り戻した。一心に権力を集めていった。早くに執権を譲ったが、得宗として絶大な権力を示した。しかし貞時の子供男子四人はいずれも幼少で夭折し高時一人が成人した。
【高時】
貞時の子で成人するまで繋ぎの執権が起った。その間内管領の力が強くなり内管領、長崎円喜の言いなりの政治になって行った。執権当初はやる気があった高時であったが、頭を押さえられるたびに無力になり、娯楽にうつつを抜かすようになり、浪費家と言われ暗寓になっていった。

北条氏は四代執権経時以下は近親婚の影響ゆえか、皆短命であった。この影響が後半の執権政治を大きく乱した原因の一つであろう。


第二部−9 【源氏、関東に進出】

此頃の上総の国は親王任国であり、介が事実上の国守として赴任したのである。

それより関東は平氏の地盤となった。高望王から四代目にあたる平忠常は武蔵の国の押領使・上総介・下総権介などを歴任して、上総や下総の地に住み、坂東の受領(国司)をしのぐ威勢を振っていたらしい。こうした威勢が後に起こる忠常の乱に際して房総三国の民衆を震駭させるのである。

長元元年(1028)ついに平忠常の乱が起きる。下総の国府や安房の国府をおそう暴挙にでた。忠常の暴挙を国家に対する反乱と朝議で決定直ちに追討使を派遣しようということになった。当初、検非違使平直方と中原成道とが任命されたが、追討に失敗し召還解任された。かわって源頼信が追討使に取り立てられ、甲斐守に任じられて忠常を追討することになった。

長元四年(1031)四月頼信が任国の甲斐まで下向してきたとき、これを聞いた忠常はみずから甲斐におもむき頼信に降伏した。あっけない結末であった。それ以来源氏の勢力が関東で拡大する。頼信は相模守になり、頼信の子頼義も相模守に更にその子義家も相模守で坂東に地盤を創った。

源氏はさらに前九年の役、後三年の役で関東における武将の位置が確立していった。しかしながら義家以後源氏は将としての器の人物が出なかった。曾孫の義朝が京で生まれたが、上総で育てられ、上総を地盤として下総さらに鎌倉へと進出してきて大庭御厨の争奪などに係わり鎌倉を地盤とするようになった。平治の乱で平清盛に破れ源氏は衰退するがやがて頼朝により復活する。

【押領使】
平安時代諸国に設置された。令外官の一つ。地方の内乱や暴徒の鎮定、盗賊の逮捕などに当たる。

【令外官】
令に規定のない新置の官司・官職。職員令の欠を補うためにおかれた常置の官、特定の目的のための臨時の官など成立事情は様々である。

【検非違使】
平安時代の令外官。810年ごろ置かれた。初め京都市中の殺人・強盗・謀反人などの逮捕が中心であったが、のちには訴訟・裁判も行い、弾正台・刑部省・京職などの仕事を吸収し900年以後はすべての犯罪を専決処断するに至り強大な権力をもった。武家の興隆に伴い衰退、鎌倉以降は有名無実化した。

【御厨(みくりや)】
古代・中世、天皇の朝夕の膳を調進する所領や伊勢神宮・賀茂社の神領のこと。内容的には荘園と等しい。  


第二部−10 【良寛さん】


良寛さん本名、山本栄蔵、宝暦八年(一七五八年)越後出雲崎(新潟県出雲崎町)の大名主橘屋の長男として生まれた。幼名を栄蔵といい幼少より勉学好きで漢学を学びました。繊細な性格で時々もの想いに沈む少年で昼行灯といわれました。

当時出雲崎の街は佐渡金山の窓口として賑わい橘屋はもう一つの大名主京屋と繁栄を競っていました。

良寛は十八歳で名主見習役となりましたが官民の複雑な仕事をこなせるはずもなく、悩んだすえ地元の光照寺の玄乗破了和尚の許で出家します。その後、橘屋は父以南が隠居し弟の由之が家を継ぎました。

二十二歳の時住職の師大忍国仙和尚に随って玉島(岡山県倉敷市)の円通寺に入りました。円通寺に入った良寛は熱心に修業に励みました。道元禅師の「正法眼蔵」はじめ多くの仏典を直接学びました。三十三歳の時師国仙より印可として「大愚」の号を授けられ「良や愚の如く道転(みちうたた)寛し、、騰々任運誰か看るを得ん」という偈(げ)与えられました。(良寛よ、お前の心は広く自由だお前の資質はあらゆる道に通じている。世の人々はお前を愚か者と思うかもしれないが気にせず悠々と生きてゆくがよい)

徹底的に自らを見つめよ、そこからすべてを捨てて立ち直るしかない、愚に徹し始めて何にも計らうことなく自然の真実のままに生きるあの富士の独峰のように孤独で汚れない自由と同化できるというのです。

国仙師が翌年亡くなったので、良寛は諸国行脚にでます。三十四歳から三十八歳迄諸国を歩いています。
三十九歳寛政八年郷里越後へ帰る決心をして帰国します。寺泊の郷本の海辺の塩炊き小屋に仮住します。

  一衣(いちえ)一鉢(ぱつ) 裁(わず)かに身に随う
  強いて病身を扶(たす)けて 坐して焼香す
  一夜蕭々(しょうしょう)たり 幽窓(ゆうそう)の雨
  惹(ひ)き得たり 逆旅(げきりょ)の情

四十歳になんなんとして、身に持っているものとて墨染の衣と托鉢の鉢ひとつである。夜更けに倒れ崩れようとする身をむりに起こし香を焚き座禅をくんでいる。暗い窓辺の外では雨の音ばかりがしきりである。いつたいこの放浪の旅十年自分は何をしてきたのか想いは夜のように暗い、これが良寛の帰郷であった。

当時実家では弟由之が傾きかけた家運を必死で支えていたので、なぜか近ずこうとしなかった。助けられようともしない良寛であった。

(きてみれば、わが故郷は荒れにけり、庭もまがきも落葉のみして)

現実を受け入れなければならない良寛があった。

  少年 父を捨てて他国に走り
  辛苦 虎を画(えが)いて猫にも成らず
  人有り 若し箇中の意を問わば
  箇は是れ 従来の栄蔵生

一生懸命修行を積んで、必ずや悟りをひらき、虎の如くにならうと思っていた己は、いま猫にさえもなっていない、いまそうした努力、向上の我欲から身を離して、わが身を振り返ってみれば昔の栄蔵とひとつも変わっていないではないか。

四十の年に国上山の五合庵に落ち着くことになった。五合庵は国上寺の中興の祖万元恵海が庵を結び一日五合の米だけで過ごすという簡素な暮らしにちなんで五合庵と呼ぶようになった。わずか百坪ほどの空き地に萱葺きの六畳一間ばかりの茶屋風の庵である。現在の物は大正六年に再建されたものである。
良寛がこの庵に住んで昼は町や村へ托鉢にでかけ、子供らと手まりやおはじきをして遊んだのである。

  索々たり五合庵  室は懸磬(けいけい)の如く然り
  戸外杉千章    壁上偈(げ)数編
  釜中 時に塵あり  竈(そう)裏更に煙なし
  唯 東村の叟(おきな)有りてなお敲(たた)く月下の門

いかにもわびしい五合庵で部屋の中に何もなく空っぽである。庵の裏山には杉木立がうっそうと茂っている。壁の上に偈が(悟りのしんきょうを示す詩)が数編書いてある。釜はときどきしか使わないのでほこりがたまっている。窯に煙の立つこともない。ただときおり村の友人が訪ねてきて、詩歌を見せ合って楽しむばかりである。

  やまかげの岩間をつたう苔水のかすかに我はすみわたるかも

世間からは消えたように生きている良寛の心境が託されている。

  夜もすがら草のいおりにわれ居れば杉の葉しぬぎ霰降るなり

あられの夜は杉の葉が落ちて庵の屋根をたたく音ばかり。その音はいっそうわが身の孤独を味合わせてくれる。だが、そのとき自分も夜いっぱいに拡がってゆくのを感じる。一見、静かでのどかに見えるその心の奥に激しい苦悩の嵐が吹き荒れていたようだ。良寛はそれを声高に訴えようとはしないが、良寛の漢詩にはときに内面の鋭い苦しみが吐露されているのである。

  此の生何の似たるところぞ、騰々として旦(しばら)く縁に任ず

  笑うに堪え 嘆くに堪えたり 俗にも非ず 沙門にも非ず

 まあ自由気ままに、こうしてなりゆき任せにいるが、なぜかわが身は僧でなければ、俗人でもない、一言で言えば中途半端ではないか。笑うのは自嘲であり嘆くのは自らの悲嘆である。実に辛辣な自己反省の声を聞く思いがする。苦い孤独な夜の反省が昼間の童心に返った己れの姿を厳しく見つめ厳しい反省へと誘い眠られぬ夜を過ごすのである。そのような心境の吐露として

  孤峰 独宿の夜   雨雪 思い悄然たり

  玄(げん)猿(えん) 山椒(さんしょう)に響き 冷澗潺湲(せんえん)を閉す

  窓前 燈(とう)火凝り(かこ)   牀頭(しょうとう) 硯(けん)水乾く

山の庵に一人寝る夜は雨まじりの雪が降りそそぎ、わが思いは一人悄然としている。峰に猿の鳴き声だけ聞こえるが谷間のせせらぎの音もない。私もただ茫然としてわびしさに身をゆだねたまま動かないそのためか、窓の灯は揺れもせず筆を執る気にもならないので硯の水も乾いたままである。

しかし良寛は村人に笑われても乞食をしながらも故郷を離れません。少数の詩歌の友達と詩や和歌を詠み、子供達と手まりやおはじきをして遊び生涯この地で過ごしました。

良寛は説教や議論は一切しませんでした。「愛語」と「戒語」という戒めを十八種残しています。また良寛は不言実行の人でした。甥の馬之助が放蕩の限りを尽くしているのを戒めてくれと頼まれましたが、気配を察した馬之助は近寄らず、三日間馬之助の家に泊まりこみ帰りの間際に、わしはもう山に帰る、ちょっと草鞋の紐を結んでくれんかと馬之助にたのみました。黙って紐を結んでいる馬之助の襟元に冷たいものが落ちてきました。見上げると良寛の眼から涙がしたたっていました。以来、馬之助はすっかり素行を改めたといいます。ぎりぎりの裸の心が人の心を打った、それこそが心を師とする道元禅師の説いた「愛語」に他ありません。

良寛は文化三年(一八一六年)五十九歳の時五合庵から国上山麓の乙子神社の草庵に移り住みました。托鉢に出子供達と遊び詩歌や書の練習に明け暮れました。

それから十年後体力の衰えた良寛は島崎村の木村家の屋敷内の離れに移りました。文政十一年(一八二八年)近くの三条で大地震が起きました。良寛は無事でしたが、被害にあった友人の山田杜皐に驚くべき書簡を出しています。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがれる妙法にて候かしこ」すでに良寛は運に任せてあるものをあるがままに受け入れ生死を超えて独り揚々と生きる境地に達していたのです。

それから三年後天保二年(一八三一年)正月六日良寛は和歌のやりとりなどで心が通いあった貞心尼や弟由之らに看取られ静かに息を引き取りました。

辞世の句は「散る桜、残る桜も、散る桜」道元禅師の「生死」(正法眼蔵)の訓にふさわしい最後でした。

【良 寛 名 歌】

  この里の桃のさかりに来て見れば流れに映る花のくれない

  飯乞うとわが来しかども春の野に菫つみつつ時を経にけり

  草の庵(いお)に足さしのべて小山田(おやまだ)の山田のかわずきくがたのしさ

  この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

  むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば

  山住みのあわれを誰に語らましあかざ籠に入れかえるゆうぐれ

  あしびきの山田のかかし汝さ(なれ)へも穂をひろう鳥を守(も)るてふものを

  月よみの光を待ちてかえりませ山路は栗のいがの多きに

  いにしへを思えば夢かうつつかも夜はしぐれの雨を聴きつつ

  たらちねの母がかたみと朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも


第二部−11 【鎌倉の石碑】


①永福寺旧跡②歌の橋石碑
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鎌倉の街を歩いていると道の曲がり角や、道の隅の方に大きな石碑がたっている所をご覧になる事があるでしょう。

鎌倉は明治時代の末期から大正時代の初期にかけて、多くの観光客が鎌倉を訪れ、別荘や保養所が急増しました。

名所、旧蹟などの保存は手付かず状態でほったらかしにされていたので、往時を偲ぶ景観や風景も失われかけていました。

大正4年(1915年)鎌倉同人会が結成され「歴史的事物の保護及び景勝地の保護」が掲げられました。

その一環として着手されたのが、名所、旧蹟の場所に記念の石碑を建てる事でした。

一番初めに建てられたのが大正6年(1917年)大蔵幕府旧蹟ほか5基で昭和16年(1941年)迄次々と石碑が建てられました。

建設資金は同人会の会員の寄付を基に、実際の建設作業は鎌倉青年会(のちの鎌倉青年団)の無料奉仕で実行されました。

太平洋戦争後も数基建てられ現在まで83基の石碑が見られます。

石碑の内容の文章は建立当時の難解な文語体で書かれていますが、源頼朝の鎌倉幕府創立時代から小田原後北条の時代まで約400年間の事蹟が書かれています。石碑の表題や碑文の選者は誰れなのか不明な点が多いようです。

③比企能員邸旧跡④北条執権邸旧跡
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⑤御霊神社石碑⑥青砥藤綱邸宅跡
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石碑の設置場所や石碑に書かれた記事が必ずしも史実に即していない部分もありますが、鎌倉の歴史を知る上には貴重な物と思われます。

現在石碑の保存が充分行われていないため、鎌倉市民の間から補修をして保存するようとの運動が持ち上がっています。

⑦足利公方邸旧跡⑧日蓮辻説法跡
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さて、その石碑は鎌倉市内全域に跨って建てられています。旧市内は及ばず、北鎌倉、大船地区、玉縄地区、梶原地区、腰越地区、七里ガ浜、稲村ガ崎等に建てられています。石碑83ケ所の資料を基に鎌倉を歩いて見てはいかがでしょうか。中世鎌倉時代の一端が見えてくるかも知れません。

 

目次

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井上 誠一 プロフィール

井上誠一(いのうえ せいいち)。神奈川歴史研究会 前会長。
昭和9年横浜生まれ。明治大学商学部卒。平成4年日本冶金工業(株)を定年退職。
平成元年神奈川歴史研究会に入会、平成13年会長に就任。
平成28年逝去されるまで、当会会長を務められました。
昭和58年鎌倉に在住以来、中世都市鎌倉を愛し学び、
永年ボランティアガイドとして活躍されました。